⑤
恋愛運を占ったついでに、最上のことについて、二人が話している声が聞こえてしまったという話をすると、美聖が最上のファンだと思ったのだろうか、大いに警戒されてしまった。
当然と言えば、その通りだ。
二人も、気の緩みで、他人のプライバシーについて大声で話してしまったことに罪悪感があったのか、なかなか信じてもらえない。
個人情報に、敏感になっている昨今だ。
盗み聞きした内容を確かめるなんて、恐ろしい話だろう。
けれど、このことを、うやむやにはできない美聖は、丁寧に最上の個人情報を知りたいファンではないことや、決してマスコミに話そうとしているわけではないことを説明して、何とか信じてもらうことに成功した。
大人しそうなショートカットの女の子があくまで『従姉のお姉さん』から聞いた話で、真相は分からないと釘を刺した上で、美聖に話してくれた。
従姉のお姉さんは、数年前に最上と同棲を解消して、実家の鎌倉に戻ってきているのだそうだ。
(もしかして、最上さんって……)
彼女に会いに来たのではないだろうか?
そして、彼女の話から『アルカナ』にやって来たのではないだろうか?
そう思い至ってしまうと、やはり追い出してしまったのは可哀想だった気がする。
降沢が描くことは出来ないまでも、もう少し言い方があったのではないだろうか?
「なんか……ご縁というか、運命的なものを感じます!」
「まあ、占い師的な発想で面白いけど……」
閉店後の静かな店内で、低いトウコの澄んだ声が響いた。
「在季には、たまには普通の絵を描いて欲しいものよね」
「しかし、浩介。彼女曰く、ご縁……だそうですよ。それに今更こちらから申し出たところで、断られるかもしれませんし……?」
降沢はユリの絵の真下の定位置の席で、アールグレイティーを飲んでいた。
朝から変わらない、あさっての方向に飛び出している寝癖を押さえながら、ぼんやりと告げる。
「……それに、その従姉の女性が僕の祖母の絵について知っていたことも気になります。生前、確かに僕の祖母は手慰み程度に絵を描いていましたが、幸せになれる絵なんて、そんな商法はやってなかったはずです」
「そうよね。たとえ、絵をプレゼントすることがあっても、お祖母様は幸せになれる絵なんて言わないわよね。その従姉のお姉さんがそう思ったってことなのかしら?」
「それとも……?」
降沢は、頭上を仰いだ。
ユリの花の絵を気にしている。
「従姉…………か」
その呟きに、深い思いが込められているような気がした。
…………が、その後の降沢の反応は、いつものスローモーション生活が嘘のように、素早かった。
「降沢さん?」
美聖の呼びかけには答えない。
降沢は、ズボンのポケットの中に仕舞い込んだスマホを取り出すと、おもむろに何かを調べ始め、どこかに電話をかけた。
彼がスマホを持っているということだけでも衝撃的だったのに、なぜか操作も早い。
呆気にとられている美聖の肩を、トウコがぽんと叩いた。
「……まったく、困ったヤツだわ」
「はあ」
降沢が問い合わせたのは、最上が所属している音楽事務所だった。
最上本人に連絡があったことを言伝するよう頼むと、数分後には本人から折り返し連絡があった。
よほど暇なのか……とは、思わなかった。
バンドは活動休止をしているのだから、彼の自由時間も多いということだろう。
しかも、店の定休日に本人直々に顔を出してくれるらしい。
とんとん拍子に上手く予定が組まれてしまうのは、本当に運命的なもののように感じた。
だが、問題はその後だった。
わざわざ再度、最上に足を運んでもらったにも関わらず、降沢が肝心なことを言い忘れていたため、最上の機嫌は、最低最悪に落ちていた。
「何だ、それ? 俺をモデルに描くんじゃなかったのかよ?」
「貴方そのものより、その指輪の方に惹かれたんですよね」
降沢は悪びれることもなく、あっさりと告白する。
最上は赤髪をくしゃくしゃにしながら、左手の人差し指につけているシルバーの髑髏の指輪に、視線を落とした。
彼にとっては、じゃらじゃらつけている装飾の一つに過ぎなかったそれに、今初めて注目したといった感じだ。
「……じゃあさ、もし、俺が指輪外していたら、どうするつもりだったんだよ?」
「お守りなんでしょう。貴方は、それをとても大切にしている。……だから、惹かれたのです」
「はっ?」
意味が分からないはずだ。
何しろ、美聖にだって、分からないのだから……。
(うー。黙っているのがしんどい……)
今回の件が気になって仕方なかった美聖は、無理を言って、定休日に同席させてもらう許可を取り付けたのだ。
条件は大人しくしていることなので、降沢に対して、あまり強く出ることが出来なくなっている。
(だけど……)
降沢はマイペースで独特の言葉を発する。専用の通訳が必要のようだった。
それが、いつもならトウコの役目だったのだろうが、あいにく彼はデザートの準備をしていて、席を立っていた。
美聖は、トウコを大声で呼びつけたい気持ちで一杯だったが、ぐっと黙りこんだ。
幸い、最上は沈黙よりも、喋ることの方を選んでくれた。
「これは、メキシコで買ったんだよ。なんかピンと来てさ。だけど、こんな……ただの指輪を描いて何かあるのか?」
「…………降沢さん」
美聖は、隣に座っている降沢に視線で訴えた。
…………確かに、視える……と。
やはり、黒い靄のようなものが見えるような気がする。……だが、同時に金色の色彩も帯びているような気がした。
降沢は満足そうに、小さく頷いた。
それは、良いことなのか、悪いことなのか……。
「最上さん。正直、それを描いたところで、何かあるのか僕には分かりません。でも、貴方は僕に絵を描いて欲しいのでしょう? 僕も少し惹かれる程度の指輪ですけれど、これも何かの縁だと思うので、久々に絵を描いてみようかと思ったのです」
「…………画家先生の言うことは抽象的すぎて、凡人にはさっぱり分からんな」
最上は、アイスコーヒーをストローで啜りながら、ぶつぶつと何か言っている。
降沢は口元の笑みを絶やさずに、そんな彼を淡々と眺めていた。
「でも……。貴方だって、僕と同じ創造主ではないですか?」
「はっ?」
「僕は、貴方の作品を聞いたことがなかったので、今回、初めて聞いてみたんです」
「それは、有難い話だな。……で?」
「正直、よく分からなかったんですけど……」
「降沢さん……」
美聖が小突いても、何が悪いのかと言わんばかりに、降沢は首をかしげていた。
案の定、最上が噛みついてきた。
「あんた、俺を馬鹿にしてんのか?」
「いえいえ、別に。趣味の違いというだけですよ。馬鹿にするのなら、もっと徹底します」
「……まあ、なんだ。あんたは。ある意味、正直で面白いと思うよ」
鬼の形相が一転、最上は頭を抱えて笑っている。
その姿は、まるでずっと張りつめていた緊張が一気に抜けて、肩の荷を下ろしたようにも見えた。
最上は急に砕けた様子で、訊いた。
「画家先生だから、それこそクラッシクとか、そんなのばかり聞いてるんだろ?」
「音楽自体、あまり聞かないのですよ。自分の浅学を恥じるところです。でも、今回貴方と知り合うことで、ロックというジャンルを聞くまでに至りました。ボーカルも、作詞、作曲もすべて貴方が手掛けていることも知りましたしね。売れる音楽を作り続けるのって、きっと、たった一人で暗い洞窟の中を模索しながら歩いているのと同じ意味なのではないか……と思います」
「あんたも……ある意味、こっち系だもんな」
「僕と貴方じゃ、全然違いますよ」
降沢は、目尻にしわを寄せて、苦笑していた。
「僕は売れない画家なので、貴方に比べれば気ままなものです。特に、おかしな物ばかり描きたがる変わり者ですからね。……それでも」
(……あっ)
その時、美聖は間近で、降沢の閃く双眸を見た。
「こんな僕ですら、思います。もしも…………会心の一枚を一生のうちに一枚でも描くことが出来たのなら、死んだって構わないんだって」
………………瞬間。
ぞわり……とした。
プロとしての心構えのようなもの……ではなかった。
それこそ、踏み込めない降沢の本心のような気がして、美聖は怖気を覚えた。
――近づいてはいけない。
まるで、身体を通して警告を受けているような、危険な香りがしていた。
だけど、美聖は席を立つことなんて、出来なかった。
完全に、二人の間に立ち込めている緊迫感に、飲みこまれていたのだ。
「………………俺は」
最上が唇を噛んでいる。
降沢の穏やかだが、迫力のこもった一言が琴線に触れたらしい。
やがて、ぽつりと彼が零した言葉は、美聖が女の子から聞いた情報と同じだった。
「元カノが昔、鎌倉の降沢って画家に絵を描いてもらうと、幸せになれるって話をしてたのを思い出して、ここに来たんだ。本当は絵なんて、どうでも良かったのかもしれないな」
「最上……さん」
「……て、別に未練のようなものがあったわけじゃないぞ。けど……。ただ……噂で、婚約寸前の彼氏がいるとか聞いて、すごく懐かしくなったったってわけさ」
(なるほど……)
やはり、最上は降沢の絵が目的ではなく、彼女の面影を求めていたのだ。
「最上さん……。残念ですけど、その元彼女さんが話していたのは、おそらく、僕の祖母のことだと思います。祖母の絵が幸せになるものなのかはともかく、僕の絵は誰かを幸せにするような代物ではありませんから」
「…………何だ。あいつが言っていたのは、あんたじゃなかったのか」
「だとしたら、どうします? やっぱり、僕に絵を描かせるのは、やめておきますか?」
降沢は挑戦的に体を前に乗り出した。
「選択するのは、貴方自身ですけど?」
「おいおい、何だよ。急に営業トークみたいだな? あんた金がなさそうだから、高く買えって言いたいんだろう?」
「そう見えます?」
本心なのか、きょとんとしている降沢に……
「だから、いつも言っているのに。格好くらいどうにかしろって……」
特製のチェリータルトを、人数分配りながらトウコが母親モードで降沢に説教をした。
美聖もトウコに便乗する形で、普段言えなかったことを口にする。
「少しくらい、前髪切ったら良いんじゃないですか?」
「ああ、そうか。鬱陶しいですよね。最後に切ったのは、いつだったかな……」
その物言いがすでに、心配なレベルである。
飾り気の一つもない降沢の格好は、憐れですらあった。
細っこい身体をしているせいもあって、栄養状態を疑ってしまうレベルだ。
「大丈夫なのかよ。画家先生は」
皮肉たっぷり口元を歪めた最上に、美聖はハラハラするものの、彼なりのブラックジョークだったのだろう。
すぐに、テレビで見たことのある飄然とした顔つきに戻った。
「あの絵……。あんたが描いたのか?」
「ええ」
丁度、ユリの絵が見える位置に着座していた最上が立ち上がった。
「ふーん……。これのタイトルは?」
「…………『慕情』よ」
降沢でなく、トウコが答えた。
「慕情……ねえ」
最上は、そのまま仁王立ちで、しばらく絵を眺めていた。
陽光が最上の黒いブーツの足元を照らす。
それを皆で黙って、見守っている。
美聖がなかなか直視できない、その作品をたっぷり鑑賞した最上は、やがて、おもむろに、左手の指輪をはずした。
「あのさ……。知っての通り、バンドは活動休止ってことで、俺……行き詰っているわけよ」
「…………そうなんですか」
淡々と相槌を打っている降沢の態度に、最上は溜息を零した。
「あんたみたいな反応、マジで新鮮だな」
最上は、投げるようにして、ぞんざいに髑髏の指輪を降沢に渡した。
「こんな外国の土産程度の指輪でどこまで描けるか分からないけど、先生の好きなように描いてくれよ」
「分かりました。当然、そうさせて頂きます」
銀色の指輪を掌で包み込んだ降沢は、最上に向かって、ぺこりと小さく一礼した。
……………………そうして。
その日から、降沢は離れの作業場から出て来なくなってしまった。