⑩
――朝。
「アルカナ」に出勤した美聖の腫れあがった目に、一番早く気づいたのは、トウコではなく、降沢だった。
ただ単にトウコは、外で食材の配達に来た業者と話していて、美聖の顔まで見ていなかっただけなのだが、それでも珍しいことには違いない。
「どうしたんですか!? 一ノ清さん。その目は一体……?」
「こ、これは……」
そこまで、降沢が動揺するほど酷いのだろうか?
いずれにしても、彼と情報を共有するつもりだった美聖は、逆に降沢の方をじっと覗き込んだ。
「降沢さん、円に姉のことで思い出したことを話すように言いましたね?」
「………………げっ、あっ、はい」
彼は瞬時に両手を挙げて降参した。
「そのとおりです」
「昨夜、円が色々と話してくれました」
「円くんが、君に?」
「ええ」
……と、突っ立ったまま話しこんでいるのは、時間の無駄だろう。
美聖は、忙しなく髪を一つに結わいて、店の掃除を始めた。
それにしても、降沢は遠慮なく美聖にまとわりついてくる。
「ちょっと待って下さい。円くんは何を? どうして、君が……? 円くんも泣いたのですか?」
「二人で仲良く泣いてみました」
「なっ……」
美聖にとっては前向きな涙だったが、降沢は罪の意識を持ってしまったらしい。
どっぷりと、うなだれている。
多分、降沢は円に自分に知らせて欲しかったのだろう。美聖にではなく……。
それはそれで、酷いような気もするが……。
「ごめんなさい。一ノ清さん。辛いことになるとは思いましたが、円くんには、ちゃんと話した方が良いと思ったんです。子供扱いするのではなく、対等に扱って欲しいというのは、僕も子供の頃、そうだったので、勝手に一人判断してしまいました」
「降沢さん、だから、私は別に怒っていませんって。そりゃあ、事前に私に知らせてほしかったですけど、でも、円と打ち解けるきっかけにもなったので、これで良かったんです。……それに、昨夜、私……亡くなってから初めて、姉の夢を見たんです。なんか、とても嬉しくなっちゃって」
「…………そうなんですか」
いまだに訝しげな降沢に、美聖は微笑みかけた。
「だから……ですね。接客業なのに目がこんなに腫れてしまって、恥ずかしいだけなんです」
「あっ、目の腫れに関しては、大丈夫です。全然目立ちはしませんよ。僕が分かるくらいですから」
「いやいや、降沢さんが分かると言うことは、大々的に危ないことだと思いますよ。どうしましょう。私、お店に出られないかもしれません!?」
「大丈夫よ、美聖ちゃん」
仕入が終わったトウコが食品のぎっしり詰まった段ボールを軽々持ちながら、こちらにやって来た。
今日のシャツは情熱の赤である。
まるで、スペインの闘牛士のような格好をしていた。
「在季は究極の鈍感だけど、いつもと違うことに関しては、変に敏感なのよ。まあ、美聖ちゃんだから、よく観察しているっていうのもあるんだろうけど」
「浩介、人を変態っぽく言わないでくれますか?」
「本当のことでしょう?」
ああ、なんだか二人の言い合いが微笑ましい。
(この空気……)
久しぶりだった。
降沢と気まずくなってから、三人で打ち解けて笑ったことがなかったような気がする。
「あの……お二人に聞いて頂きたいことがあるのですが、宜しいですか?」
「もちろん!」
降沢とトウコが同時に頷いた。
「……今朝、円が……教えてくれたんです」
「何を?」
「レンヤの名字は、クサカベと言うらしいのです」
「…………クサカベ レンヤ……」
「クサカベ……か」
トウコが小声で呟いた。
降沢から、事情を聞いているようだ。
「偽名……じゃないわよね?」
「そこまでは分からないのですが……」
「でも、すごいじゃないですか。円くん。よく思い出してくれました」
「……ええ。まあ。一歩前進には違いありませんよね。地道に捜していくしかないとは思いますけど」
「うーん、美聖ちゃん」
サングラスをずらしたトウコは、美聖の背後を凝視していたが、やがて真率に話しだした。
「貴方なら、もっと前進させることが出来るんじゃないかしら?」
「えっ?」
「今なら、お姉さまのこと、占えると思う」
「…………姉のことを……私が?」
「そうよ」
トウコは、荷物を台所に運んでから、自信を漲らせながら、美聖の前に戻ってきた。
「本当はね……私が占っても良かったけれど、情報が少ないとタロットの命中率はぐっと下がるからねえ。でも、今はだいぶ情報も集まってきたし、今の美聖ちゃんの真っ直ぐな気持ちなら、お姉さまと、ちゃんとコンタクトが取れると思うのよ。むしろ、私より、お姉さまと繋がってるはず」
「真っ直ぐな気持ち……ですか?」
「今まで、貴方はずっとお姉さまに対して、罪悪感と先入観があったでしょう? それが鑑定結果を狂わせていたのよ。タロットは一種の霊媒。メッセージを受信する側が感情に引きずられていたら、まともな結果は出てこない。それに、死者の声は、生者の声より微弱だから、ちゃんと拾ってあげなきゃ……。リーディング(カードの読み取り)は、私も参加するから、一緒に声を聞いてあげましょうよ」
確かに、昨日今日で美聖の気持ちは劇的に変化している。
「そうですね。出来るかもしれませんね」
美聖は、口元に淡い笑みを乗せた。
(トウコさんの言う通りだ……)
今まで、美聖は恨まれているかもしれない……と、ネガティブな要素で映里のことを考えていた。
しかし、自殺でないのなら、尚更、映里は美聖に言いたいことがあるのではないか。
(お姉ちゃんの本当の声、私に聞けるかな……)
「まだ開店まで時間ありますし、内容が一つなら、簡単に導きだせるでしょう。占ってみたらどうですか?」
「でも、開店準備が……」
「数分のことでしょう。僕も手伝いますから、思い立った時に、やらなくちゃ。なにより、僕が気になって、営業時間中に、うろうろしちゃいますよ」
「貴方がうろうろしてるのは、いつものことじゃないの。でも、まあ一理あるわ。ここのオーナーだしね」
降沢とトウコが美聖の背中を後押ししてくれる。
半個室になっている鑑定席のカーテンを開けた降沢に美聖も続いた。
「……ありがとうございます。私、やってみたいです!」
「いつも通り、占えばいいのよ」
「はい」
美聖は個室に置いている荷物の中から、愛用の七十八枚のタロットカードを取り出し、鑑定席に座った。
深呼吸をして、目をつむる。
簡潔に占えるよう、カードのシャッフルを終えると、七枚のカードで読み解くことができるスプレットを展開することにした。
(お姉ちゃん、貴方はどうして亡くなったの。何か言いたいことがあるのなら、教えて)
降沢とトウコが見守る中、最初緊張をしていた美聖だったが、次第にいつもの調子を取り戻した。
意識を集中させて、メッセージが伝わりやすいように、天から光が降ってくるように、イメージする。
自分はアンテナなのだと、強く言い聞かせ、 七枚のカードを十字型に配置していった。
「現状がソードの2。これからの展開は、悪魔……か。そして、死に関わる原因が皇帝のカード。反省すべき点に正義のカードが来て、アドバイスに隠者の逆位置。対策にキングのソード。最終結果が…………愚者」
目があまり良くないトウコのために、あえてカードを読み上げた。
ソード(剣)とワンド(棒)、コイン(金貨)とカップ(聖杯)は小アルカナと呼ばれているもので、象意的には数字の書いてある悪魔、皇帝、正義、隠者、愚者の大アルカナより小さいのだが……。
「ソードの2は、裏切られたという意味ね。皇帝は権力者の象徴……社長や政治家。隠者の逆位置は、秘密の女性関係という意味もある。……不倫とかね」
トウコは、まるで教科書のように、タロットの意味を読み上げていく。
美聖も思いつく限りで、知っている内容を口にした。
「悪魔は正位置ですと、性的な誘惑を表しますけど、捕らわれているとか、依存とか、そういった意味を示すこともある……。何なんでしょう?」
「いずれにしても、お姉さまは、こんなふうに亡くなる予定ではなかったということを言いたいみたいよね。皇帝と正義……。権力者の象徴みたいなカードね」
トウコは玉座で王杓と宝珠を手にしている王の姿……皇帝のカードを睨んでいた。
「浩介……。思うんですけど、このカードの天秤って……?」
「あっ」
美聖は口元を押さえた。
降沢が指差しているのは「正義」。
女神が左手に天秤を持ち、右手に剣を持っているカードだ。
意味は、正義感、正しい評価……法律を表す。
「これは……」
美聖は、トウコと目を合わせた。
「弁護士……?」
二人同時に声が被った。
降沢は顎を擦りながら、宙を仰いだ。
「ああ、あの人ですか」
昨日、すれ違った降沢と同い年くらいの男。
弁護士の徽章が気になって仕方なかった。
「円が姉には、もう一人男性の影があったと……。その男性が来ている時、円は外に追い出されていたそうです」
「その人を「正義」のカードが表しているというのなら、…………あの弁護士バッジ、異様に惹かれたんですよね。あの人、お姉さまのことを知っているんじゃないですか……。こんなことなら、意地でも名前を聞いておけば良かった」
「……ということは、その弁護士とお姉さまは、深い関係にあったってこと?」
「まだ確定はできないような。トウコさん、クサカベ レンヤという男性が何者なのか分かりません」
「その弁護士先生が「正義」を表すのなら、クサカベ レンヤは「皇帝」だと思うんだけど? どうかしら?」
「私も、トウコさんと同じ見解です」
鑑定結果を信じるのであれば、それ以外、考えられない。
しかし、しょせんは占いだ。
現状、憶測だけで、証拠の一つもないのには変わりないのだ。
「さて、浩介……」
「何よ。私にやれって言うの?」
「貴方の得意分野です」
「……面倒な」
降沢が意味ありげな視線をトウコに突き付けて、彼は深刻そうに眉間を押さえた。
いつも明るいトウコでも、こんな凶悪な顔をする時があるのか……。
「あの……トウコさん?」
気遣って、声を上げた途端、勢いよく扉が開いた。
もちろん、まだ開店時間より一時間以上も早い。
どたどたと、わざとらしく足を踏み鳴らしてやってくる人物の相場など決まっていた。
「朝からうるさいわね。坊さんなら坊さんらしく、すり足で歩きなさいよ!」
トウコがここぞとばかりに、理純を詰った。
完全な八つ当たりであったが、理純はそれには無視だ。
彼には珍しく、飄々とした笑みが顔に貼りついていない。
「なーに、お前ら、暢気に占いごっこしているんだよ? ニュース見てないのかよ?」
――とうとう、ごっこ扱いされてしまった。
今日も動きやすそうな上下黒のスウェットのポケットの中から、スマホを取り出した理純は、美聖が鑑定していたタロットのすぐ横にそれを置いて、突然ニュースの再生映像を流し始めた。
「理純さん、一体?」
「まあ、黙って見てろって」
「えっ?」
そうして、スマホの小さな画面の中、映っている女性キャスターが恭しく読み上げた事件の内容に、三人とも竦み上がったのだ。




