④
――三日で仕上げると公言はしたものの、我ながらハードなスケジュールだった。
(終わるかな……?)
まあ、絵が描き終わらなければ仕方ない。
降沢の描き方の場合、未完成は有り得ないのだ。
しかし、出来れば、善意で動いてくれた皇の奥さんを傷つけたくはなかった。
(あの男……やっぱり色々やらかしているな……)
たかがバッジであるが、小さな金色のそれに、あらゆる感情が泥のように付着している。
降沢は、それを丹念にたどって行く仕事を、二日間繰り返していた。
実際、自分が何を描きたいのか、未だに分からない。
降沢の描き方は、ある意味、自動書記のようだ。
自分の意志は、絵に介在しない。
いつも流されるままに描き、その中で視えた物があっても、すぐに忘れるようにしている。
一心不乱に筆を動かしている時は、それが正邪のどちらでも、心地が良い。
しかし、今回に限っては、そのスタイルを取ったら、真実から置きざりにされてしまうだろう。
(…………映里さん。貴方は何処にいるのですか?)
降沢は、神憑りの絵を描くようになって、初めて問いかけている。
他の念を素通りして、極力彼女に絞って、掘り下げていきたかった。
映里の心情は、絶対にこの記章に流れて来ているはずなのだ。
――タスケテ。
「えっ?」
その時、微かに心の奥から女性のすすり泣く声が聞こえた。
(映里さんか?)
ようやく、手掛かりを見つけたようだった。
降沢は絵筆を動かしながら、その弱々しい嗚咽を辿る。
けれど、映里と思しき女性はなかなか姿を見せてくれない。
代わりに、彼女ではない、他の人間の情念が蠢いていて、降沢の行く手を阻んでいた。
(普段通り、それらの感情をやり過ごすことができれば、さほど苦しくはないはずなんだけど……)
しかし、映里の声を拾いたい降沢は、おもいっきり、皇が抱えている闇の中に潜っていくしかなかった。
(本当、異様に死にたくなる瞬間だな)
意味もなく、死にたくなるのは霊症の類らしい。
皇という男、どれだけの人間を追い詰めて、生きてきたのだろう。
「いけない……」
――飲まれるな……。
たとえ、降沢の深層心理に、ここで死んでもいいという捨て鉢な気持ちがあったとしても、こんなところで半端に終わらせて良いものじゃない。
(きっと……縁があって、彼女と関わったんだ)
降沢には、絵を描くことくらいしかできない。
他のことは、てんで駄目だ。
気が利かないし、愛想はないし、根暗だし、頑固だし……。
たった一つの長所で、彼女が望むものを手に入れることが出来るのなら、こんな幸運なことはないではないか。
「降沢さん」
「………………」
目をつむっているような、開けているような、薄目のままの一種独特の状態で、降沢は美聖の声を聞いた。
(とうとう、幻聴か?)
それとも、映里の声が美聖のように、聞こえてしまっているのか……。
降沢の冷たい体に寄り添うように、美聖がすぐそこにいるような気配がする。
「お姉ちゃん……お願い。声を聞かせて」
そんなことを、彼女が傍らで呪文のように唱えている。
彼女がもたらしてくれる、じんわりとした温かさが降沢に生きている実感をもたらせてくれた。
まだ……やれるはずだ。
(一ノ清 映里さん。僕は貴方の妹さんと同じ職場の降沢と言います。貴方が亡くなって一年以上、いまだに妹さんは、貴方に負い目を感じている。僕は彼女の心を、開放してあげたいんです。…………貴方も言いたいことがあるから、ずっと、彼女の傍にいるのでしょう?)
――ワタシ……
(この声……?)
先程の女性の声……。
映里だ。
彼女が降沢の呼びかけに、応えてくれたのだ。
か細い声が降沢の心の中に、ダイレクトに落ちてきた。
――ダマサレタノ……。
「だま……された?」
再び、映里の想念が降沢の心中に流れ出した。
スクリーン映像のように、彼女が見ていた景色が降沢の脳裏に浮かび上がる。
こんなふうになったのは、霊媒体質を捨ててから、初めてだった。
哀しみ、苦しみ、切なさ、不安……。
映里の抱えてきた気持ちも共に、降沢のもとに降ってくる。
(ああ、やっぱり……)
映里は、美聖を恨んでいるのではない。
むしろ、悔やんでいる。
泣いているのは、悲しいからで、今でも美聖の傍にいるのは、成仏しきれないからだ。
(だって……彼女は)
あの日、ビルから仰向けに落ちた彼女が最期に見ていたのは、皇の透明な笑顔だ。
掴もうとしたのは、連也の手ではなく、皇の胸倉だった。
(無念だったんだな……)
降沢の想像していた展開だった。
想像だけでは、辻褄が合わなかったものの、映里の記憶が降沢の憶測を補完した。
「映里さん……貴方は」
――ダマサレタノ。
彼女は、何度もその言葉を繰り返す。
そうだ。騙されたのだ。
どうして、自分が死ななければならなかったのか……。
自分の死に意味があったのか?
彼女は正義心で行動していたはずだったのに、結果……裏切られてしまった。
――イヤダ。イヤダ。シニタクナイ。
それもそのはずだ。
彼女は、まだ死にたくなかったはずだ。
円を大切にすることが出来なかった罪の意識。
美聖の心を閉ざしてしまった後ろめたさ。
まだ、生きて……やらなければならないことが山ほどあったはずだ。
(貴方の声は、確かに聞きました。だから、安心してください)
「…………このままでは、絶対に終わらせません」
断固として言い放つと、スイッチの電源が入ったかのように、降沢の脳内に、映里は生前の姿で現れた。
(映里……さん?)
美聖と面影が重なるものの、彼女より少し大柄で、勝気そうな女性は、光の中でブロンドの髪をなびかせていた。
『私、ずっと待っていたのよ。みっちゃんと、貴方が出会ったあの日から、いつか会いに来てくれるんじゃないかって』
(ああ、そうだったんですね。遅くなりましたけど……ようやく、貴方にたどり着きましたよ)
――長かった。
降沢は、心奥でわざとらしく、疲労いっぱいに答えた。
『……あの時の私は、世界で一人ぼっちな気がして、円には辛く当たってばかりいた。最低な母親だったわ。良い母親になろうって、覚悟した矢先に死んじゃったんだもの』
(……円くんは、賢い子です。今に分かってくれますよ)
『みっちゃんは、何で私が恨んでいるなんて、思ってるんだろう?』
(彼女は、そういう人なんですよ。貴方に対して、何もできなかった自分が悔しいんです)
『意外に、あの子って、負けず嫌いだから……』
(……よく知っています)
『円を頑張って育ててくれているけど、私はね、みっちゃんには後悔しない人生を送ってもらいたいだけなの。ただ、それを伝えたかっただけなのに……』
(僕が伝えておきますよ。……きっと、今の彼女なら、貴方の本当の言葉を受け入れられる余裕があると思いますよ)
『ありがとう。沢山迷惑をかけて、こんなこと頼める義理じゃないけど、降沢さん、あの子のこと……』
奇しくも、彼女の願いは美聖の父と同じことだった。
自分はどうも一ノ清家の人達に頼りにされやすいらしい。
(どうしてなんだろう。僕は、こんな男なのに……)
まったく自信はないけれど、交わした約束を破るつもりはない。
…………………………もう逃げることはできないのだ。
「描け…………た」
降沢は自分の声で、我に戻った。
少しの時間、自分が何処にいるのか、何を描いていたのかすら忘れてしまったものの、傍らの弁護士徽章を発見してから、すべての記憶がつながった。
(一体、僕はどれくらい時間を費やしたのだろう?)
鳥の声が聞こえる。
凛然とした空気は、朝のものだ。
眠気も食欲も、分からなくなってしまったけれど、肌寒さと喉が酷く乾いていることは、自覚できた。
手と一体化してしまったような、絵筆を傍らの丸机にあるパレットの上に放り投げて、おもいっきり伸びをすると、ふわりと肩から何かが落ちた。
「えっ、毛……布?」
誰かが、降沢にかけてくれていたらしい……。
(一体、誰が?)
――と、目を凝らしたところで、降沢はようやく気がついた。
降沢の斜め後ろに、美聖が静かに佇んでいる。
「…………一ノ清さん」
幻聴だと感じていた声は、本物の彼女の声だったのだ。
いつの間にか、美聖がアトリエに来ていたようだ。
一体、彼女はいつからそこにいたのだろう。
時間の流れがおかしくなっている降沢に、答えが分かるはずもない。
こうして絵の完成を待っていたということは、美聖もまた一晩、眠っていないのではないか……。
「降沢さん…………。これは……姉の絵ですね?」
長く伸びた髪が、彼女の横顔を微妙に隠している。
彼女は降沢ではなく、真っ直ぐ、キャンパスの中の風景を眺めているようだった。
普通に見ただけでは、ありふれた風景画かもしれない。
曇天の空から、一条の薄日が差し込む。黄昏時のビルの谷間から見た空の絵だった。
「……これが……お姉さんが、最期に見た景色のようです」
降沢は目を擦りながら、答えた。
美聖の姿がぼやけてしか見えないのは、寝不足と疲労のせいで間違いない。
「そうですか。お姉ちゃんはビルの下で、空を……」
途端、降沢の方を向いた美聖がほろりと、片目から涙を零した。
口角がわずかに上がっている。
それは、悲しい涙ではなく、映里に対する共感の涙だった。
「最期に見たものが、灰色のビル群よりも、空の方がいいですよね……」
「ええ、僕もそう思います」
降沢がしんみりと頷くと、美聖は一層目を潤ませたが、両手で顔を覆ってしまったために、表情を読み取ることができなくなってしまった。
「みっちゃんに、後悔しない人生を歩んでほしい」
「えっ?」
「それが、映里さんの遺言です。……確かに、伝えましたよ。一ノ清さん」
「……………………お姉……ちゃん」
声を震わせ、すすり泣いている美聖を降沢は静かに見守っていた。
昇ってきた朝日がカーテンを塗って、室内に差し込む。
眠ってないせいか、美聖の全身を金色に染める光のシャワーが、後光のように見えてしまった。
(…………そうだったな。あの時も)
初めて、アトリエにやって来た彼女の姿を認めた時も、降沢はそんなことを思っていた。
(神々しい……なんて)
光を纏い、やってきた彼女が暗闇の中で膝を抱えている自分に、手を差し出してくるイメージ。
彼女に出会うまで、自分には、絶対に有り得ないと思っていた激しい心境の変化。
たった半年ちょっとで、彼女の存在は、降沢の中で大きく膨れ上がってしまった。
……愛おしい。
素直に、そう感じた。
「僕は……」
降沢は立ち上がると、顔を覆ったままの、美聖の頬におそるおそる自分の手を重ねた。
ぴくりと、美聖が返した反応を確認すると、もう駄目だった。
絵を描き終わった直後の降沢は一種の興奮状態だ。
理性の欠片なんて残っているはずがない。
降沢は勢い、彼女の上に覆い被さるように、きつく抱きしめた。
「えっ、あっ……ちょっと!?」
美聖が降沢の行動を読めずに、慌てている。
降沢の唯一の誤算は、想像以上に体力を消耗していたことだった。
体に力が入らずに、ほぼ全体重を彼女に預ける格好となってしまい、当然支えきれそうもなくなった美聖は、必死に降沢を呼んだ。
「ふ、降沢さん!? 聞こえています。降沢さん! 私、ちょっ、無理……」
――どたん、豪快な音を立てて、美聖は後ろにひっくり返った。
完全に降沢が美聖を押し倒している格好となっている。
「いたっー。……て、降沢さん、もしかして栄養失調とか、寝不足すぎて、死にそうなんじゃ……」
――そんなはずはない。
今まで、どんなに不摂生をしても、降沢は病院の世話になったことは一度もないのだ。
(でも…………)
意識ははっきりしているものの、あえて、ここで彼女にそれを話すつもりはなかった。
彼女の胸元に、丁度顔が当たっているのは、幸運だった。
セーター越しとはいえ、美聖の感触が気持ちいい。
早鐘のようになっている心音が可愛らしくて、いつまでも、この柔らかい肌に包まれていたかった。
「降沢さん。しっかりしてくださいよ。もう……」
美聖は、しばらくジタバタしていたものの、降沢が眠ったふりをすると、さすがに諦めたようだ。
「寝ちゃったんですか?」
「……………………」
「降沢さん?」
周囲を覗いながら、美聖は、ゆるゆると降沢の背中に両手を回す。
「本当に、お疲れさまでした」
「……………………」
「降沢さん、姉と私のために、こんなに頑張って下さって。私は、貴方にどんなお礼を返したら、いいんでしょうか……」
そんなこと……いいのに。
(どうして、一ノ清さんは律儀なんだろう……)
寝たふりをして、彼女に抱き着いていたものの、黙っていられなくなってしまった。
「…………君は気にしなくていいんです」
「へっ?」
「いいんですよ、一ノ清さん。僕は自分のために、映里さんのことが知りたかっただけなんですから」
「はっ……」
はい……と返事をしかかった美聖だったが、やがて顔を真っ赤にして狼狽えた。
「ちょっと、降沢さん、起きて……!?」
慌てて身体を起こそうとする美聖を、降沢は離さない。
胸元にもたれたかかったまま、動こうとはしなかった。
「一ノ清さん、いずれにしても、いわくのある物や人は、僕のもとに集まってくる傾向があるんです。それはもう、逃れられない宿命みたいなものなんですよ。今回は、たまたま君のことだったってだけのことで……。いや…………君のことだったからこそ、僕は、初めて自分のこの体質に感謝することができたんです」
「降沢さん……」
彼女が静かになったのを見計らって、ゆっくりと身体を起こすと、降沢が美聖を覗きこむような格好となった。
眩い日差しがカーテンの隙間を縫って、二人を照らしている。
急激に、降沢の目は覚めた。
美聖の清冽な眼差しが、逸らされることなく自分に向いているせいだろう。
その視線に、降沢の心臓が高鳴っている。
きっと、美聖とお揃いだ。
「…………でも、せっかくお礼をくれるのなら、欲しいものがあります」
「何ですか?」
「それは…………」
最後まで言わずに、ゆっくりと顔を近づかせ、そのまま美聖の唇を奪おうとした………………その時。
「……………………あっ」
彼女の頭の先に、見覚えのある男の足を発見してしまった。
この男がなぜこの時間にここにいるのか……。
…………理由は自ら述べてくれた。
「あああっ!! まったく、心配して私だって泊り込んであげたって言うのに。ただのスケベ中年は、疲れるどころか、欲に忠実に動いているようねっ!?」
瞬間、美聖が降沢の背中に回していた両手をぱっと離した。
「ト、トウコさん……? どうして?」
「あー。残念だったなあ。降沢。あともう一息だったのに…………ほんとうに無念」
理純がわざとらしい溜息を吐いている。
「せっかく二人の時間を作ってやったのに、ちょっとタイミングがまずかったな」
この男の底意地の悪い笑顔が間近にあること知って、降沢ははらわたの煮えくり返る思いで、二人に対する報復計画を考え始めたのだった。




