⑥
「……でも、意外にも連也さんは引き下がらず……、悪人ではなかった。姉は困ってしまったはずです」
ワガママに振る舞っても、連也は子犬のようについてきた。
映里には、よく分からなくなってしまったのだろう。
だが、時間がない皇は、次の台本を映里に用意した。
――別れてくれなければ、飛び降りる……と。
そんな素振りを見せたら、きっと連也は慌てるはずだ。
連也の洗脳を解くためにも、必要なことなのだと言葉巧みに映里を説得した。
(ゲームのつもりだったんだ……)
映里には、飛び降りるつもりなんて、なかった。
昔のように、ちょっと階段を飛び降りたような気になっただけで……。
「あの雑居ビルの屋上……パラペットがあるんです。結構幅広で頑丈な……。降沢さんは、それを見た時に、もしかしたら……お姉ちゃんは、ここ目がけて落ちたフリをしたんじゃないかって、思ったそうです」
降沢は絵を描く中で、何を視たのか話してはくれなかった。
だけど、それだけは、美聖に教えてくれた。
飛び降りたふうに見せかけて、隠れることもできるパラペットがある……と。
彼はあの段階で、その可能性を考えていたのだ。
美聖は怖くて、あのビルを見上げることも、見下ろすことも出来なかったのに……。
「そんな馬鹿げた話、円くんに聞かせるのは、酷な話だと思いますけど?」
皇は不毛な時間だと思っているのだろう。渋々、小切手を内ポケットに収めて、立ち上がろうしとたものの……。
円の黒い双眸がじっと皇を捉えていた。
「……俺は、知りたい。ママが死んだ理由。みっちゃんママが全部、教えてくれるって言ったから」
「…………円」
父と二人、真ん中に座っている円を見下ろした。
円はこの場の誰よりも、毅然としているようだった。
「気丈な子ですね……。小さいのに、感心してしまうな」
皇は不機嫌そうだったが、しかし……再び、ソファーに座り直した。
意外に、子供には優しいようだった。
「円くん……。申し訳ない。ママの死は、事故だったんだ。確かに、私はお兄ちゃんとは一緒にいて欲しくないと、君のママに頼んだ。でも、それ以外、私は何も知らないんだよ」
「……でも、貴方は姉の最期の場面にいたでしょう?」
「何を根拠に?」
「貴方は、これを…………」
美聖は持参した肩掛けのショルダーの中から、ふくさで包んだ映里の遺品……。
タロットカード「女帝」のカードを取り出した。
「これを、お姉ちゃんに握らせたのは、貴方ではないですか……」
「何ですか。そのカードは……?」
「西河マリアが顧客に渡している、タロットのキーカードですよ」
「ああ……。そういえば、そんなカード、ありましたね。私も貰ったことがありましたよ。……で、それが、どうしたと言うのです?」
「…………皇さん」
美聖は、溜息を吐いた。
本当は、皇自身の口から話してもらいたかった。
どうせ、連也の父、日下部誠一のためにやったのだろう。
――連也が女性を、言い争いの上、ビルの屋上から突き落としてしまった。
日下部誠一氏は、連也の言葉よりも皇の言葉を信じる。
そこで、何かあった時の保険のために、西河マリアに目が向くように、映里が彼女から貰ったタロットカードを握らせて、恩を売った。
(そうなんじゃないの……?)
……だって。
映里の最期の記憶に、皇がいたことは間違いないのだ。
その弁護士徽章を、降沢が描きたいと思った理由も、そこにある。
映里は、その徽章を掴もうとして、出来なかった。
その場面を、美聖は降沢の絵から直感した。
――仕方なかった……とか。弁明でも、何でもいい。
(何か……)
だが、皇は薄笑いの仮面をかぶったままだった。
彼は結局、変わらないのだろう。
この先、いつまでたっても……。
「皆さん、せっかく、遠い所からいらして頂いたのに、申し訳ありません。私は仕事がありますので、そのような蒙昧な話でしたら、相手にはしていられません。どうぞ、今日はお引き取りを……」
「美聖…………」
父が膝の上で、強く拳を握りしめていた美聖を、気遣わしげに呼んだ。
まだ何か出来ないか……。
その手段を探る前に、皇が口を開いた。
「……ああ、それと、美聖さん」
「何でしょう?」
「先日お会いした、貴方のご主人の本当の名前は、降沢在季さんだったんですね?」
「はっ? ご主人?」
目を剥いた父には構わず、皇は怪しげな微笑を湛えていた。
「何でも、降沢先生は、噂の……黒衣の宰相殿と親しい画家さんなのだとか?」
「えーっと? 黒衣の……宰相って? 江戸時代の坊さんのことですか?」
「いえいえ、お父様。金地院崇伝とか、天海僧正じゃありませんよ。……ああ、でも、ある意味、現代の天海……かもしれませんね」
「………へっ?」
金地院崇伝も、天海僧正も江戸時代初期の徳川家康に仕えた僧侶だ。
天海は特に有名で、徳川家康の孫の家光には、尊崇されていたらしい。
美聖も、そのくらいの知識は持っている。
しかし、今回の場合、皇は間違いなく、理純の父、恵慧師のことを指しているようだ。
美聖もいまだ会ったことがない、トウコの幼馴染理純の父。
誰も何も美聖には言わないが、今回、色々と裏で動いてくれたようだった。
これほどまでに、有名人だったとは……。
(いや、政財界に知り合いが多いって、そういうことなんだろうけど。黒衣の宰相って、すごいネーミングだわ)
暗号のような会話についていけない父を放って、皇は話を続けた。
「日下部先生も、いまだに一度も面会すらしたことがないのに、このお坊様には、随分と心酔されているようでしてね。私は、西河先生で懲りましたので、そういったことは、一切、信じないのですが……。貴方の方こそ、気を付けた方が良いのでは?」
皇は柔和に声音に毒を潜ませて、美聖に呪いをかけた。
「…………己の身の丈以上の人との関わりは、貴方を破滅に招きますよ。貴方は、ただ円くんのため、小遣い程度に、占いをしているのが宜しいかと思います」
(この男……)
どうせ、皇は、最初から西河マリアのことなど信奉していなかったはずだ。
(西河マリアより、はるかに自分の方が優れていると、思っていたくせに……)
この短時間で、美聖の主張には耳を貸さず、こちらの心をかき乱す言葉の刃を浴びせてくる。
(分かっているわよ……)
降沢と自分が釣り合っていないことなんて、最初から百も承知だった。
だから、きっと、少し前の美聖だったら、その言葉に大いに揺れて、泣きだしそうになりながら、この場を去っただろう。
…………しかし。
(今は違う……)
今までの美聖ではない。
もう、そんな悩みも、苦しみも、走り抜けたところに自分はいる。
理純の言葉が、脳裏で蘇った。
降沢在季と一緒にいる方法は、一つ。
――――揺れないこと。
美聖は、毅然と背筋を伸ばして、艶やかに微笑んだ。
「皇先生。ご忠告、有難うございます。……でも、私は今が幸せなんですよ。余計なお世話です」
「…………ほう」
皇は意味ありげに、顎を擦った。
「そうでしたか……。それは、大変失礼いたしました」
目元の笑い皺を深く刻み、どこか達観したような薄い笑みを浮かべる。
その仕草が降沢に似ている。
(やっぱり……)
二人は、どこか似たような空気を放っている。
根源的なところで、繋がっている何かがあるのだろう。
だけど、降沢は自分の目的のために、人を利用するなんて真似は絶対にしない。
むしろ、すべて分かった上で、利用される側を選ぶはずだ。
……そういう人なのだ。
「さっ!」
美聖は軽く息を吐くと、未練を断ち切るように、すっと立ち上がった。
長い髪がさらりと音を奏で、膝丈の白いフレアスカートがふわりと揺れた。
「行きましょう。……お父さん、円」
「えっ……。しかし」
もたもたしている父には一瞥もくれず、美聖は「失礼しました」と、皇に一礼すると、円の手を引っ張りながら、廊下に出て行った。
すたすたと歩き、丁度停まっていたエレベーターに飛び乗る。
走って追いかけてきた父が、息を切らして問いかけた。
「おい、いいのか? 美聖……お前は」
――いいはずなんてない。
だけど、これ以上、皇から言葉を引き出すことは出来ない。
証拠もなければ、皇の背後には著名な政治家が控えている。
何も持たない、美聖の出来ることは、限られているのだ。
(……でもね)
美聖は、閉まっていくエレベーターの扉の隙間から、横目で搬入業者の姿を確認した。
自分には、霊感なんてものはない。
だけど、あの人のことだけは、分かる。そう……自負していた。
「どうしたの? みっちゃんママ……」
怪訝そうに、円が絡めていた手を握り返して来たので、美聖は微笑みを作って、円の目の位置にしゃがみ、その手を両手で包みこんだ。
「………………大丈夫よ。きっと、これだけじゃ、終わらないわ」




