⑧
「皇先生……。先日は失礼しました。つい名前、嘘を言ってしまって……」
降沢はやんわりと、告げた。
「…………いえ。構いませんよ。私と連也さんも、警戒されて当然でしたからね。それに、夫婦らしい、お似合いの二人でしたから」
全体的に白っぽい格好で茶っぽい髪の皇と、黒っぽいスーツに、漆黒の髪の降沢は対極にあるようで、姿形が似ている不思議な組み合わせだった。
二人で頭を下げ合う様を、穏やかに見守っていた日下部が背後の男たちに促されて、立ち上がった。
「ああ、いけない。私は、これから行かなくてはいけない所があってね。あとは二人でね。これで良かったのかな? 降沢先生」
「ええ、日下部先生、この度は、ありがとうございました」
降沢は、腰を折って綺麗に頭を下げた。
やはり、雰囲気が違う。
降沢在季は、接する相手によって、装う表情を変えるようだ。
「じゃあ、皇くん、またね!」
「あっ、はい……。先生、またご連絡致します」
皇も立ち上がり、お辞儀すると、大名行列のように、お供の人間を引き連れて、日下部はその場を去っていった。
たちまち、しんと、静かになった。
「何も、こんな小細工をしなくても、降沢先生……貴方に会わないなんてことはしなかったのに」
「一ノ清さんとは別に、僕は一人で貴方とは会いたかったんです」
「貴方の指示で、一ノ清美聖さんは、事務所に来たんですか?」
「まさか、そんなはずないじゃないですか……。あの人は、いまだに自分の問題だと思っていますからね。貴方から、小切手を貰ったことも、今日、事務所に行くことも、僕にも、店の人間にも、黙っていましたよ」
「…………だったら、完全に他人事ですよね? 貴方がしゃしゃり出てくる理由はない」
「理由なんて、なくったっていいのです。僕が勝手に動きたいから、恵慧師に裏から手を回してもらったんです。それだけのことです」
「…………あの絵も、そうでしょう?」
「ああ、はい。今回は、結構派手に動いてしまいましたからね。後々、恵慧師から、どんな請求が来るのか、今から恐々としているんですけど……」
「それはそれは……。くだらないことに、多大な労力を使って、首を突っ込みたがる人なんですね。貴方は……」
皇が鼻で笑っていると、日下部の使っていたカップと皿を、手際よく店員が片づけていった。
降沢はメニュー表を見ることもなく、アールグレイティを注文すると、日下部の使っていた椅子に腰を落とした。皇も後に続いて、座り直す。
「……それで? 降沢先生は、私で、一体何がしたいんですか?」
「何がしたい? 分かっているのでしょう? 他ではない、貴方の問題なんですから」
じっと、降沢の黒い双眸が日下部を見つめていた。
乾いた風が二人の髪を撫でる。
皇は、ふっと……目を閉じた。
「一ノ清映里さんの件でしたら、つい先ほど、話がつきましたよ。これ以上、話すこともありません」
「……ええ。そうだと思っていました」
降沢は、運ばれて来たアールグレイティに息を吹きかけて、一口含んだ。
「一ノ清さんは、人が好いですからね。自分が視たものを、憶測だとして貴方に語ったはずです」
「憶測でしょう?」
「真実ですよ」
言下に、降沢は断言した。
あまりに、堂々としているからこそ、皇も黙っていられない。
「何が……? 何処が真実なんです?」
「未だに、とぼける気なんですか? 貴方は上手にやっているつもりでしょうが、バレますよ。その嘘……。日下部先生だって、気づいているかもしれない。脅しているつもりが、逆に脅されている側だなんて、洒落にならないじゃないですか」
一瞬だけ、皇は怯んだ。
降沢は眉一つ動かさなかった。
まるで、すべて見てきたかのように、毅然としている。
「一ノ清さんが、憶測だとしたのは、貴方の行動が支離滅裂で一貫性がないような気がしたからでしょう。今日彼女たちに同行して、僕がすべてを語っても良かったんですが……。でも、映里さんの最期は、彼女には知ってもらいたくなかった。円くんにも……ね」
「分からないな。貴方は何を?」
頭を振って、誤魔化そうとしても、降沢は言葉をやめようとしない。
「忘れたふりは、僕には通用しませんよ。皇先生……」
そうして、切れ味の良いナイフのように、言葉を振るったのだった。
「…………だって、貴方が映里さんを突き落としたんじゃないですか」
「……………」
数瞬、時が止まったような感覚があった。
呼吸が止まり、すべての事象が遠くなって……。
再び、自分を取り戻すと、皇は冷静を装って、現実に戻ってきた。
「私がどうして、映里さんを落とすんです? 降沢先生は、サスペンスドラマの見過ぎじゃないですか?」
皇は、周囲の様子をうかがいつつ、笑顔のまま、声を潜めた。
幸い、人払いされているテラス席の会話を、盗み聞きしている人間はいないようだった。
しかし、降沢の顔は依然険しいままだった。
「貴方は、映里さんを最初に西河マリアの公演会場で見かけた時から、嫌っていましたよね?」
「降沢先生。私が彼女と最初に出会ったのは、西河先生が連也さんのパートナーに選んだ時ですよ」
「いいえ、違いますよ。西河マリアは貴方の傀儡でした。貴方は早い段階で、日下部連也のパートナーに、一ノ清 映里さんを候補として、西河マリアに進言していた。映里さんは、講演会に、円くんを連れて来ていたはずです。……子連れは、目立つでしょう?」
「…………私は」
降沢の言う通りだった。
分不相応の格好で、講演会に通っていた親子。
――幸せになりたい。
全身から寂しさが溢れていた。
特に……彼女が連れていた胡乱な目をした子供の存在は、皇に強烈な印象を与えたのだった。
しかし、降沢は一体、どこでそんなことを調べたのだろう。
(いや……そもそも調べたのか?)
この男が……視える人間だったとしたら?
言い淀んだ皇に、降沢は静かに続けた。
「貴方は、円くんに同情をしたんでしょう。だから、映里さんに相応の報酬を与える約束をしました。別に、そんな遠大な作戦を立てなくても、連也さんを西河マリアのもとから去らせる方法は、他にあったはずですよね。それとも、それしかないと思い込むように、自らを洗脳していたのですか?」
「おっしゃっている意味がよく……」
陽が翳って、寒々しくなってきたのに、皇は暑さを感じていた。
このまま立ち上がって、帰ることも出来るのに、降沢の目がそれをさせてくれない。
「日下部先生は貴方の境遇を、よくご存知でしたよ。子供の時は、大層辛い目に遭っていたそうですね。懸命に頑張って勉強して、弁護士になられたのでしょう。子供時代、今でいう……ネグレストだったとか?」
(そういうことか……)
日下部は、恵慧に皇の過去を話したのだろう。
降沢は、口元に皮肉気な笑みを浮かべていた。
「貴方は、円くんに自己投影をしていた。貴方が訪れる時、映里さんが嬉々として、円くんを外に追い出していたように見えましたか? それを汚らわしいと感じていましたか? でも、彼女は、頑張ろうとしていましたよ。むしろ、それが気に入らなかったのでしょうか?」
「そんな理由で、私が映里さんを突き落したのですか?」
「貴方だって、映里さんを殺すつもりはなかったのでしょう。それが馬鹿げていることを、頭の良い貴方なら、分かっていたはずです」
「じゃあ、どうして……?」
「連也さんが映里さんを突き落としたように見える写真でも撮りたかったのでしょう。そしたら、日下部先生を脅迫できるじゃないですか。貴方は月子さんの実家と縁を切って、日下部先生に乗り換えたかった。そのために、連也さんの弱みを握っておく必要があったんです。もっとも、そんなことまで映里さんは、知らなかったようですが……」
――違いますか?
疑問形を取っているが、降沢は皇に訊ねるつもりはないようだった。
彼はすべてを真実として、語っている。
「だから、貴方は自分が隠れることのできるビルを探して、あのビルのパラペットに潜んでいた。映里さんも、一人では不安だったから、貴方の存在は、頼もしかったのでしょう。打ち合わせ通り、飛び降りたふりをして、映里さんがパラペットに合流をして、貴方は彼女の悪戯が成功した子供のような勝気で無邪気な笑顔を見たんです」
――やったね。先生……。これで、終わり。あいつに泣かされた女の人達も、浮かばれるってことよね!
皇の耳元で、あの時の……そんな声が響いたような気がした。
連也のことを悪くは思えないものの、映里は皇の言葉を信じきっていた。
これからは、日下部からの報酬を元手に、ちゃんと円を育てるなどと、今まで出来なかったことを、安易に口走り、尊敬の眼差しで皇を見ていた。
――つまらない女だと……。
いつも、そう……思っていたのに。
(あれは……一年と……三カ月くらい前だろうか……)
そろそろ、西河マリアの所から離れようと考えていた皇に、義父から、日下部代議士を紹介されて、妻と連也の相談を受けた。
―――何とかして西河マリアから引き離したいが、穏便に去らせる方法はないか?
お金で去らせる方法は、後々困る。連也の素行には手を焼いているので、多少痛い目を遭わせても構わない。
そういえば、西河マリアが最近、本格的に手を出しているお節介なお見合い制度があった。
皇は、それを利用すれば良いのではないかと考えた。
まだ年若い連也が、子持ちの十歳以上も年上の女性と、まともに将来を考えられるはずがない。事実、彼の女癖に関しては、皇とて怒りを覚えるくらいに酷かった。
他でもない父親の要望だ。少しくらい、痛い目を見せてやろう。
協力者は、一ノ清映里という女性を選んだ。
この女も最低だった。
女遊びと、ギャンブル狂いの夫が自分を振り回すだけ振り回した挙句に死んでしまい、自分は抜け殻状態だと表現していた。
だが、それと息子は関係ない。
この女は、一人息子を空気のように扱っていた。
皇は自分の子供時代を思い出して、円に同情した。子供は、親を選べないのだ。
――それなのに。
あの一瞬……。
彼女の笑顔が輝きを放って、皇の心の間隙を縫うように、奥底に入り込んできたのだ。
丁度、曇天の隙間から、覗く一条の光のように……。
(冗談じゃない……)
―――あんな母親失格の女に、どうして、自分が惹かれるものか……。
皇は、怖くなったのだ。
…………ただ、混乱していただけなのだ。




