⑤
降沢は、映里の美聖に対する遺言を伝えてくれただけで、真実が何なのか、何も話さなかったし、美聖も訊ねることはしなかった。
――ただ、アトリエで完成した絵を見た瞬間……。
美聖は、映里の声を拾った。
映里が見た最後の空……。
手を伸ばしたけれど、届かなかった世界。
最後の無念な気持ち……。
思い返すと、再び同調して涙が出そうだったが、これは映里の気持ちであって、美聖のものではない。
またいずれ、映里のことを想って、美聖が泣くこともあるだろうが、それは今ではないのだ。
『後悔しないように生きてほしい』
それが映里が美聖に宛てた最期のメッセージであるのならば、それが指し示していることは、降沢との関係だろう。
美聖は降沢のことを好きだ。
しかし、その気持ちに反して生きようとしていた。
(でも、万が一、私がこの世からいなくなったら……?)
美聖は、絶対に自分の気持ちを伝えなかったことを後悔するだろう。
そして、その逆もまた同じだ。
(降沢さんが、もし……いなくなってしまったら……?)
美聖は、耐えられない。
こんな曖昧な関係のまま、すべてを終わらせたくない。
たとえ、降沢の気持ちが美聖の望むものでなかったとしても……。
そこまでの感情に育っていなかったとしても……。
逃げだしたら、駄目だ。
(はっきりさせなくちゃ……いけないんだね。お姉ちゃん……)
決着は必ずつけるつもりだ。
だけど、その前に、美聖には映里の妹として、まずやらなければならないことがあった。
――三百万円の小切手。
これを、皇に突き返さなければならない。
それは、他でもない、美聖の仕事だ。
本当は一人で実行したかったものの、金額が金額だったため、美聖は父に相談した。
父は、今まで美聖が映里の死因を調べていたことを、薄々気づいていたらしい。
しかし、映里の死に、そこまで深い事情があったことは、正直、寝耳に水だったらしい。
父のことだ。
せっかくだから、もらっておけと言うかもしれないと、半ば美聖は覚悟をしていたものの……。
『父さんが、弁護士に話をつけて来てやる』
そんなふうに、今回に限っては、息巻いてくれた。
父もまた映里の死因について、口を噤んでいた弁護士の皇を信用できないようだった。
美聖は自分一人で行くと、宣言したものの、父は納得せず、押し問答の末、結局、父が急きょ会社を休んで、三人で皇のもとを訪問することになった。
……そうして、迎えた当日。
美聖は、皇にアポイントを取らなかった。
きっと、のらりくらり煙に巻かれて、会ってくれないだろうと感じたからだ。
――カーディナル弁護士事務所。
赤が好きだと言っていただけあって、事務所は、赤坂の駅前の高層ビルの最上階にあった。壁は白かったが、絨毯は緋色である。
(まるで、結婚式場みたい)
綺麗な事務所であったが、温かみは感じられなかった。
待合室に通された美聖は、皇に会えるまで、何時間でも粘ってやろうと腹に決めていたが、意外にも彼はすんなりと、美聖たち家族と面会することを了承した。
細長い迷路のような事務所の奥に通される。
新しいペンキの匂いと共に、搬入業者の行き来が頻繁だった。
(部屋の模様替えでもしているのかしら? 別に必要なさそうなのに……)
ぼうっとしている美聖と家族を、事務的に秘書の女性が皇の部屋まで案内してくれた。
皇の部屋は、まるで、テレビドラマで見ている社長室そのものだった。
革張りのリクライニングチェアで、たった今まで電話をしていたらしい、皇は丁度受話器を戻したところだったようだ。
グレイのチェック柄のスーツに、胸ポケットには、白のポケットチーフ。その少し下に、降沢が返却した弁護士徽章が無機質に輝いていた。
「ああ、一ノ清美聖さん……。お久しぶりです」
皇の人懐っこい笑みに、美聖は焦った。
相変わらず、この男、降沢と同様、飲みこまれてしまいそうな雰囲気を持っていた。
美聖は慌てて、頭を下げた。
「ご無沙汰しています。皇さん。お忙しいところ、私たち家族のために時間を取って下さり、ありがとうございます」
「ええ。今日は、映里さんのお父様に、円くんも一緒なんですよね」
愛想の良い皇は、流れるように、手前の応接用のソファーに三人を案内した。
「円くん……去年と比べると、見違えるようだね。最初に君に会った時は、痩せ細っていて、毎日同じような服を着ていたから、私は心配していたんだよ。元気そうで良かった」
「…………どうも」
円は控えめに、挨拶をした。
一回、美聖を上目使いで見たのは、本当に、この男と会ったことがあるというサインだろう。
子供なりに、皇を警戒しているのだと感じ取ったのは、美聖だけではなかったらしい。
円を護るように、父が勢いよく切り出した。
「皇さん……。初めまして。私は美聖の……映里の父の一ノ清 春己と申します。美聖から、映里のことを聞いて一度お会いしたいと思い、こちらまで押しかけた次第です」
「初めまして。勇ましいお父様。私は皇 悟史と申します」
皇が礼儀とばかりに、父に名刺を差し出した。
何が楽しいかというくらいに、にこにこしている。
けれど、美聖には分かった。
笑顔の奥底の怜悧な瞳が蔑むように、父を見ていた。
(…………なんで?)
丁度、その時、先程の秘書の女性がお茶を三人分用意して持って来た。
「皇さん、どうして、もっと早く映里の死について話してくれなかったのか……。その事情は、美聖から聞きました。しかし、私は残念です。別におおやけにしようというつもりはありません。事故だというのなら、きっとそうだったのでしょう。しかし、何となく貴方のやり方は気に入らない」
父がスーツの内ポケットから、大理石の机の上に、小切手の入った封筒を置くと、皇に向かって勢いよく突き返した。
「これは、お返しします」
「円くんには、養育費がこれからいるでしょう。まだ足りないと言うのなら、捻出することは可能ですよ。…………日下部先生も了解済みです」
「どうして、そこまで私たちにしてくださるんですか? 姉は事故……なんですよね?」
美聖が念押すと、皇はさらさらの髪を揺らして、肩を竦めてみせた。
「こちらの気持ちですよ。映里さんは、こんなに可愛いお子さんを遺されて、亡くなったんです。誠意を示したいだけです」
「本当に?」
父が探るように、目を細める。
「あくまで、憶測ですけど……」
そこで、美聖は毅然と言い放った。
「最初から、近々、西河マリアが逮捕されるだろうことを、貴方はご存知だったのではないですか? 顧問弁護士を辞めたのもそのための対策だったのでは?」
「顧問弁護士を辞めたのは、半年前のことですけど……」
「姉の死から時間をかけて、動いていたのでは? 日下部先生も、逮捕のことをご存知だったんじゃないでしょうか? 最近の週刊誌を見ていると、西河マリアに心酔していた芸能人や政治家などの実名が、頻繁に出ていますから。懇意にしている人間を脱退させてたのかもしれません」
「どういう意味ですか?」
皇は余裕たっぷりに、足を組んで、美聖の話を急かした。
一応、聞く耳は持っているようだった。
「日下部先生は、早い段階で奥さんと息子の連也さんを、西河マリアのところから去らせたかった。でも、奥さんも連也さんも心酔しきっているし、他にも彼女に関わっている政治家はいる。それを表立ってすることが出来なかった」
「ふーん。面白い、憶測ですね。…………で?」
「そこで、日下部先生は、貴方に頼んだのではないですか。もしも、姉のような立場の人間を宛がえば、まず連也さんのお母様が、西河マリアに疑心を抱く。同様に、連也さんもまた……」
「……そんな馬鹿な話、ありえませんよ。西河先生の意志に、私なんかが口を挟めるわけがありません」
「そうかもしれません。……でも、私にはどうしても、姉が貴方たちの思惑を知っていて、協力したような気がして仕方ないのです」
「はっ? どうして、映里さんが、私に協力してくれるんです?」
「姉の正義感と……それに、お金のためだと思います。連也さんの素行の悪さを訴えて、少し懲らしめたいと言えば……。姉は、元々そこまで西河マリアに心酔はしていなかったのでしょう」
「そんなことが貴方に分かるんですか? 映里さんとほとんど音信不通だった貴方に?」
「…………そう、確かに私では説得力がないですけどね」
ただ……。
降沢の描き上げた絵を見た時、美聖の脳内に浮かんだイメージがあった。
それが美聖の心中では、真実に思えてならないのだ。
映里は、占いには傾倒していた時期があった。
死後、借金があったことも発覚している。
だけど、美聖の知っている映里は勝気で、強い女性だった。
夫の裏切りと死によって、心を闇に堕として、自分を見失いそうになっていたけれど、このままではいけないと、再起を図ろうとしていたはずだ。
そこに、少し痛い目に遭わせて欲しい男がいる……と、見返りは支払うと言って、皇が接近してきたのなら……?
力の衰えた西河マリアを、誘導する術を、皇は心得ていた。
マリアの言葉を、神の言葉だと信じている日下部親子だ。
普通なら考えられない無茶な話でも、連也は言うことをきくだろう……。
「最高の相性だと言われて出会った姉・映里が、連也さんを振り回すだけ振り回して、おもいっきり、嫌がらせをする。そこで、恐怖を感じた連也さんは、西河マリアのもとを去る。貴方の中では、そういう筋書きだったのでは、ないでしょうか?」
「美聖、それは…………?」
父が心配そうに、美聖を覗きこんでいたが、円は美聖の手を強く握りしめたまま、微動だにしなかった。
円もまた真実を知りたいのだ。
(……話したい)
それが映里の供養になるような気がした。




