⑨
マンションの前で、降沢と理純に軽く挨拶をしてから、美聖は疲労困憊の足取りで、自宅にたどり着いた。
(色々あったな……)
今日一日で、理純の言っていた通り、降沢との間に合った距離が縮まったような気がしていた。
ちゃんと美聖と話したいと、口下手な降沢が頑張ってくれた。
自分はこういう性格だから、美聖に将来を約束できないかもしれない。
でも、誠意は受け取って欲しい……なんて。
(もしも、これが私の都合の良い思い込みじゃなかったら、私は……)
物事はシンプルだと、理純が語っていた。
あれは降沢に対する言葉だったようだが、美聖にも当てはまっている。
(そうだよね……)
たとえ、映里が美聖にどのような感情を抱いていたとしても……。
降沢の気持ちが、美聖の好きとは違っていたとしても……。
(降沢さんと深く関わることは危険なことだって、分かっているけど、やめられないのなら?)
いろんなリスクや、不利な条件があったって、自分の気持ちに正直に生きずに後悔するよりは、マシではないのか。
(私はやっぱり、降沢さんのこと……好きなんだ)
自覚を深めると、かあっと体が熱くなった。
たった一日降沢と一緒にいただけで、一人で舞い上がって、熱に浮されているだけかもしれない。
(落ち着こう。私……)
頭を冷やすつもりで、台所で一杯水を飲んでいると……。
突然、煌々と明かりが点いた。
パジャマ姿の円がリビングのスイッチの横に立っている。
「あっ、円。ただいま」
「おかえり」
「どうしたの? お祖父ちゃんと、寝てたんじゃないの?」
「眠れないんだ」
「そっか……。あっ、ママがホットミルクでも作ってあげようか?」
美聖がしゃがんで冷蔵庫の扉を開けると、隣にやってきた円が美聖の袖を引っ張った。
甘えているのだろうか……。
美聖はそっと円の柔らかい髪を撫でた。
(かわいそうに、眠れないのかしら?)
一ノ清家に来てから、円は一度も泣き言を零さない。
映里の話も余りしなかったから、こちらから聞くこともしなかった。
それでも、このくらいの年だったら、母を恋しがって、泣きじゃくるものだろう。
(お姉ちゃんは円を、どんなふうに育てていたんだろう?)
姉のマンションで、一人ぼっちで姉の帰りを待っていた円は、八歳とは思えないほど痩せ細っていた。
――ネグレスト。
真っ先に浮かんだ単語だった。
「明日も学校だし、ミルクを飲んで早く寝なくちゃ」
「でも、眠れないんだもん」
「じゃあ、ママが一緒に寝てあげるから……」
美聖はたとえ疲れ切っていても、優しく丁寧に、円に接するように心掛けていた。
円が心に傷を負っていることは、会った時の状況だけでも分かることだ。
散らかった部屋で、膝を抱えて独りで座っていたのだから。
(この子は、賢い子だから……)
きっといろんなことが分かっていて、口に出さないだけなのだ。
……でも、円にとって、降沢は別らしい。
「ねえ? 今日は、降沢の兄ちゃんとデートしてたの? みっちゃんママ、嬉しそう」
「そんなんじゃないわよ」
今までの熱が一気に冷めた。
円にまで、からかわれてどうするのだ。
「あのね、今日は、降沢さんだけじゃなかったのよ。他の人も一緒だったの」
「ふーん」
まあ……理純がいたのは、帰り道だけだが、決して嘘ではないはずだ。
「まったく、もう……。円はマセガキなんだから」
美聖は、くしゃくしゃと円の髪を乱すと、立ち上がって、てきぱきと、ミルクを鍋に入れて温めはじめた。
しかし、驚愕すべき言葉は次の方だった。
「じゃあ、今日はママが死んだ理由は調べてないんだ?」
「…………えっ?」
途端、耳を疑った。
円には、映里の死について、嘘をついている。
――事故だと、話していた。
少なくとも、美聖の口からは、自殺であったことすら教えていなかった。
時が来たら、ちゃんと説明しようと思っていたのだ。
だが、円は念押すように繰り返した。
「降沢の兄ちゃんと、みっちゃんママは、ママが死んだ理由を探しているんだろ?」
「……円?」
気まずい沈黙が続き、沸騰した鍋の火に美聖は我に戻った。
「どうして…………円?」
「降沢の兄ちゃんから聞いた。ママは自分から死んじゃったのかもしれないけど、でも、その原因が分からないんだって。それを知らないと、前に進めないんだって言ってた」
「ああ、もしかして、あの時……」
車内で、円と降沢が何やら話していた。
降沢は、そんなことを円に言っていたのか……。
「俺にさ、何か思い出せることがあったら、教えて欲しいって、協力して欲しいって言ってた」
「…………そんな! いいのよ。円は無理しなくったって」
「でも、男の約束だから」
「なによ。それ?」
余計なことを……と、降沢に怒るのは早計だ。
美聖が彼を巻き込んだのだ。
前に進むためだと、降沢は口にしていたのなら、遅かれ早かれ、美聖も円に本当のことを話す機会を設けざるを得なかったはずだ。
(……でも)
美聖は円に駆け寄り両肩を掴んでから、抱きしめた。
辛い記憶だったら、わざわざ口に出す必要はない。
映里のことを余り話したがらないのは、円にとって良い思い出がないからだということを、美聖は理解しているつもりでいた。
だが、美聖の心配なんかより、円は遥かに大人だった。
「あれから、思い出したんだけどさ。ママが死ぬ前に、よく知らないおじさんが家にいたよ。……でも、ママは幸せそうじゃなかった」
「えっ?」
「なんか辛そうだった。俺がどうしたのって聞いたら、放っておいてって、あっちに行けって怒ってた」
映里は、円に対して、そんなことをしていたのか……。
(ひどい……)
暗がりの台所で、美聖は更に円を抱く手を強めた。
「ごめんね。円……。本当にごめんね」
「どうして? 何で、みっちゃんママが謝るの?」
「私が悪いんだよ。ママがそんなになるまで気づかなかったんだもん」
「みっちゃんママの何が悪いの? ママは、みっちやんママの心配をしていたよ。よく写真見てたもん」
「……嘘?」
そういえば、以前、円は降沢に対して、映里が「美聖は結婚したら変わるのに」と話していたことを告げていた。
(お姉ちゃんは、私のこと嫌いだったんじゃなかったの?)
距離を取ったのは美聖だが、映里も美聖には辛辣だったはずだ。
いや……。
辛辣だと、美聖が思い込んでいただけなのだろうか?
「ああ……それと、お金をあげるから、外で遊んできてって言われた時には、違うおじさんが家に来ていたみたいだった」
「えっ?」
円は衝撃的なことばかりを口にする。
――それって、つまり。
レンヤとという男と、もう一人誰か映里の死に関わっていることではないのか?
美聖が円の背中をぽんぽと叩くと、温かいものが首筋に降ってきた。
円が泣いているのだ。
「分かった。円。それ以上はいいから……ね。今日は、もう寝ようか」
「俺、まだ起きてる」
「……じゃあ、ママも起きてる。ごめん。本当にごめんね、円」
今は円を抱きしめるくらいしか、美聖には出来そうもないから、とにかく、ありったけの愛情を掌にこめた。
「でも……ママのこと話したら、みっちゃんママは、幸せになれるんでしょ? ヒトリミにならないんでしょ?」
「円は、そんなこと気にしなくったっていいんだからね。ママが望んで円と一緒にいるんだからね」
「でも…………ママは、独りが寂しいって言ってたから。俺もいるのに、寂しいんだって。だから、死んじゃったんだ。みっちゃんママも、そうなの?」
(お姉ちゃん、どうして?)
こんなに頭が良くて、可愛い子に、トラウマになるようなことを言ったのだろう。
やはり、死の間際、映里は壊れかけていたのではないか……。
美聖はつられて泣きそうになるのを、懸命に堪えながら微笑んでみせた。
「円……。私はぜんぜん寂しくないよ。円もいて、お祖父ちゃんもいて……。幸せだから」
「嘘だ」
「本当だって」
「一人で泣いているくせに。嘘つき」
円が美聖にしがみついて、号泣している。
こんなふうに、激しい円を前にするのは、初めてだった。
(やっぱり、子供だからって、誤魔化せやしない。いつも、円は我慢していたのよ)
「私、ママ失格ね……」
美聖も嗚咽を堪えることが出来なくなっていた。
堪えきれずに、泣いてしまう。
「でも、私はまだ未熟で、ダメダメだけど、これからは、もっと強くなるからさ。大丈夫よ。円を置いていったりなんかしないから、それは安心してね」
「じゃあ…………ママが死んだ理由、分かったら俺に教えてくれる?」
「……もちろん。分かり次第、絶対、教えるから」
そうして、二人で抱き合いながら、わんわん泣いていたら、騒ぎを聞きつけて、起きてきた父に腰を抜かされてしまった。
(これで良かったのかな……)
最初、降沢のしたことは、怖いことだと感じた。
けれど、泣きながら、こういうのが家族なんだと実感を深めていた。
(なんか初めて、ちゃんと家族になれた気がするよ)
円とは、姉が死ぬまで、数回しか顔を合わせたことがない間柄なのだ。
ママと呼ばせたところで、急に近づけるでもないけど、こうやって、泣いて笑って、同じ時間を共有しているうちに、家族のようになれたらいい。
その日、疲労と安堵の中で、円と同じ布団で眠りに就いた美聖は、亡くなってから、初めて姉の夢を見た。
夢の中の映里と美聖はまだ子供で、二人で終わりの見えない長い階段を下りていた。
一人で先にジャンプしながら、すいすいと下りていく映里と違い、美聖は尻込みしながら、一段ずつ下りていく。
泣きながら「お姉ちゃん待って」と訴えるが、映里は振り返って、にこりと笑うだけで、どんどん先に行ってしまうのだ。
(あんな人だったな……)
目を開けた美聖は、記憶の中の映里を丹念にたどった。
一ノ清 映里は、男勝りで、姉御肌で、正義感が強く、思いついたら、積極的に動くタイプの女性だった。
少なくとも、美聖のイメージでは、占いに依存するような人間ではなかったのだ。
(お姉ちゃん……)
内容はともかく、夢で会えたことは嬉しい。
そんな甘ったるい、ふわふわした気持ちで、緩やかに体を起こした美聖を、先に覚醒していた円が覗き込んでいた。
「どうしたの? 円、昨夜はちゃんと眠れた?」
「うん」
素直にうなずく、至近距離で見ると、目と鼻が映里にそっくりだった。
「みっちゃんママ。俺、昨日からずっと考えてたら、思い出したことがあるんだけど……?」
「えっ……?」
………………それは、映里の死の直前、家によく来ていた「お兄ちゃん」のフルネームだった。




