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占い喫茶と神降ろしの絵  作者: 森戸玲有
第5幕 神の使者
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 皇の事務所の模様替えを言い出したのは、日下部代議士だった。


 皇自身、そんなものは必要ないと思っていたが、簡単な配置替えをすると、運気が上がると信じきっている人に、逆らう理由もない。

 幸い、経営は順調でスタッフは増えている。

 指示を出すだけなら、楽なものだった。


「皇先生、失礼いたします……日下部先生から、贈られてきた「絵」……いかがしますか?」

「ああ、適当にどこかに飾っておいてください」


 秘書の女性が手にしている、段ボールの隙間から赤い色彩がはみ出して見えた。


(赤が好きだから、赤い絵…………ね)


 ――単純だ。

 だが、日下部には、喜んでいるフリだけはしておかなければならない。

 皇はこれから丁度、日下部に会う予定があるのだ。


「ああ、君……。その絵を、一度見せてもらっていいですか?」

「はい、勿論」


 女性秘書は、分かりやすいくらい好意を含んだ笑顔を見せると、段ボールの中から、厳重に包装されているA4サイズ程度の絵を取り出した。

 皇が目にした「赤」は、空の色だったらしい。

 赤い空を背景に風を受け佇んでいる女神の絵。

 描かれているのは、おそらくギリシア神話の正義の女神テミスだろう。

 女神が右手に剣、左手に天秤を持ち、目隠しをされている構図だ。

 剣は法の厳格さと、天秤は法の均衡、そして目隠しは己の知覚に惑わされることなく、公正な判断をするようにという意味合いである。

 弁護士事務所に相応しい絵だ。


 ――なのに、どうして、こんなに寒気がするのだろう?


「良い……絵ですね」


 女性秘書は目を細めて、静かに絵を鑑賞していたが、皇には彼女の神経が知れなかった。


(何が、美しいんだろう?)


 最初はそこまで感じなかったが、長時間眺めていると、全身を針で刺されているような、圧迫感があった。背景は血の色のようで、女神は苦悶に耐えている女のようだ。

 皇にとっては、何とも嫌な絵だった。


「これは、一体誰が描いた……」

「あっ、先生……。そろそろ、日下部先生との待ち合わせの時間なのでは?」

「ああ……。そうでした。その絵は、適当に転がしておいてください」

「えっ? 転がす……? 飾らないのですか?」


 小首をかしげる秘書を無視して、皇は急いで、机の横から鞄を取り出すと、絵に一瞥を送りつつも、駆け出した。


(面倒な……。日下部先生も事務所に来ればいいものを)


 たまに、外で会おうと皇を連れ出すのは、日下部が美食家で有名だからだろうか……。


(くだらない……)


 どんなに良い物を食べて、良い服を着て、良い女を侍らせても、皇は、いつも砂漠の真ん中にいるようで、喉がひりひり渇いて、飢え切っているのだ。


 いつになったら、この乾きは癒されるのだろうか……?

 頂点まで駆け上がったら、少しはマシになるのだろうか……?

 それが知りたいから、皇は上を目指すことをやめられないのだ。


「おおっ! 皇くん……。こっちだよ! よく来てくれたね!」


 テラス席から、気さくに手を挙げたのは、国民の大部分は名前くらいは知っている日下部誠一代議士だ。

 年齢は七十代半ばのはずだが、いまだに若々しく見えるのは、総理大臣候補として、その都度注目を浴びているせいかもしれない。


「ええ。もちろんですよ。他でもない日下部先生自らの御呼出しですから……」


 日下部に皇が平日の昼間から、呼び出れされることは間々あることだが、赤坂の洒落たカフェというのは、初めてだった。


(このジイさん、どういう風の吹き回しなんだ?)


 背面が透かし彫りになっているアンティークの椅子に腰をかけた皇は、このカフェがまったく似合っていない初老の男と向かい合った。

 背後に屈強なSPと秘書を控えさせてまで、やって来る店ではないはずだ。

 日下部が陣取っているテラス席は人払いまでされていて、他に誰もいないが、店内の客は、何者かと、好機な目を向けていた。

 店側からしたら、有難迷惑な話かもしれない。


「今日は、どのような御用件で……?」


 早々に、皇が切りだすと、日下部は紅茶を啜りながら、鷹揚に笑った。

 電話でのやり取りは多いものの、少し会わないうちに、一段とふくよかになったようだ。

 仕立ての良いスーツを着ているくせに、腹の辺りがきつそうだ。


「相変わらず、せっかちだね。いや……最近直接会っていなかったからね。たまには、私自ら、君に感謝を伝えようと思っていたんだよ」

「わざわざ先生がいらっしゃって下さるとは……有難うございます」

「息子も今度こそ、無事に留学に行ってくれたようだし、まずは安泰だ」

「ええ。今度こそは……連也さんも、行って下さいましたね」


 西河マリアに狂っていた親子共々、何度も外国に送りつけようとしたが、方向が悪いなどと言って、駄目だった。

 彼女の逮捕によって、日下部の妻も、連也も、意気消沈して、今では、日下部の言うがままになった。


 …………この時分に、逮捕に至ったのは、良かった。


 本当は、一年前に逮捕される予定だったものを、日下部が警察に掛け合って、時期をずらしたのだ。

 それは、一ノ清映里が死んだことに起因している。

 あの状態で、逮捕されてしまったら、もしかしたら芋づる式に、連也のことも報道されてしまうかもしれない。

 それに、西河マリアには顧客が大勢いる。

 彼らに恩を着せるためにも、日下部は少しずつ、彼女のもとから去らせるよう、根回しをしていた。

 その辺りは、たしかに一ノ清美聖の言う通りではあった。


「色々と、回りくどく、面倒な一年だった。でも、私の運気は、これからだって話だからね」

「先生も、西河マリアのことは、毛嫌いしていたのに、そういったことを信じていらっしゃるとは、意外でしたよ」


 皇は、ブレンドコーヒーを注文すると、先に運ばれてきた水を一口飲んだ。


「まあ……世の中には本物がいるってことさ。君だって、最初は西河マリアを信じていたんじゃないのか? 奥さんだって、彼女に紹介されたんだろう?」 

「ああ、私は別に……。西河先生が本物なのかどうか、試してみたかっただけですよ。でも、あの程度のことなら、結構誰でも言えるかもしれません」

「はははっ。怖い男だねえ」


 西河マリアは、確かに勘働きの鋭い女性ではあった。

 だが、波がありすぎた。

 良い時もあれば、悪い時もある。けれど、そんなこと誰にも分からない。

 同情しているフリをしたら、すぐに皇に気を許した。

 迷っているふうな時に、上手く助言をすれば、それが天からの意志だと、信じ込むようにまでなっていた。


(あの女も、簡単だったな……)


 彼女の事業を広めるのは楽しかったが、愛着も執念もなかった。

 そこそこお金を巻き上げたら、危険な予感がしたので、ここが潮時だと、顧問弁護士を辞めた。

 ――それだけの関係だった。


「実は……西河マリアのこともありまして、そろそろ妻とも、別れようと思っているんです」

「……ほう? それは、驚きだな。君と月子さんは、仲が良さそうだったのに」

「最近、彼女……またスピリチュアル系の占い師に依存しているようでして。さすがに、私も限界を迎えてしまいました」

「ははあ、何事も依存は良くないな。幸い、君のところは子供もいないんだし、別の生き方をするのもいいかもしれないな」


 日下部は、上機嫌で紅茶とセットで運ばれてきたモンブランを、美味しそうに頬張った。


「……だったら、次の妻は私が紹介しよう。君なら、バツがついても引く手数多だろうからな」

「よろしくお願い致します」


 皇は恭しく頭を下げた。

 本当は、月子の占い好きに困って、離婚しようと思ったのではない。

 月子の実家と繋がるために、西河マリアを利用して政略結婚をした。

 参議院議員の義父から、日下部代議士を紹介されて、縁を繋げたわけだが、もう必要ないと判断しただけだ。


(義父も、そこまでの人なんだろう)


 だったら、月子といる理由なんて一つもない。

 最近、身なりをやたら気にするようになり、数日、弁護士徽章を隠されたりしたが、それを咎めようとは思わなかった。別に、どうだっていいことだった。


(そういえば、降沢という画家も、弁護士徽章を貸せだの……おかしなことを口走っていたが?)


「あっ、そういえば、日下部先生。頂いたプレゼントのことなんですが」


 皇はコーヒーに口をつける寸前で、顔を上げた。


 ――あの絵は、降沢の絵なのではないか……?


 よぎった疑問をぶつけようとした矢先に、日下部によって出鼻を挫かれた。


「ああ、そういえば……。先程、あの娘が、君の事務所に行ったそうだねえ?」

「…………えっ、はい。そうです。家族と一緒に来ましたね」


 ――どうして、一ノ清 美聖の来訪を知っているのか?


 そんなことを、日下部に問うても無駄だった。

 知っている時は、知っている。知らない時は、徹底的に知らない。

 そういうパターンは、よくあることだった。


「そう。彼女、何か気に入らないことがあったのかな?」

「気に入らないというより、何もいらないそうですね」

「ふーん、いまどき珍しい。欲のない、素直な子じゃないか……」


 日下部は、苦笑しているふりをしているが、心根は違う方向を向いている。


(本当に、よく分からないジイサンだな……)


 付き合いは長いものの、初当選から五十年近くも、政治の表舞台で活躍していたことはある。ある種、西河マリアより、御しがたい男だ。

 だが、いかに老獪ろうかいなジジイだったとして、出し抜く術を、皇は心得ているはずだ。


「皇くん、その件で、君…………私に嘘はついていないよね?」

「どうして、私が先生に嘘を吐くのですか?」


 とぼけてみせたら、日下部は視線を皇の横にスライドさせた。

 テラス席からは、隣の公園の西洋式庭園が一望できた。

 名前の知らない、小さな黄色い花が可憐に咲き誇っている。

 秋晴れの穏やかな日だった。

 冬の足音が色濃く、外の席は肌寒いものの、日差しを浴びていると、そんなことも忘れてしまいそうな気分になる。


「私はね、先日、ようやく……念願だった恵慧師とお会いする場を設けて頂いたんだよ」

「本当ですか。それは、良かったですね。ずっとお会いしたいと仰ってましたからね」

「ああ……。そしたらね、あの日、君に彼女が家に来ることを話してしまったことを、少し責められてしまってねえ」


 日下部は叱られた割には、にやにやしている。


「どうしてです?」


 皇には、日下部の感情が理解できなかった。


「私は結果的に、あの人たちに、会っておいて良かったと思いますが……」


 ――一ノ清映里の家族が、日下部連也と接触を持とうとしている。


 それを教えてくれたのは、恵慧と懇意にしている日下部派閥の政治家だった。

 その政治家は、恵慧に悪気がないことを断った上で、あの日、日下部の別邸に、恵慧師経由で訪問者があるかもしれないことを、密かに教えてくれたのだ。

 それの何処が悪いのだろう。


「何でも、面倒になったそうだよ……。まあ、恵慧師の個人的なことだろうけど。でもね、恵慧師との会話は愉快だった。依存とか心酔とか……人生の方向性を決めて欲しいとか……そういうのとは別の。面白い人なんだろうな。いまどき稀有な人だよ」


 よほど、楽しかったのか、日下部は思い出し笑いをして、肩を揺らしていた。


「へえ……。先生がそんなに仰る方なら、私も一度会ってみたいものですね」


 もちろん、それは、その場しのぎの社交辞令のつもりだった。

 ――だが。


「ああ、会えるかもしれないよ。恵慧師は、君のことを、気にしていたから」

「なぜ……私を?」


 どうして、そうなる?

 一体、日下部は恵慧師に何を話したのだろう?


(そんな得体の知れない坊主に好かれても嬉しくない……)


 だが、その坊主は、怪しさに溢れていても、政財界に強いパイプを持っているのだ。無礙むげには出来なかった。


「だから……。日下部先生は、あの絵を下さったのですか?」

「おおっ、もう届いたのか。どうだね、良い絵だろう? 恵慧師が昵懇にしている降沢先生の絵だ。君も連也と一緒に、彼とは一度会ったんだろう? 降沢先生が君のために絵を描いてくれたんだよ。話したと思うけど、彼の絵は希少なんだよ。大切にしたまえ」

「なるほど……。やはり、降沢先生だったんですね……」


 降沢という、画家の名前は、日下部以外からも、聞いたことはあった。

 市場に出回らない絵の付加価値は、億単位だと耳にした。

 あの絵を、持っているだけで、皇のステイタスは一段と上がるだろう。

 自慢もできるはずだ。

 だけど。


(…………あの絵は、嫌いだ)


 見ているだけで、具合が悪くなる。

 どうにかして、返却してしまいたかった。

 だが、御満悦の日下部に、そんな話を切り出すわけにはいかない。


(いっそのこと、事故を装って、燃やしてしまおうか)


 本気で、皇が実行に移す算段を練っていた……その時だった。 


「それでね、今日君をここに呼んだのは、降沢先生が君に会いたがっていたからだよ。この店も、先生が選んだところでね。君へのサプライズってことさ」

「へっ?」

「ああ、来た来た!」


(やられたな……)


 皇は淡々と、己の状態を確認していた。 


 すべて、彼に仕組まれた罠だったらしい。


 ――漆黒……。

 それは、死神のような……。


 まるで、礼服のように黒っぽいスーツを身にまとった降沢が、先日会った凡庸とした雰囲気をかき消して、颯爽と皇の前に現れたのだった。

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