②
「私は主人を愛しています」
緩く縛った髪ゴムは、茶色だ。
白色のカーディガンに、薄化粧で黒縁眼鏡の地味な女性は、か細い声で必死に抗うように、告げた。彼女の名前は、皇 月子。皇弁護士の妻だった。
(とんだ重労働になってしまったわ……)
「アルカナ」の定休日。
都内の静かなカフェの半個室を貸し切って、トウコは彼女のカウンセリングをしていた。
彼女のカウンセリングは、今日で三回目だ。
一度目は、降沢と美聖が日下部連也に会った日で、二度目がその次の週の定休日。
もしかしたら、今日こそ、仕上げの段階に入ってくるのではないという予感があって、トウコは少し緊張をしていた。
――が、まあ、そこはプロだ。
そんなことはおくびにも出さない。
「……そうですね。月子さん」
トウコは笑顔で何度も頷き、会った途端から泣き出しそうな彼女に寄り添うように、声音を優しく丁寧にした。
「貴方は、御主人のことを本当に心の底から好きなんですよね。だから、御主人の言う通り、従順に振る舞っているのでしょう」
「従順……じゃありません。私は派手な格好とか元々嫌いなんです。だから、主人と気持ちが合ったんですよ。お化粧とかも、あまり興味ないし、あまり綺麗な方じゃないから、地味にしているのが一番なんです」
「綺麗じゃないだなんて、誰がそんなことを?」
「私は学生時代、ずっと苛められていました。いつも、ブスだの死ねだの……。父がまた名前の知れた政治家だったので、苦労しました。そんな私に、西河先生は主人を紹介してくれたんです」
「西河先生のことに関しては………………本当に、災難だったとしか言えませんね」
「ええ。本当に……ひどい。絶対に、先生は誰かに嵌められたんだと思います」
「しかし、彼女のパワーは弱っていましたけどね」
「そんなはずは……」
「だから、逮捕されたんですよ。私には分かります」
トウコは余裕を崩さない。
彼女と向き合うための対処法は、最初の段階で、とっくに身に着けている。
「………………もう、私と主人は駄目なんでしょうか……」
月子は弱々しい本音を吐露した。
「どうして?」
「だって、西河先生がいなくなって、私と主人の結びつきが弱まってしまったのかもしれません」
「後ろ向きですね。なぜ、そんなことを言うんですか?」
「私はこんなんだから、あんな素敵な主人に心の底から、好きになってはもらえるはずがないんです。だから、会話がなくったって、子供がいなくったって、作ったご飯を食べてもらえなかったって、無断外泊されたって…………私は…………私は平気なんです」
「月子さん……」
どうも、月子は自分の容姿にコンプレックスがあるようだ。
三回のカウンセリングで、いつもその話題を自分で打ち出してくる。
(卑下することなんて、ないのに……)
少し痩せすぎの感があるが、彼女の佇まいは楚々としていて、優しい顔立ちをしている。
そばかすだって、チャームポイントの一つではないか……。
だが、トウコがそれを否定したところで、自分の印象を自分で決めつけてしまっている月子には、届かないのだ。
それは経験上、学習している。
たとえ、本当のことであっても、あまりしつこく話してしまうと、不機嫌にさせてしまう恐れもあるのだ。
(さて、どうするか……)
トウコは納得したふりをして、更なる情報を捻じ込んでみた。
「…………ああ、なるほど……。だから、たとえご主人が他の女性と会っていても、貴方は許すことができたんですね」
「ええ、そう……。そうなんです。仕方ないんです。元々、主人と私は釣り合っていませんでしたから」
「しかし、釣り合ってないなんて、御主人は一言も仰ってないですよね?」
「……でも、絶対にそう思っているはずなんです。浮気くらい、許してあげなくちゃ」
「月子さん、それは貴方の勘違いです。ご主人は、浮気なんかしていませんよ」
そこで、初めて、トウコは口調を強いものに変えた。
「でも……あの人は」
うつむいて、スカートの上に置いた両手に視線を落とす月子は、世界で一番、自分を嫌っているような顔をしていた。
――心が悲鳴を上げている。
ここが好機とばかりに、トウコは畳み掛けた。
「いいですか、月子さん。確かに、不特定多数の女性と会っていたかもしれませんが、それは仕事の付き合いです。御主人ほど真面目な方はいないですよ」
「……本当に? 分かるのですか? 先生には」
「ええ。私は西河マリア先生とは違います。貴方の背後の方々からメッセージを頂いていますからね。先日も申し上げたはずです。御主人は真面目で清廉な方です。貴方と余りお話できないのは、お仕事が忙しいからです」
「やっぱり、そうだったんですね」
「ご主人は、ちゃんと毎朝貴方が活けてくれている食卓のお花のことにも気づいていますし、夕食だって食べることが出来ないのを心苦しく思っています。三日前、ひどく疲れて帰ってきたことがあったはずです」
「ええ! あの日は疲れ果てて」
「あの日も強い念を受けていらっしゃいました。ご主人は、お仕事柄、人の恨みや妬みを貰いやすいので、浄化が必要なんです。早くしないと間に合わない可能性があります」
「…………わ、分かっています。そのことは……。だからちゃんと、今日は持ってきました。主人の仕事を象徴する金色のバッジを」
月子は震える手で、鞄の中から紫色の袱紗を取り出した。
そこから、弁護士徽章を取り出すと、全幅の信頼を寄せ始めたトウコに献上するように差しだして来た。
「すいません。先生……。この徽章がなくても仕事ができないことはありませんけど、主人は絶対に物を失くさない人なので、私がすぐに怪しまれてしまいます。なるべく早く帰して頂きたいのですが……」
「もちろんです。数日以内に綺麗にお浄めをして、お返ししますよ」
「ありがとうございます」
「だから、泣かないで下さい。大丈夫ですから」
涙ながらに訴える月子から、トウコは徽章を受け取った。
(やはり、このバッジ……怪しいわねえ)
降沢が気にした理由が分かるような気がする。
多分、この徽章と映里の死は、リンクしているのだろう。それに美聖が繋がって、降沢にも波及した。
もし、皇本人と対峙していたら、トウコは辛かったかもしれない。
曰く付きの物を持つ人間は、その人間自体に問題があるのだから……。
「先生?」
「あっ、大丈夫……ですよ。ちょっと、御主人の周りの念にやられただけです」
「……ああっ! 主人は大丈夫なのでしょうか?」
「それは、気にしなくて平気です。私が関わっているのですから。それにね。月子さん、これからは、ご主人ではなくて、まずは自分ですよ。自分の体を大切になさってください。そういう貴方になったら、ご主人は、心の底から喜びますから」
「そうでしょうか……」
「ご主人はシャイな方なんですよ。本当はもう少し華美な装いの方が好きなんです。じわじと、明るい色合いのものを身に着けて下さい」
「……………………でも」
「月子さん。貴方には「でも」と、言わない人生が、用意されているんですよ」
長くこの業界にいると、いろんなタイプと接するが、「でも」……とか、「どうせ」……とか、「自分なんて」……の人は、やはり占いに依存しやすいタイプである。
しかし、一概にそれだからいけないと、叱咤激励するのはトウコのスタイルではない。
自己評価が低いのは、過去のトラウマに負うところが大きい。
余程、相手に尽くさないと、自分なんて相手にされないのだと、思い込む節がある。
尽くす相手が聖人だったら、そういう考え方もありだろう。
しかし、実際はそんなことはないのだ。
時間はかかっても、その辺りを丁寧に解きほぐしていけば、どんな人だって必ず、思い癖を克服することは出来る。
(彼女なら、絶対にいけるわ……)
まず手初めに、彼女の心の澱を祓ったら、人生も変わっていくはずだ。
トウコは、軽く月子の背中を叩いてやった。
刹那…………。
すっと、空気が清涼なものに変わる。
――これで三度目。
目に見える変化はなくとも、彼女の心の中に変化の波は確実に訪れているはずだ。
そうでなくては、愛情と恐怖を同時に心に抱いている夫の弁護士徽章を盗んで持って来ることなどできないだろう。
「まだ貴方宛てのメッセージはあるんです。続きを聞いて頂いてもよろしいでしょうか? 皇 月子さん」
彼女は憧憬の眼差しをトウコに向けて、こくりと首肯した。
一時間のカウンセリングをようやく終え、月子を見送ったのとほぼ同時に、彼女が座っていた席に見慣れたトレンチコートの男がやって来た。
降沢在季だ。
「あっ、僕はアールグレイティーで、お願いしますね」
メニュー表を手に取ることもせずに、給仕係に一言告げて、降沢はトウコの前に座ると、偉そうにふんぞり返っていた。
相変わらず、顔だけは綺麗だが、性格は酷い。
「貴方……最近、随分と、アクティブよね?」
「アクティブにならなきゃいけない理由があるので……」
理由なんて、一つしかないではないか。
(この色惚けのオッサンが……)
トウコの思惑通りとはいえ、なんか釈然としない。
最初から、美聖のことを生贄みたいなものだと、降沢は口にしていたが、今更になって、トウコもまた本気でそんな気がして怖かった。この男は最初から本能的に察知していたのか……。
(やっぱり……在季はやめておいた方が良かったかも。美聖ちゃん。ごめんね)
可哀想に……。
遅れて来た春すぎて、執着心が半端なさそうだ。
「在季、貴方ねえ、主役の美聖ちゃんより、はりきってどうするのよ?」
「ここを乗り切ったら、何か変われるような気がするんですよね」
「…………まあ、貴方にしては、悪くはない前向きさだわ」
「それ、褒めているんですか? 悪い前向きって、どんな感じなんですか?」
「最高の褒め言葉よ。貴方は、いつも後ろ向きに前向きなんだから」
「なるほど」
――そうだ。沙夜子先輩が亡くなってから、ずっと。
どんなに外に連れ出そうとしても、我関せず、興味なしで、ひたすら、絵を描くだけで、ひきこもっていたくせして、わずか数カ月で、都内にまで進出している。
(この調子で、千葉の某遊園地とか二人で行ってくれないかしら?)
もしも、そんなことになったら、指差しして、大笑いしてやるのに。
「……で? 成功しましたか?」
「他人に面倒事を押し付けたくせに、意気揚々と訊くわよね?」
「貴方の得意分野ではないですか?」
「法律ぎりぎりだと思うけど。これ下手したら窃盗よ。それこそ、相手は弁護士で、やりにくいったら」
「はいはい。あとで文句ならいくらでも聞きます」
降沢が適当にトウコのボヤキをかわす。
(…………この男)
皇の弁護士徽章を見かけたその瞬間から、何としても、それを描くことに決めていたのだ。
その手段が合法だろうが、違法だろうが、そうと決めた時の降沢には関係ない。
ただ皇の弁護士徽章を何とかして入手しろ……という、最高にふざけたミッションがトウコに託されてしまったわけだ。
(まあ、出来ないことはないと言ってしまった私も私だけどさあ……)
日本にとって、幸か不幸なのか、大物の政治家になればなるほど、専属の占い師を雇いたくなるものなのだ。スピリチュアル方面で、ひっそりとまことしやかに、名を馳せれば、自ずと先方からお呼びがかかる。
幸い、月子の父である政治家と、トウコは繋がっている。
日下部連也という息子の名前を、聞きだすことに成功したのは、月子の父の秘書からだった。
おそらく、降沢と美聖があの日、日下部の別邸に行くという情報が皇に知れたのは、日下部側からのリークだろう。
恵慧師には、日下部側に探りを入れるように頼んでいて、別邸の住所を入手してもらったのだが、かえってそれで複雑になってしまったようだ。
おかげで、恵慧師も反省しているのか、少しは協力をしてくれるとのことなので、降沢の溜飲は下がるはずだ。ある意味、在季は恵慧師に愛されているというか、畏れられているというか……。
…………とにかく、困ったヤツであることは確かだ。
「さっ、速やかに、それ、下さい」
「アルカナまで行ったら、渡すわよ。車で来たんでしょう。送ってちょうだい」
「嫌ですよ」
「どうして?」
「分かりませんか。いつにも益して、怪しさ増量していますからね。一緒に歩きたくない」
「そんなことないでしょう……?」
――と、自分で全身を見渡してから、トウコも降沢の言わんとしたいことを理解した。
つい、いつもの癖で、月子が去った後に、サングラスを装着したのが悪かった。
ストライブのスーツに、大きな黒サングラス。
完全に、裏社会の人と化していた。




