⑫
白いポケットチーフの前で留められている弁護士バッチからは、相変わらず得体の知れない黒と赤の煙が上がっている。
「こんなところで、お会いするとは奇遇ですね。先日は、どうも。私達のことを覚えていらっしゃいますでしょうか?」
狼狽える美聖を庇うように前に出た降沢に対して、バッチに宿っている情念とは真逆な形で弁護士は爽やかに一礼した。
「ああ、もちろん、覚えていますよ。確か、最近、西河先生のところでお会いしたお二人でしたよね。今日は、また珍しい場所でお会いしましたね」
「そうですね。よもや、このタイミングで、貴方にお会いするとは、何か……めぐり合わせなのかな?」
くすりと、降沢が歪な笑みを口元に宿したのを、美聖は見逃さなかった。
「貴方達は一体、何を……?」
言いかけた弁護士はハッと気づいて、革の鞄の中から、セラミックの名刺入れを取り出した。
「申し遅れました。私は皇 悟史と申します」
「ご丁寧に、どうも」
渡されるままに、二人で受けとる。
差し出された名刺をまじまじと見つめると、そこには「カーディナル弁護士事務所」とあり、皇の名前があった。
「カーディナル?」
「個人事務所なんですけどね、赤色が好きなので、そう名付けました」
「はあ……」
「私は以前、西河先生の顧問弁護士をしていたんです。その縁で、先日講演会に参加していまして、あの時は、個人的に先生に鑑定して欲しいと仰る方を、ご案内していたんです」
聞いてもいないのに、先日のことを皇は事務的に話した。
皇は白い歯を見せて、にこっと笑う。
(やっぱり、そうだ)
雰囲気がどことなく降沢に似ている。
童顔の美形であった。
スーツを着ていなかったら、大学生に勘違いされそうな容姿をしている。
茶色がかった髪と、ブラウンのスーツが秋めいていて、見事にマッチしていた。
「ええっと、顧問弁護士……?」
「会社でも、占い師でも、所帯が大きくなりますと、色々とあるものですからね。でも、私が辞めた後に、まさか西河先生があのようなことをなさるとは思ってなくて……。あっ、先日の報道はご存知ですよね?」
「ええ、知っています」
降沢が淡々と答える。
「まあ、この件については、これ以上、私も詳しく話すことはできないのですが……。それで、貴方がたは、どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」
「ここには、人を捜して来たんです。あっ、私は一ノ清 美聖と申します」
「一ノ清?」
皇は、あからさまに狼狽していた。
やはり、この男は映里の死について、何か知っているのだ。
「ええ。私は姉の死の原因を調べていて、先日西河マリア先生にお会いしたんです。それで、西河先生から、レンヤという名前をお聞きしたので、それを頼りにここにたどり着きました」
「レンヤ……。その名前だけで、よくここに……」
「日下部 連也という男性が度々姉のもとに訪ねて来ていたことは、姉の息子が覚えていました」
「……なるほど。わざわざ申し訳ありません。一ノ清美聖さん」
皇が何事か話し出そうとした、その瞬間、皇の背後に幽霊のように佇んでいた若い男が背中を見せて、脱兎のごとく走り出した。
「あっ、ちょっと連也さんっ!」
穏やかさを一変させて、皇が怒鳴った。
「…………えっ?」
降沢が即座に反応し、追いかけたものの、その前に皇が連也に追いつき、腕を掴み、捕えていた。
「連也さん、逃げてどうするんですか!?」
皇が叱りつけて、乱暴に青年を引っ張ってきた。
「すいません。連也さんは、あまりその件については思い出したくないようで……」
思い出したくないとか、そういう問題ではない。
美聖は怒鳴り声で、その名前を呼んだ。
「日下部 連也さんっ!」
「………………」
連也はびくりと震えたものの沈黙状態だ。美聖は構わずに続けた。
「私が知りたいことは、簡潔です。姉はどうして死んだのでしょうか? 自殺でなければ、何なのか、貴方は、ご存知なのでしょう。だったら教えて下さい」
「あれは、事故で……」
「………………事故……だったんですか?」
「あっ」
連也はやってしまったと思ったのだろう、軽く舌打ちをしたのが聞こえた。
(やっぱり……自殺じゃなかったんだ)
美聖は、急激に肩の力が抜けていくのを感じていた。
「自殺ではなく、事故だと知っているということは、貴方が近くにいたということでしょう?」
「知らないよ。勝手に、映里さんが飛び降りたんだ」
野球帽の下から、覗く顔は、降沢や皇とは違った幼稚さを醸し出していた。
目がきょろきょろしているのは、疾しいことがある証左だ。
「……別に、私は貴方をどうこうしようなんて、思っていません。私が聞きたいのは、姉が飛び降りた経緯ですよ。理由を教えてください!」
「落ち着いて下さい」
降沢が優しく美聖の肩を叩いた。
二人で口論しているところを、ご近所と思わしきマダムがちらちらと伺いながら、通り過ぎていく。
美聖にとっては、知ったことではなかったが、降沢には余裕があるようだ。
想像以上に、冷静だった。
「皇先生も、日下部さんも、ともかくここは一旦、場所を変えて、お話しできませんか? そんなに長くはかからないでしょう」
降沢の提案に、あっさりと皇が同調した。
「連也さん、そうしましょう。いつまでも隠しておけることではないですよ。お父様には私から報告致しますから」
「分かった」
子供のように、うなずく連也に、美聖は大きな失望感を抱いていた。
(こんな人が……お姉ちゃんの死に関与しているってこと?)
気が遠くなってきて、よろけそうになった美聖を、がっしりと降沢が支えた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと気が抜けてしまっただけで……」
「ところで、貴方は誰なのでしょう……?」
「すいません、この人は……」
色々動転していて、降沢のことを紹介するのを、失念していたのだ。
しかし、美聖が降沢のことを紹介する前に、降沢の方があっさりと言い放った。
「僕は、彼女の夫の一ノ清 在季と申します」
「……はっ?」
「美聖さんのご主人でしたか……。婿養子ですか?」
「ええ」
皇が完全に鵜呑みにしている。
(降沢さんっ……)
…………前回あれだけ、謝っていたのに、降沢は今回もその設定でいくらしい。
しかも、今回は一ノ清姓を名乗るようだ。
美聖は、こんな時なのに顔が赤くなってしまう自分を止められなかった。
「そうですね。とりあえず、美聖さんの具合も良くなさそうですし、中に入ってお話しいたしましょうか」
完全に、皇は誤解している。
連也がインターホン越しに話をつけると、豪奢な扉は、自動的に両側が開いた。
先程とは打って変わって、愛想良く出迎えてくれた家政婦を、連也はあっという間に下がらせてしまうと、息を飲むほど広い応接間に、先導した。
「どうぞ、こちらに」
無口な連也に代わって、この家の主ではないかというくらい、皇は率先的に降沢と美聖をもてなした。
部屋の中心に忽然と置いてある応接セットの皮張りのソファーに、皇から美聖と降沢は座るように促され、向かい合うように皇と連也が腰を下ろした。
薄手のコートを脱いだ降沢は、三つ揃えのスーツを着ている。
いつもはノーネクタイなのに、今日はちゃんとタイを締めていた。
(一応、場所が場所だからね)
正装姿の降沢と皇が向かい合っているのが、その場に、何とも言えない威圧感をもたらしていた。
間もなく、紅茶を運んできた家政婦が静かにその場を去ると、皇が口火を切った。
「一ノ清さんの妹様とは知らずに、この度は大変失礼いたしました。いずれは、連也さんの代理として、きちんとご挨拶させて頂いた方が宜しいと、思っておりました」
「……それは、どういう意味ですか?」
「今現在、私は日下部家の顧問弁護士をしているのです。その縁で彼のお父様から、私の事務所で働かせて欲しいという話があったので、連也さんには、今私の事務所で働いて頂いています。彼が犯した罪に対しては、しっかりとけじめをつけなければなりません。ほら、連也さま」
皇から睨まれて、連也は渋々帽子を脱いだ。
いまどきの青年らしく、だぼたぼのパーカーと、茶髪に目立つピアスをしている。
年は、二十代だろうか……。
天然パーマらしい髪は、帽子に押さえつけられていたせいで、乱れてきっていた。
(こんな若い青年と、お姉ちゃんがパートナーだなんて、それこそ信じられないな)
円も困惑しただろう。
どうしたって、連也はお兄ちゃんにしか見えない。
「さて、私はどこからお話して宜しいのか……」
皇が鋭く連也を一瞥すると、彼は唇をすぼめて、蚊の鳴くように告げた。
「お前の好きなように話せ」
「分かりました。そうさせて頂きます」
皇は軽く溜息を吐くと、やや大仰に話し出した。
「連也さんは、その……子供の頃から少々羽目を外す機会が多かったのですが、西河先生に映里さんを紹介してもらってからは、懸命に映里さんを支える存在として、頑張ろうとなさっていたのです。たとえ、勘当されても構わないと、それこそ必死に、働いていらっしゃいました」
「……それは、事実でしょうか?」
「そこを、疑われてしまっては、お話しができません」
「分かりました。皇さん、続けて下さい」
降沢の対応で、皇は速やかに話を再開させた。
「……ですが、ご覧のとおり、連也さんはまだお若く、まことに申し上げにくいことですが、映里さんとは家格が釣り合いません。西河先生を信奉していた奥様も、映里さんのことは反対でしたが、西河先生もその辺りは折れず……。私も奥様や旦那さまに頼まれて、映里さんに別れるよう伝えたことがありました。今、思えば、それもまた、映里さんを追い詰めてしまったのかもしれません」
「俺は……別れたくなかった」
そこで、はじめて連也が口を開いた。
気怠そうな声だったが、それでも彼なりに言葉を選んでいるようだった。
「本当だぞ。西河先生の言うことは、いつも正しかった。皇も西河先生の紹介で結婚しているし、絶対に幸せになれるってわかってたんだ。それなのに……!」
連也が感情を露わにして、机を叩いた。
(何で……?)
連也は思いの他、傷ついているようだった。目が薄ら充血していて、頬も痩せこけている。
それは、ただの遊びすぎの不摂生のようでもあったが、もしも、違うのなら……?
美聖が思い描いていた話とは、まったく別ということになる。
「一体、貴方は、あのビルで姉とどういうやりとりをしたのですか?」
「……やりとりというか……。あの日、映里さんは、別れてくれないと、ビルから飛び降りる……て、俺を脅してきて」
「………………はっ?」
「俺は止めようとしたんだ。だけど、あそこ風が強くて、手を伸ばしたのに……。映里さんには届かなかった」
「それが、映里さんの死は事故だった……と主張する所以ですか?」
降沢が淡々と問いかけた。
連也は弱々しく頭を振ると、両手で顔を覆ってしまう。
「分からない。映里さん、あの頃、育児のこととかにも悩んでいたし、もしかしたら、死にたかったのかもしれないし……。でも、俺は怖くて……俺が突き落としたみたいじゃん。だから」
「……で? 貴方はあの場から、逃げたんですよね?」
「それしかないだろ……。俺は捕まるわけにはいかなかった」
「本当に事故であれば、貴方は無罪放免ですけどね」
「お前たちのように、俺の言うことを信用しない奴は山ほどいるんだ」
「よく分かりましたよ。貴方の性格が」
必死に自己防衛に走る連也から視線を逸らした降沢は、紅茶を一口飲んで、仕切り直した。
「では……貴方は……落下した映里さんの亡骸を見たのですか?」
「そんな恐ろしいこと……できるはずがないだろ。とにかく、俺は必死で……あの場から……。どうやって、家に帰ったか分からないくらい……動揺していたんだ」
「つまり、貴方は映里さんが落ちているところではない反対側の道から帰ったということですね」
「おいおい、まるで、警察の尋問のようだな……」
「いえ……。僕がそれを訊くのは、映里さんの手に西河先生が渡したタロットカードが握られていたからですよ」
「…………えっ? 西河先生のキーカードを?」
「女帝のカードです。貴方はそのことについて、心当たりはありませんか?」
猛烈に考え始めた連也の答えを待たずに、皇が口をはさんだ。
「西河先生のカードなら、私も頂いてパスケースに入れて大切に持ち歩いています。彼女にとっても、大切なものだったのではないですか。最期の瞬間に眺めたくなるような……」
「………………そういうものでしょうか」
それきり黙り込んだ降沢は、何かを考えているようだった。
しかし、美聖は平常心ではいられない。
映里の死が自殺でないと、一年を経た今、こんな形で証言されているのだ。
(なぜ、もっと早く教えくれなかったんだろう……)
一年……。
美聖は、映里が自らの意志で飛び降りたのだと、それありきで、自分を責めていた。
(ひどすぎる……)
「どうして? それを今まで教えくれなかったんですか。何で、今になって」
「そうですよね。美聖さん、本当にごもっともな話です。それについては、心の底から申し訳ありませんでした。私も最近、連也さんからこの件については、聞いたのです。ですが、一つだけ言わせてください。たとえ連也さんが逃げなかったとしても、自殺ということにはなっていたはずです。……そういうものなのですから」
連也は、大物政治家の一人息子だ。傷が残らないように出来ている。
そして、わざわざ言わなくて良いことを、皇が付け足したのは、威嚇のつもりなのだろう。
大政治家の息子が頭を下げてるんだから、察しろということらしい。
「私は連也さんに訊いているんです。どうしてそれを私に話す気になったのですか?」
連也は震える手で、温かいコーヒーの入ったカップを手に取ると、一口飲んでから、ぽつりと告げた。
「…………西河先生が逮捕されたから」
「はっ?」
「なんか……もう、何もかもどうでもよくなったんだ」
「なに……それ……」
そんな後ろ向きな理由で告白されても、嫌な気分しか残らない。
美聖が今にも泣き出しそうなことを、敏感に皇が察知したのだろう。
取り繕うように、深々と頭を下げた。
「一ノ清 美聖さん、まったくもって、このような重大なことを今まで黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
「……申し訳ありませんでした」
皇に続くように、反省の欠けら一つない、連也が頭を下げた。
「連也さん、もっと」
もう少し深く下げられないかと、皇が連也の頭を机の方に押し付ける。
あまりに長い時間そうしているので、美聖はどうして良いか分からなくなってしまった。
「あの……もう結構です」
「いえ……。今日まで黙っていたのは、こちらの非ですから。後日、しかるべき金額を、お支払いしたいと思います」
「別にお金が欲しくて、ここまで訪ねてきたわけではないので……」
「しかし……」
「……それよりも、皇さん」
降沢の視線は一点集中だ。皇の胸元に向けられている。
「その……弁護士バッチを僕に貸してもらうことはできませんか?」
真摯な顔つきは、かえって誤解を招きそうな迫力に満ちていた。
当然、皇はきょとんとした顔をした後、それは無理だと不敵な笑みで断ってきたのだった。




