⑪
トウコの料理の腕は一流だった。
高級レストランでフルコースにも劣らない味と量で、しまいには、美聖は有難いのか、申し訳ないのか分からなくなってしまった。
しかも、二人とも、円の誕生日プレゼントまで用意してくれていて、何処で聞きつけたのか、降沢は円が欲しがっていた恐竜のフィギュアを、トウコは、画材屋に行かないと置いてないような、珍しい水彩色鉛筆をケーキの後に、そっと渡してくれた。
ご満悦の円は、恐竜のフィギュアで絵を描きたいと言い出して、アルカナの庭に、トウコを引き連れて丁度良い背景探しの旅に出て行ってしまった。
どうやら、降沢に触発されて、自分も絵を描きたいと思っていたらしい。
トウコのチョイスは、見事に的を射ていたようだった。
「結構、陽も落ちてきましたし、トウコさん、寒くないのでしょうか?」
「円くんは?」
「あの子は、今日は厚着させてますけど、トウコさんが心配です」
「ああ、浩介だったら、大丈夫ですよ。君がくれたマフラーもあることですし」
降沢は早速、美聖が贈った紺色のマフラーを首に巻いていて、にこにこしていた。
「降沢さんには、すごく喜んで頂けて」
「浩介とお揃いというのは、複雑ですけど……とっても嬉しいです」
「すいません。悩んだ挙句、いっそ、同じ物が良いと思っちゃいました……」
本当は別々の物にする予定だったが、考えているうちに訳が分からなくなって、無難なところで落ち着いてしまった。
それにしたって……。
(降沢さんだって、マフラーの一枚や二枚くらい、持っているだろうに……)
以前、水晶を一粒プレゼントしたときも、降沢は飛び跳ねるくらい喜んでいた。
(基本的に……降沢さんって、子供みたいな人なんだよね)
円と同じような対応をしていれば良いのではないか……と、たまに感じるものの。
それでも、彼は大人の男性で、美聖の心を乱す唯一の人だから、困っているのだ。
(しかも、今……二人きりなんて)
トウコが気を利かせたのか、必然的にこうなってしまったのかは分からない。
ただ、微妙な緊張感を抱きつつ、美聖は後片づけをしながら、改まって降沢に声をかけた。
「降沢さん、円がこんなに嬉しそうなところ、私、初めて見ました。今日は、本当にありがとうございました」
微妙に声が上擦っていたが、きっと大丈夫だろう。
「いえいえ。僕も楽しかったですよ。なかなか、子供と関わる機会ってありませんから。感性を刺激されるって、言いますけど、本当にその通りですよね」
降沢は白い紙に鉛筆で、恐竜を描こうとして、悩んでいるようだった。
円に強請られてしまったのだ。
恐竜の絵を描け……と。
自発的に絵を描くことは、降沢にとって意外に難しいことなのかもしれない。
「降沢さん、円のおかしな要求については、別に無理しなくても大丈夫ですからね」
「…………面倒じゃありませんよ。他でもない円くんの頼みですからね」
「いつの間に、そんなに仲良くなってたんでしょうね……」
美聖は、鉛筆を動かそうとしている降沢の横顔をしげしげと眺めた。
白い紙に、長い睫を伏せて、真摯に向かい合っている降沢は男性なのに、綺麗だ。
同時に、どこか儚げでもあって、つい手を伸ばしたくなる。
「……えっ、何です?」
ふいに、降沢が顔を上げる。
伸ばしかけた手を、美聖は慌てて背中の後ろに引っ込めた。
見惚れていたなんて、恥ずかし過ぎて、言えるはずがない。
「いえ……。円が言っていた男の約束って、何なのかなって、思って……?」
「それを言ったら、約束にならないじゃないですか……」
「……そうかもしれませんけど」
「まずは、円くんに気に入ってもらわないといけませんからね。地固めは大切です。怪獣の一体や二体くらい、描きますよ」
「怪獣と恐竜は、だいぶ違いますよ……」
降沢の言葉は、日本語のはずなのに、よく分からない時がある。
何となく、降沢の白皙がほんのり赤く上気しているように見えたので、美聖は違う意味で焦ってしまった。
「あっ、降沢さんこそ、トウコさん以上に薄着ですけど、体調は大丈夫なんですか?」
「えっ、むしろ、僕、絶好調ですけど?」
「本当ですか? 降沢さん、絵のことになると、集中して何も見えなくなるから、すごく心配です。円の頼みなんて、適当でいいんですからね」
「まあ、今までは、ちょっと入れ込みすぎて、倒れることもありましたけど。でも、最近は僕なりに色々と描き方の研究を始めて……だいぶマシにはなってきたんですよ」
「どうだか……。今回は、たまたま上手くいっただけですよ。時間を区切って描いたとしても、毎日ぶっ通しでしたら、体の消耗は半端ないと思います。もっと上手く……効率的に」
「………………君、知っていたんですか?」
「……あっ」
降沢がじっとりと、美聖を見上げていた。
…………失敗した。
話題にするつもりもなかったのに、つい口が滑ってしまったらしい。
今更、引くに引けない美聖は、早口で言葉を浴びせた。
「……そっ、そりゃあ……。分かりますって。そういうことは……。他でもない、貴方のことですから」
自分の口から、そんな率直すぎる台詞が飛び出してくるなんて、びっくりだ。
美聖は空いた皿をキッチンに運ぶことで、降沢から離れようとした。
――なのに。
降沢が美聖の後ろを追って来る。
流し台に皿を置いたところで、彼に追いつかれてしまったので、美聖は笑って誤魔化そうと躍起だった。
「もしかして、浩介から、聞いたんですか?」
「違いますって。最終確認はしましたけど。でも……私には……分かってました。降沢さんが何を考えているのかは、いまだによく分からないんですけどね。でも、降沢さんがやろうとしていることなら、何となく分かるんですから」
「……そうなんですか」
降沢が虚をつかれたような、半ば呆然とした面持ちで美聖を見返していた。
少しだけ降沢を出しぬけた感じがして、美聖は気分が良かった。
「……そういうことですから、改めて、ありがとうございます、降沢さん。姉に代わって、私から礼を言います」
「一ノ清さん」
「姉は……きっと、少しは皇って人のことを想っていたんでしょう。だから、降沢さん……手加減してくれたんですね。あの人に後悔させるように仕向けてくれた……?」
美聖は、気づいていた。
降沢がただ、あの映里の最期の絵を描いて、満足するような人間ではないことを……。
皇の事務所に搬入されていたのは、降沢の絵だろう。
後日、トウコに問いかけたら、彼は秘密の話だとして、教えてくれた。
降沢がもう一枚、皇に送りつける時限爆弾のような絵を制作していたことを……。
そして、その制作現場を絶対に美聖には見られないように、配慮していたことまで、聞いてしまったのだ。
「どうでしょう。手加減……なんでしょうか。ただ、僕が同調しすぎて、これこそが彼に有効な復讐方法だと、憑りつかせた人の魂から、思わされただけなのかもしれません」
降沢は目を伏せて、苦笑する。
美聖はそういう降沢だから、安心しているのだ。
彼は決して、奢らないから……。
「それでも、ありがとうございました」
「……いえ、どういたしまして」
美聖がぺこりと頭を下げると、降沢も同時に頭を下げる。
しかし、顔を上げた瞬間、美聖は今までの笑顔を維持できなくなっていた。
「でもね……。降沢さん。……こういうことは、二度としないで下さいね。……いつか、降沢さん自身が駄目になってしまうかもしれません。そんなこと、絶対に嫌ですから。前にも言いましたよね。私は心の底から降沢さんのことを心配してるって」
「ええ、聞きましたけど。本当に? 君は心配……してくれているんですか。僕なんかのことを?」
降沢が眩しいものでも見るように、そっと目を細める。
今更の質問だった。
「当然じゃないですか!」
思わず、声を荒げてから、美聖は口を押えて、もごもごと独りごちた。
「本当は、今、ここでそんなことを言いたくはなかったんですけど。気づかないフリをしておいてって、トウコさんとも約束したんですけど……。黙っているのって、どうも駄目みたいで……」
結局、美聖は秘密が守れなかった。
降沢が心配なのだ。
トウコは、ここまで織り込み済みだし、たまにあることだから、降沢の身体は大丈夫だと話していたが、美聖には耐えられそうもない。
「……君、本当に嘘がつけない人なんですねえ」
「ええ、本当に……。占い以外じゃ、てんで駄目な人間なんですよ。すぐに顔に出てしまったり、せっかく上手く隠していても自分で暴露しちゃうなんて、本当に情けない」
「はははっ」
降沢が声を上げて、笑っている。
かあっと、美聖は顔を赤らめた。
多分、その一瞬の表情で、彼に惹きこまれてしまっている自分がいる。
「ふ、降沢さん……私」
美聖は膝丈ワンピースの裾を鷲掴みした。
とくんとくんと、うるさい心臓の音がバックミュージックのように、美聖の中で鳴り響いていた。
「わ……私、きっと、すぐ顔に出てしまうし、態度にも出ちゃうし、本当に分かりやすくて。その実、捻くれているから、やっぱり降沢さんみたいな人は無理だとか勝手に葛藤して、変に距離を取ろうとしたりして……。今回の件では、多大なご迷惑をおかけしてしまったと思うんですけど……」
「えっ……。いや、別に僕は」
降沢が目を丸くして、突っ立ったままなので、美聖の緊張度数は、マックスに膨れ上がろうとしていた。
(……もしかして、これって、フラれるフラグ?)
ここまで突っ込んでも、美聖が言わんとしていることを、彼は欠片も感じ取ってないらしい。
成るようになれとばかりに、美聖は、目をつむって深呼吸をした。
「きっと、降沢さんには、バレバレだと思いますけど。私は…………初めて会ったときから、ずっと……ずっと降沢さんのことが!」
――好きだ……と、告げる直前で、しかし、俊敏な小さな影が降沢のすぐ横に現れていた。
「えっ?」
円が「ひひひっ」と、本格的な小悪魔のような笑声を上げながら、降沢の白い袖を引っ張っていた。
「降沢の兄ちゃん……。机の上の紙と鉛筆、借りていってもいい?」
「えっ……あっ……はい、どうぞ、お好きに」
「ありがとう! あのな、俺、すげー良い場所発見したんだ。兄ちゃんも見に来る?」
「それは、すごいですね。でも、絵が仕上がった時にまた教えてください。すぐに行きますから」
「おおっ! 上手く描けたら、兄ちゃんの誕生日プレゼントにしてやるからな!」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
降沢が優しく微笑みかけると、トウコが待っているから戻ると言い放って、跳ねっ返りの弾丸のように円が去っていってしまった。
「降沢さん……あの……」
「ああ、すいません。それで、君の話の続きを……」
「それは、その……」
そんな明るいテンションで、今の告白劇を再開するように、促されても困る。
いや、何より……。
美聖は震える声音で、尋ねた。
「降沢さん、円が言ってた誕生日プレゼントって、どういうことでしょうか?」
「ああ、浩介が喋ってしまったんでしょう。まったく口止めしておいたのに。……アイツは」
降沢は億劫そうに、溜息を吐いた。
「僕、実は十二月生まれなんですよ」
「…………えっ、そ、そうだったんですか!? 何日ですか!?」
「上旬だった……かな」
美聖は、おおいに狼狽えた。
もう、とっくに終わっているではないか……。
「そんなこと。だって、あれから、何度聞いても降沢さん教えてくれなくて。私、ちゃんとお礼をしたかったんですよ」
「別に、誕生日なんて、わざわざ言うことでもないでしょう。もう三十も過ぎているんですから」
――そんなことはない。
知っていたら、美聖は張り切って降沢の誕生日プレゼントを用意しただろう。
(このネックレスの分くらいは、返したわよ)
トウコに聞いても、笑ってはぐらかされてしまったのに、まさか、こんな形で知るとは、残酷だった。
「降沢さん、後でちゃんと、プレゼントしますから……。もう少し、待っていて下さいね」
「いりませんって」
「私があげたいんです」
美聖はおもいっきり眉間にしわを寄せて、念押した。
(…………今日は、日が悪いんだわ。きっと)
これからのためにも、九星気学を勉強した方がいいかもしれない。
九星気学とは、生まれた年月日、干支、木火土金水の五行を組み合わせた占術である。
日取りと方位の鑑定には、最も優れているはずだ。
(そうだわ。次は気学を勉強しよう。それで、日取りを調整してから、告白するという流れで良いんじゃないかしら? もうかなり先になっちゃうけど)
美聖は腰砕けになりそうな自分を必死で支えながら、洗い物に専念しようと水を出した。
新品のワンピースを濡らしたくないから、エプロンをしてからにしようと思っていたが、それも、もうどうだっていい。
「一ノ清さん?」
「ああ、降沢さん。机にまだ空いたお皿があるようでしたら、持ってきていただいてもよろしいですか? 私、洗っちゃいますので……」
「…………一ノ清さん、聞いてもらいたいことがあるんですが……って、聞いてます?」
「はい、ちゃんと聞こえていますよ。聞いてますから、降沢さん。どうぞ、続けて下さい」
蛇口の水を調整しつつ、美聖は曖昧に笑った。
口では、そんなことを言っていたが、降沢の話は聞いてるようで、ほとんど耳に入ってなかった。
自分のことで、精一杯だ。
完全に勢いをそがれてしまった状態で、今更、告白なんて一世一代の大勝負をすることなんて出来やしない。
この微妙な不完全燃焼な気持ちを、美聖はどうやって立て直したら、いいのか……。
(今の告白は、なかったことにして、次回の私に期待して下さい)
降沢のことだ。
あの……きょとんとした様子からして、美聖が告白をしようとしてたなんて……露ほども思っていないだろう。
(次に向けて、頑張ろ……)
――などと。
一人で完結していた美聖は、降沢をよく分かっていなかったのだ。
降沢は「愚者」のイメージだと、先ほどトウコから聞いたことを、すっかり失念していた。
そして……。
直後に、降沢を侮っていたことを、美聖は身を持って思い知るのだった。




