⑨
「貴方が彼女を突き落としたのは、そんな彼女に一瞬でも惹かれてしまったからでしょう」
「まさか……」
皇は、鼻で笑う。
けれど、降沢には効果がない。
彼は、まるでもう一人の皇自身のように、淡々と語るのだった。
「映里さんは、落ちる寸前、貴方の胸倉の徽章を掴もうとした。仰向けに落下した彼女の手、そのまま宙をかいてもがいていたから……。貴方は丁度持っていた、映里さんのキーカード「女帝」を握らせた。でも、そのカードには確かに、意味があったんですよね。「女帝」は、母の意味。貴方にとって、映里さんは女性ではなく、母でなければならなかったんです」
「…………それで? 降沢先生、再三言っていますが、何の証拠もありませんよ」
「物証はないでしょうね。貴方の背後には日下部先生もついている。だから、一年前のことなんて、隠滅されていても仕方ないです。でも、貴方の記憶の中に、その光景は一生、残り続けるんですよ」
再び、雲の隙間から日差しが降り注いだ。
神々しさを帯びた光のアーチ。
あの日の空の模様と同じだ。
忘れることなど出来るはずがなかった。
皇は、よく覚えていた。
ビルの隙間で、映里が高らかに伸ばした手を……。
最期に、薄ら浮かべた涙の意味も……。
「降沢先生。私のキーカードは「法皇」だったんですよ」
「…………えっ?」
「映里さんが「女帝」で、私が「法皇」でした。彼女は私のカードと取り換えたいと言ったので、取り換えることにしたんです。まあ、後々の面倒事は嫌だったので、彼女にあげた「法皇」の方は、すぐにこっそり回収しましたけど」
「ああ……。それで、貴方が「女帝」のカードを持っていたんですか」
「きっと、西河先生には、大勢、信者のような人間がいるので、私たちと同じカードをもらった人も大勢いるんでしょうけどね」
「なるほど……。益々、一ノ清さんの占いと符合しますね。「法皇」というのは、タロットカードの五番目。教会の最高権力者……ローマ法皇のことでしたっけ。意味は、慈悲とか、保守性だとか……」
降沢は少しだけ、目を見開いた。
「ローマ法皇のまとっている衣装は赤なんですよ。カーディナルレッドと呼ぶそうです。私の事務所の名前もカーディナルです。私はキリスト教徒ではありませんけど、キリスト教において、赤は大切な色なんですよ。理由、ご存知ですか?」
「いいえ。まったく」
「赤は、血の色です。殉教したイエスの苦しみを表しているんです。決して、忘れさせないように、法衣の色に、葡萄酒の色に、バージンロードの色に……。戒めの色なんですよ。だからね……。バージンロードを歩く時は、真剣にならないといけません。結婚は契約で済みますが、子供は……ギフトですから」
「つまり、きちんと養育できないのなら、むやみに子供を生むなという警告ですか。貴方に子供がいない理由が分かるような気がしますよ。でも、法皇だったら、結婚の契約もしっかり守るよう、伝えるでしょうけどね。貴方は少々、女性を見下している傾向がある」
「よく言う……。それは、お互い様でしょう。降沢先生。貴方に私が責められるのですか?」
皇は穏やかに微笑して、弁護士徽章を撫でた。
「妻を唆して、強引に、これを手に入れた……。窃盗じゃないですか?」
「借りただけですよ。盗んだわけじゃありません」
「……それでも、目的のためには手段を選ばず……でしょう。貴方、私と同類じゃないですか?」
皇は飲み干したコーヒーを、ソーサーに置いた。
「全部……どうだっていいんでしょう。何もかも」
「……ははっ、まるで、僕のことをすべて知っているかのような言い草ですね」
「貴方は誤解をしています。私は、別に女性を蔑んでいるわけではありませんよ……。他人も、自分もどうでもいいだけです。……それは、貴方だって同じでしょう?」
「嫌ですね……。そういうことを、他人の口から言われると、全身がむず痒くて仕方ありません。しかも、たった二度しか会っていない人に、指摘されるなんてね。…………僕は、随分と分かりやすい人間なのかな?」
降沢は、無邪気に笑いながら首を傾げる。
その何処か、適当な仕草ひとつも……。
(……自分と、似ている)
皇は、初めて会った時から、自分と同じものを、降沢の中に見ていた。
社会に順応しているようで、はみ出している。
常に世界を俯瞰しているような立ち位置にいて、生きているという実感が、希薄なのだ。
降沢が浮かべる透明な笑顔は、鏡越しに自分の顔を見ていようで、心がざわついた。
「そうですね。皇先生……。貴方の仰るとおり……僕がどうなろうが、貴方がどうなろうが、すべて、どうだっていいんです。今まで、そう思っていたし、これからも、そう思う時があるかもしれません。でもね……どうだっていいからこそ、怨嗟の声を拾うと、実行に移したくなる。これは、貴方とは違う。僕だけの……性分なんですよ」
「それで? 貴方は、私に恨みを持つ人間の声を拾って、絵にしたということなんですか?」
「……察しがいい」
――やはり、そういうことらしい。
納得した。
だから、あの絵を皇だけが生理的に受け付けないのだ。
霊的なことがこの世の中にあるのかどうかと問われたら、皇はよく分からないと答えるだろう。だが、人間の醜悪な念のようなものが存在していることは、よく知っていた。
「本当は、貴方自身をモデルにして描いた方が、もっと良い絵になったかもしれませんが、さすがに貴方そのものは……僕の容量を越えるみたいです」
「恨みの一つや二つ、生きていれば、買うこともあるでしょう?」
「もちろん。僕もしょっちゅう、人から因縁を持たれるタイプなので、貴方の言い分も分かりますし、人のことは言えません。でも、皇先生のように意図的に人を貶めたことは一度もありませんよ。ある意味、僕は貴方以上に投げやりだったんです」
のどかな午後の昼下がりがに、一瞬、うすら寒い空気が流れて、吹き抜けていった。
皇は腕組みをした。ここまで、オカルティックな方向に話が飛んで行ってしまったのなら、嗤うしかない。
「不幸の手紙ならぬ、不幸の絵ですか……。今まで受けた嫌がらせの中で、一番陳腐な類ですよ」
「まあ……。結構、手間暇かけていますからね。貴方の象徴でもある弁護士徽章の中にあった、幾つもの念を寄りつかせて熟成させてみました。いつもは、一気呵成に描き上げてしまうスタイルなのですが、今回はこっそり、確実に夜中に描いていましたよ。あの人には、知られたくなかったのでね……。新たなアプローチ方法を教えて下って、貴方には感謝しているんです」
「でもね、降沢先生。私は悪いことをしたとは、思ってもいませんよ。反省する理由もありません」
「別に、僕は貴方に反省させたいとか、謝罪させたいとか、そんなつもりは一切ありません。絵を描いたのは、単純に描きたかったからですし、絵を贈ったのは、それを望まれたからです。一番強いのは、生きている人間の強い意志です。貴方に確固たる正義があるのなら、僕の絵如きが、貴方に悪さをすることはありませんよ」
「じゃあ、その確固たる正義が揺らいだ時、どうなるんですか?」
「さて………。こういった絵の販売は滅多にないので、具体的なことは分かりませんね。でも、お困りのようでしたら、捨てても、燃やしても、切り裂いても、構いませんよ。どうせ、あの絵は貴方のところに戻って来る。……そういうものですから」
「それで、私に呪いをかけたつもりですか?」
「なぜ? 貴方が悪いことをしていないのなら、呪いじゃないでしょう」
真っ正面で、両者の目がぴたりと合った。
降沢の純粋な瞳の奥に宿る狂気を……皇は知っていたはずだ。
知っていて、はまったのは……それを自分が望んでいたからかもしれない。
「貴方のような画家が、上流階級の間で密かに流行っているのは、そういうこと……なんですね」
「初耳ですね。僕はただの売れない画家です」
「それこそ、驕りですよ。貴方の場合、売れないんじゃなくて、売らない画家なんでしょう?」
「どちらにしても、僕の絵は、世の中のためにも、余り売れない方が良いのでしょう」
にやりと口角を上げると、降沢は静かに席を立った。
「降沢先生……」
「はい?」
「…………また……いずれ」
それは、社交辞令……ではなかった。
珍しく皇の本音だった。
しかし、振り返りることなく歩き出した降沢の答えは簡潔だった。
「…………三度目はありません。貴方とお会いすることは、永遠にない」
感情のこもらないクリアな響きだった。
普段、皇が他者に対して行ってきたことと同じことだ。
(痛いな……)
死神の鎌に、ばさりと背後から、切りつけられた感じがした。
―――私は、間違っていたのか……。
そんなふうに、揺らぐことすら、皇は、もう二度と出来やしないのだ。




