⑬
――やはり、あの弁護士徽章が気になる。
今回、長い時間皇のそばにいて、降沢はより一層そう思うようになっていた。
(あれには、何かあるんだろうな……)
絵を描いたのなら、一発でメッセージが降ってくるはずだ。
視えることのない世界があんな小さなバッジの奥から、降沢に手を伸ばしているようだった。
美聖もそれに関しては同じような考えを持っているようだったが、突然突き付けられた姉の死の真相に、だいぶまいっているようだった。
「一ノ清さん、今日は濃密な一日でしたね……」
帰りの車の中、少しだけ透かした窓から吹き込む風が、彼女の艶やかな黒髪を揺らし、伏し目がちな横顔に匂い立つような色気を感じた。
降沢の言葉に反応して、美聖はぎこちないものの、笑みを返してくれた。
「ありがとうごさいました。降沢さん。ここまで、降沢さんにお付き合い頂いたおかげで、結末にたどり着きました」
どきりとした降沢は慌てて、前を向く。
丁度、停まっていた前の車が動いたので、軽くアクセルを踏んだ。
「いえ……僕は」
何もしていない。
――というより、引っ掻き回しただけだ。
つい堪えきれなくなって、弁護士バッチを貸して欲しいと願い出てしまったが、あの流れで、そんなことを言ったところで、手酷く拒まれて当然だ。
だいたい、貸してもらえるものでもない。
(一ノ清さんは、偉いな……)
彼女の内心は千々に乱れているはずだ。
あんな説明で、家族の死に納得なんてできるはずがない。
それなのに、美聖は誰に当たるでもなく、あらゆる感情をぐっと飲みこんでいるようだった。
(……やっぱり、こんな時に申し訳ないと思うけど)
純粋に、美聖がいじらしいと思う。
きっと、ここで感情のままに、降沢が抱きしめたら、美聖は泣いてしまうだろう。
そんな慰め方を、彼女は望んではいないのに。
(浩介だったら、もっと上手く出来るんだろうな……)
その場の感情で動くのは駄目なのだと、降沢は最近学習したばかりだ。
告白もせずに、彼女に手を出すのは失礼なことなのだと、腹立たしいが、浩介に教えられたような気がする。
…………けれど。
好きだと……美聖に伝えたら、降沢はどうなるのだろう。
好意の比重が相手と同じことなんて、有り得ない。
むしろ、降沢の暴走に歯止めが利かなくなるだけなのではないだろうか?
彼女は、他の誰とも違う。
苦しめるだけと分かっているのに、覚悟なんてできるのだろうか?
(僕には、慰め方が分からない……)
降沢が慰めと思う行為は、彼女にとっては、意味を持たない。
余計なことを口走って幻滅されるくらいなら、何も言わない方がまだマシだ。
降沢は、運転に集中することで、ふいに溢れそうになった自分の衝動を抑え込んだ。
「降沢さん」
急に黙り込んだ降沢を、美聖は心配してくれたらしい。
わざとらしいほど明るい声音で喋った。
「それにしても、今日は、びっくりするほど、いろんな偶然が重なって、すごかったですよね」
「……一ノ清さん」
「一応、あの弁護士と、日下部連也が話していたことは、タロット占いの結果とも符合しますし、辻褄は合っていましたから、きっと姉も満足していると思います。姉は自殺ではなかった……そういうことを伝えたかったのでしょうから」
それは彼女なりの気遣いだろう。これ以上調べるのは、危険だと察知したのか。
映里の件は、ここで終了だと宣言しているようだ。
(でも……な……)
「彼らの説明では、事故……でしたね」
降沢は低く呟く。
…………自分は、深く首を突っ込みすぎてしまった。
もはや、彼女の姉の死から端を発した大きな事態に直面してしまっても、立ち止まることもないだろう。
「一ノ清さん、僕には腑に落ちない点があります」
「何でしょうか?」
青信号が赤に変わって、降沢はブレーキを踏んだ。
このまま黙っていることも出来るが、そういうわけにもいかない。
「どうして、彼女はビルの屋上で、日下部 連也を脅してまで飛び降りなければならなかったのでしょうか?」
「それは……精神状態が」
「あのビルで、飛び降りなければならかった理由は何ですか?」
「わ……分かりません」
「君が言っていたもう一人の男性……。「正義」のカードは弁護士。明らかに、皇のことですよね。今日の説明では、彼は完全に自分は蚊帳の外だったとアピールしていました」
「降沢さん、つまり……あの人達が言っていたことは嘘だと言いたいのですか?」
「いいえ。嘘だけだったのなら、あの場で僕も指摘できたかもしれませんが……」
「それは、どういう意味で……?」
「皇という男は、なかなか手強いようです」
あの様子だと、連也は嘘をつくのは苦手なタイプだ。
皇がいくら優れた脚本を書いたところで、それを覚えることができなければ意味がない。
そのことを、皇自身、よく分かっているのだろう。
――あの男の本音は、何処にある?
皇という男、顔は笑っていても、目は鋭く光っていた。
あの手の男は、面倒だ。
変に頭が切れる。
「浩介が狸なら、あの男は…………狐ですかねえ」
溜息混じりに、言い捨てた。
美聖は、理解不能とばかりに、瞬きを繰り返している。
「えっ? 皇って人……狐には似ていませんでしたけど?」
「面白い人ですよね。一ノ清さんって」
「私のこと、絶対に馬鹿にしていますよね?」
その後、膨れっ面の美聖を宥めすかして、ファミレスで軽く食事を済ませてから、名残惜しく、家の前まで送り届けた。
出来ることなら、何もできずとも、落ち込んでいる彼女の傍にいたかったのだが、降沢には、この後行かなければならない場所があったのだ。
――龍仙寺。
鎌倉と北鎌倉の丁度真ん中に、位置する寺は、軽自動車一台が通るのがやっとの細い路地に、ひっそりと佇んでいる。
禅宗や日蓮宗の寺院が多い鎌倉にあって、珍しい天台宗の古刹であった。
創建がいつの話か、降沢は聞いたこともないが、いまどき茅葺屋根を維持しているのだから、相当古いはずだということは分かっていた。
「アルカナ」から徒歩、三十分足らずで到着してしまう距離でありながら、ここ十年間の間、降沢の行きたくない場所ナンバーワンの座に君臨し続けている威圧感は、半端ない。
(…………心の底から、行きたくない)
降沢は寺の脇に、車を停めたあとで、山門の前をうろうろしていた。
行かないで済むものなら、回れ右をして帰ってしまいたい。いつもの自分なら、近くを歩くのも嫌がるだろう。
だけど、美聖が頑張っているのに、降沢が何もしないのは、気が引けるのだ。
(晩秋か……)
その場でしゃがむと、街灯が丁度良い角度に、山門の前の紅葉を照らしているのが見えた。
龍仙寺が余り知られていないのは、非公開にしているせいだと、理純が誇らしげに話していた。
確かに、観光客向けの寺ではない。
檀家を持たないスタイルの寺なので、墓参りに来る人もいないのだ。
常に固く閉ざされている山門は、ここに来るものをあえて拒んでいるようにも見えた。
…………実際、恵慧も理純も多忙で、この寺は無人であることが多い。
ここに恵慧がいると確信があるだけ、降沢は幸運なのだろう。
(この寺に来ることが、彼女のためになるのなら……)
今まで、周囲の人間が降沢のために、あれこれと親身に動いてくれた。
次は、自分の番だ。
(けれど、あのジイさんが苦手なんですよね。下手なこと言うと、説教が二倍になりそうだし……)
降沢は心の中でぶつぶつ文句を言いながら、左手の腕時計に目を落とした。
時計の針が、夜の十九時を指している。
「………………行くしかない……か」
腹を括ろう。
今回ばかりは、浩介を仕向けた責任もあるのだ。
降沢は山門の前で一礼してから、扉を開けると、早足で寺の中に入って行った。
梵鐘を横目で見やりながら、見事な日本庭園を忍び足で通過して、本堂の真横に向かう。
縁側に見知った男女の影を発見した途端、降沢は珍しく大声で彼を呼んだ。
「浩介……! 首尾は?」
僧服姿の大男は、姿勢良く正座をしたまま、崩さなかった。
その目には、いつものサングラスがない。
「浩介?」
反応がないので、降沢はもう一度呼びかける。
すると、浩介は、ようやくぱちりと目を開けた。
どうやら、今まで眠っていたらしい。
「ああ。何? 在季じゃないの? びっくりしたわね。ちゃんと、正面から来たら、どう?」
「貴方の方こそ、どうして黒染めなんて着ているんです?」
「鈍った精神の修行をしろと、恵慧師に言われてね……」
浩介が遠い目をしている。
(ああ、そうだった)
ここが苦手なのは、降沢だけではないのだ。
昔から浩介だって、嫌がっていた。
「状況を聞きにきました」
「ああ……私の方は、上手くいったけどね。こっちの方は、見ての通りよ」
「芳しくないようですね」
降沢は靴を脱いで、縁側から繋がっている本堂に上り込んだ。
見上げると、金色の十一面観音像が開いた厨子の前に鎮座していた。
こぢんまりとしているが、豪奢な護摩壇は、この寺に潤沢な資金があることを、如実に表していた。
(あのジイさん……。また儲けたんですね)
恵慧師は密教占星術の大家であると同時に、加持祈祷で著名な人物であった。
占いも勿論だが、政財界と深いパイプがあるのは、加持祈祷のご利益が絶大だと評判だからだ。
それでも、降沢が距離を取ってしまうのは、恵慧師の力を認めながらも、根底に沙夜子を救えなかった、ただのジイさんというイメージが濃いからだ。
――人の運命を変えることは出来ても、宿命を変えることはできない。
恵慧師から、そう諭されたのは、沙夜子が亡くなる少し前のことだった。
あの時の絶望感を降沢は忘れることができない。
「さて、久々ですし、とりあえず、御本尊にも祈っておきましょうかね」
降沢は護摩壇の横で正座をして、広い本堂の中にあって、小柄な本尊の十一面観音像を拝んだ。
(うまくいきますように……)
何となく願をかけた。
呪術が万能でないことは、嫌というほど知っている。
切実に祈ったところで、どうせ叶いはしないだろう。
本当に叶えたいのなら、行動するしかない。
(いっそのこと、恵慧師が解決してくれたら、てっとり早いのですが……)
そうはならないだろうと、降沢は予知していたし、しかし、普段絶対に頭を下げない降沢がここまで来ているのだから、多少配慮の一つくらいしてくれるだろうという打算も働いていた。
「ねえ、在季。そちらの首尾はどうだったのよ?」
「……ああ、狐がいましたね」
「はっ?」
「ちょっと鼻につきました。意外に僕は短気らしい」
「貴方、今更そんなことに気づいたの?」
振り返ると、浩介が眉を潜めていた。
サングラスも、派手な装いもない黒染めの僧服を纏っている浩介は、まるで武蔵坊弁慶のようだ。沙夜子の後輩でなかったら、全力で背を向けて、逃げ出したくなる外見である。
「浩介、貴方ならどう視ますか? 僕達が会った翌日に、逮捕された西河マリア。今日、出向いた日下部連也の別宅に、なぜか鉢合わせすることになった弁護士と、日下部連也。彼らはわざわざ邸宅に僕らを招待して、一ノ清映里さんの件は、事故だったと謝罪した。偶然にしても、神がかりすぎではないでしょうか?」
「まあ、運命の出会いとか、実はツインソウルだとか、占い師だったら言いかねないところだけど、そんな天文学的な偶然有り得ないでしょうね。先方に、貴方の来訪がバレていた可能性が高いということでしょう」
「貴方が日下部連也の住所まで調べたわけじゃないでしょう?」
「住所は、恵慧師ね」
「……やっぱり」
「それで、狐は何をしたって言うのよ?」
「あのビルの構造。僕は映里さんの件が自殺とも、事故とも思えないんです」
「…………そう」
浩介から目を逸らした降沢は、頼りない蝋燭の灯に目を凝らす。
静まり返っている寺の中響くのは、虫の合唱だった。
どのくらい、そうしていただろうか……。
どたばたと僧侶らしからぬ足音で、本堂にやって来たのは、僧服姿の理純だった。
「こんばんは。夜分に失礼しています」
降沢は正座から、折り目正しく立ち上がった。
「何だ。降沢も来ていたのか?」
理純の濃い眉毛が八の字になっている。
その表情で、降沢にも、すぐに分かった。
「どうやら、駄目だったようですね」
「駄目というか、とりつく島もないというか……。奥の間の前で何時間も待たされて、ようやく口を開いたと思ったら、修行の邪魔をするなって、一喝だぜ。まったく、何が修行だよな。どうせ寝てただけだろうが」
「まあ、そんなことだろうと思ってはいました。どうせ、自分が表舞台に出てきたら、一発で解決してしまう……とかなんとかでしょうね」
「おっ、よく分かっているじゃん。だから、お前たちが訪ねてきたところで、無駄。会わないってよ」
「相変わらず、一刀両断よね。霊能者の一人くらい紹介してくれても罰は当たらないのに」
「いや、それがよ。出来れば、紹介してやりたかったけど、みんな政治家なんかと関わるのはごめんだって断られたそうだ。まっ、乗りかかった船だ。お前がやれってことらしいな。降沢」
「でも、恵慧師は、その一ノ清美聖さんのために、助け船くらい出してくれたんでしょう?」
「助け舟なのか、泥船なのか、俺は知らんけど……」
理純は溜息混じりに、言い放った。
「親父もうっかり関わってしまった分、百パーセント知らぬ存ぜぬは出来ないそうだ。パイプくらいにはなってやるそうだ。日下部連也の父、誠一に、裏から手を回してやるって言ってたぜ」
「それで結構」
降沢は口角を上げて、今後の展開を思い浮かべた。
自分の憶測を後押ししたいのなら、やはり絵を描くことしかなさそうだった。




