③
何だか、思わぬ方向に事が進んでいる。
……自殺から恐喝未遂の事故?
それでも、あの幕の降ろし方を、降沢は疑わしそうにしていた。
あれから、美聖は何度か一人で占いをしてみたが、出てくるカードは、必ず、愚者と正義と法皇だった。
(一体、何のことなんだろう?)
西河マリア風に言うと、それが鍵になるキーカードということだろう。
「……て、鬱々していても、仕方ないんだけどね」
もう少し、皇を調べた方がいいのだろうか……。
――だとしても、これ以上、根拠のないことに降沢もトウコも巻き込めない。
(政治家と弁護士だなんて、怪しすぎるじゃないの……)
手を出すにしても、しっかりしないと、痛い目に遭うのはこっちだ。
美聖は、何度ももらった名刺を睨んではいたが、日常は容赦なかった。
(駄目だわ……。時間が作れない)
掛け持ちバイトと家事と育児で、美聖は疲弊しきっていた。
先日、降沢が迎えに来たとき、学童保育の先生から「アルカナ」の定休日は、円の面倒を見ることは出来ないと言われてしまったのだ。
そういうことで、学校から帰ってくる午後二時以降、美聖は、めいいっぱい円と過ごすことになっていた。
家族の時間が増えるのは有難いことだが、たまに「アルカナ」の定休日も、バイトをしていた美聖にとっては、金銭的に厳しくなりそうだった。
そんな「アルカナ」の定休日。
円と一緒に行った買い物帰りに、郵便ポストをチェックすると、宛先人不明の白い封筒が入っていた。
(何、これ?)
おそるおそる、封筒を開くと、無記名の小切手が入っていて、そこには、確かに三百万の数字が記載されていた。 何度も桁数を確認したが、間違いではない。
「これって……」
皇の仕業だ。名義が皇の名前になっている。
(あの人……)
お金はいらないと言ったのに、わざわざ送ってきたらしい。
急いで名刺の電話番号に連絡をしたら、相変わらず、一見下手だが、脅迫めいた口調で、彼は「養育費」に使って下さいと、譲らなかった。
「冗談じゃないわよ……」
まるで、口止め料みたいじゃないか……。
本当に皇の説明通りだったのなら、こんな金額を寄こさないはずだ。ますます怪しいではないか?
すぐさま、返却したい衝動にかられながら、美聖が翌日の出勤日「アルカナ」に出勤すると……。
「……あれ、降沢さんは?」
いつもの定位置に、降沢がいない。
代わりに、理純が降沢の専用席に、ごく自然に座っていた。
「理純さん?」
「よっ!……」
今日は白いシャツに、黒っぽいパンツ姿だ。
まるで、いつもの降沢のように、無彩色の格好をしている理純に、美聖は目を丸くしてしまった。
「理純さん、一体、どうしたんです?」
「あいつが、ひきこもりモードに入ったんで、呼ばれたんだよ。……ったく、俺だって暇じゃないのにな」
「ひきこもり……?」
「さるルートから、その弁護士徽章が手に入ったのよね」
「…………えっ」
――ということは、今まさに、降沢はそれを描いているのか?
「昨夜から、例によって、憑りつかれたように描いているよ。今回、俺が呼ばれた原因が分かるくらいだ」
「よく、あのバッジ借りられましたね?」
「まあ、頑張ったら手に入らない物はないって感じ……かしら?」
絶対に、トウコは誤魔化している。
合法的でなかったら、大変だ。一緒にいる時間が長くなるにつれて、更に深めた降沢の性格。
(あの人なら、無茶をやりかねない……)
むしろ、嬉々としてやるだろう。
いや、何より……。
「……降沢さん、大丈夫なのでしょうか? あのバッジ赤とか黒とか……いろんなものが出ていましたけど」
「さあ……。あいつ、珍しく張り切っていたからな。もっと深入りしたいから、霊媒に戻せって言われない限りは、大丈夫だと思うが」
「…………それ、本気で言いかねませんよ。ちょっと、私……見に……」
「無駄無駄……」
「でも……」
「あいつには、理純もいるんだから、心配いらないわ。とりあえず、美聖ちゃんは、仕事に専念しましょ」
「………は、はい」
トウコに促されて、美聖は不服ながらも頷いた。
――トウコの言う通りだ。
美聖が降沢の側にいても、何の意味もない。
降沢の世話まで、業務内容には入っていないのだから、仕事に集中するべきだ。
(プロでしょ! しっかりしなきゃ)
……それから、終了時間まで美聖は仕事のことだけを考えて過ごすように努めた。
――閉店時間後。
「どうでしたか。理純さん、降沢さんは?」
「どうも、こうも……。病気かってくらいの集中力だわな。あのバッジすぐに返さなきゃならんものらしいから、奴もスピード重視になっているんだろうけど」
理純は呆れているようで、心配しているようだった。
(まさか……なんてことはないわよね)
降沢は、どうしても刹那的な生き方になってしまう自分のことを、美聖に話してくれた。
……心配だった。
それは、美聖が引きこんでしまった手前の責任もあるけれど、純粋に彼のことが好きだからだ。
「あの……私……降沢さんの所に行ってもいいですか? もう、プライベートの時間ですよね!」
「おい、浩介。俺が一緒なら、少しだけなら、いいだろ?」
「そうね。貴方もいるのなら、私も行こうかしら?」
「…………マジかよ」
そうして、三人で連れだって、降沢のアトリエ……離れに出向いた。
理純が鍵を開けて、どすどすと、入っていく。
「お邪魔します」
美聖は小さく声を掛けて、三度目になる離れに入った。
季節柄、涼しい陽気とはいえ、ここの空間だけは、外とは違う、張り詰めた空気が流れている。
美聖は震えながら、板の間をすり足で歩いた。
時折響く、木目の軋む音。
美聖は緊張感を覚えつつ、理純とトウコの後に続いた。
まだ……夕陽は落ちていない。
室内の所々に木漏れ日が注いでいる。
理純が突き当りの部屋の扉を開けると……。
虚ろに暗い部屋の中で、イーゼルに立てかけられたキャンバスを睨んでいる降沢がいた。
「ふる……さ」
言いかけて、美聖は呼吸を飲みこんだ。
――視える。
今回は、はっきり。明瞭に……。
闇が迫っている空間に置いて、彼の周囲だけ金色に輝いているような気がする。
スポットライトが降沢だけに当たっているように明るい。
彼は遥か頭上から、何かを受け取っているのだ。
(…………神降ろしの絵? これが……)
食事をしたときに、降沢が話していた言葉が蘇る。
彼がじっと眺めている弁護士徽章が、傍らの小さな円卓から、触手のように、彼の背中にのしかかっているが、降沢は物ともしていない。
彼の絵筆は、魔法の杖のようだ。
色彩と同時に、光も発しながら、一筆、二筆と白いキャンパスに形を残していく。
「電気くらい点けろ。馬鹿」
理純がぼやきながら、電気のスイッチを入れた。
無造作に立てかけられた幾つもの絵は、まるで人の思念が凝り固まった墓場のようだった。
様々な色が絵から立ち上り、中には手招きをしているような絵もある。
ぞくりと震えて、一歩下がった美聖の背中をトウコが軽く叩いた。
「大丈夫よ。さすがに、めちゃくちゃ危ない物は、ここにはないわ」
「あっ、はい」
……て。
(めちゃくちゃ危ない物は、何処にあるのだろう……?)
それにしたって、この状態で、平然と一人でここにいる降沢は一体何者なのか。
美聖が心配するまでもなく、彼はこの場を一人で戦い、支配していた。
「トウコさん、降沢さんは、多少霊感が残っているじゃないですか? ここにいるのは、苦しくないんですか?」
「一度、心を通わせて描いたものだから、怖くはないそうよ。まあ、若い頃の恐怖に比べたらマシなんですって」
そういうものなのか。
いや、むしろ……これより大変ものを見ていた降沢の若い頃に、美聖は同情してしまった。
「あの……降沢さん……」
そっと呼びかけると、絵筆を握ったまま、降沢がこちらを向いた。
「ああ、一ノ清さん」
良かった。降沢は元気そうだ。目の下の隈は気になったが、顔色は悪くない。
一応、呼びかけにも応じてくれて、ホッとしている。
「……絵、描けそうですか?」
「ええ。今回は時間がないので、水彩で描こうと思っているんです」
「そうですか」
「明後日には、仕上がりますよ」
そんなふうに、降沢はさらりと言ったものの、その時にはもう、興味をなくしたように、美聖から視線を離していた。
降沢のそういう部分に、惹かれはするけれど、やはり少し寂しかった。
まだ薄らと無彩色がのっただけのキャンバスでは、彼が何を描こうとしていたのか美聖には分からない。
パレットに出ている絵の具は、グレイとイエロー。
(これが一体、何なのだろう? お姉ちゃんに、つながる何かなのかしら?)
美聖がぼうっと、絵描きを再開させた降沢の背中を見つけていたら、目の前で軽く手を叩かれた。――トウコだ。
「さっ、美聖ちゃん、ここは貴方が長居する場所じゃないから、行きましょう」
「えっ、でも……」
「まさか、貴方がずっと、ここにいるわけにはいかないでしょう? 理純も私も、今回に限っては、ちゃんと目を光らせているから、大丈夫よ」
美聖はトウコに引っ張られるようにして、わずか数分で、アトリエを後にした。
そして。
その翌日も、そんな感じだった。
食事だけアトリエに運んだものの、前の日より、降沢の反応は鈍くなっていた。
顔も窶れ始めている。相変わらず電気をつけていなかったので、つけようとしたら、止められた。
(本当に、この人、大丈夫かな……)
もう、その時には、皇の小切手のことなど、些末な問題と化していた。
今回は特に、映里の死が絡んでいるだけに、降沢が良かれと思って、暴走しないとも限らない。
(お姉ちゃん……本当に、色々と謝るから、降沢さんを頼みます)
それから、美聖は時間があれば、仏壇で拝み倒し、近所の神社で祈り続けた。
(私は、役に立たないから……)
絵を描く行為は、降沢にしか出来ない。
(何か私に出来ることがあれば良いのに)
何か出来ないか?
必死に考えて、考えて……。
――そして、期日の三日目に、美聖は腹を括って、出勤したのだった。
「美聖ちゃん、どうしたの? ちょっと今日は荷物が多い感じがするけど?」
朝のキッチンには、トウコと理純の二人がいた。
花柄エプロン姿で、スコーンを焼いていたトウコが首を傾げている。
傍らでは、自分でコーヒーを淹れている理純がいた。欠伸交じりに、片手を挙げて、美聖におはようの合図を送っている。
「トウコさん……。今日、降沢さんは絵が完成すると言っていました」
「ええ、そのはずだけど」
「今日は、私……アトリエに泊まり込みます」
「はっ? 何を言って……」
「でも、理純さんだって、ここに泊まっているじゃないですか?」
「いや別に、俺の場合は好きでやっているんじゃないぞ。……仕事だな。親父が泊まり込む代わりに、降沢の絵を一枚取って来いって言うから。まあ、そういうことだから、あんたが泊まりたいっていのなら、残業ってことになるんじゃないか?」
「残業?」
淡泊に告げられて、美聖は、そのことを失念していたことを恥じた。
「まさか!? 違いますよ! これは仕事ではなくて……。ただ、私は降沢さんの傍にいたいんです。父には、友達の家に泊まると言って出てきましたから、大丈夫です。誰にも、降沢さんにも、ご迷惑はおかけしません。私の都合でアトリエに置いて欲しいだけなんです」
「いや……でもね。貴方が泊まったところで、絵の完成には関係ないのよ」
「それでも……今回のことは、私が発端です。最後まで見届けたいんです」
「……んー。分かってると思うけど、美聖ちゃん。あのアトリエ、危険がないわけじゃないのよ。夜は魔性の時間だし、一晩となるとね。理純がいたとしても、すべて祓えるわけでもないから」
「いや、ですから、何度も言ってますけど、怖いですよ。本当に。でも、そんなことより、よっぽど降沢さんの方が心配なんです。あの人……放っておいたら、何をするか分からないんですから!」
再三、そのことは、トウコには話しているはずだ。
アトリエに行くのは、本当は嫌だ。
本能的な部分で、美聖は拒絶している。
………………それに、降沢だって、怖い。
たまに見せる怜悧な刃物のような目には、息の根を止められるような凄みを感じる。
絵に向かう時の狂気じみた姿勢も、美聖には到底理解できない。
相手にされない寂しさだってある。
――それでも、美聖はどうしても彼と共にいたいのだから、もう仕方ないのだ。
「…………はあ。吹っ切れたわねえ。美聖ちゃん」
「はっ?」
トウコが大きな体を揺らして、笑っている。
「悪いわね。ちょっと、貴方の気持ちを試しちゃったの。美聖ちゃんも分かってる通り、ただ好きってだけじゃ、あの男は大変だろうから」
「ええっ!?」
「……まったくよー。朝から愛の告白かよ。冬めいてきたのに、熱いもんだ」
出来上がったコーヒー片手に、理純がニヤニヤ笑いながら、美聖を覗きこんできた。
「変わったな。……一ノ清 美聖さん」
「そうでしょうか?」
まったく、自覚がないので、分からなかった。
(……だって、私はただ単純に)
降沢を、諦めきれないだけなのだ。
あらゆる苦難がその先にあったとしても、美聖は、もはや、自分自身の気持ちから逃れられそうもない。
その自覚が覚悟になってしまっただけだろう。
「まったく、羨ましい男だよ。アイツはな」
理純が子供をあやすように、美聖の頭にぽんと手を置いた。
「あの部屋にいるコツも、降沢の傍にいるコツも、単純明快だよ。――揺るがないことだ。あんたが、胸に抱いているその一念。それだけを信じてろ」




