⑦
「一ノ清さん、気づきましたか?」
ホテルを出た途端、降沢が待っていたかのように、話しかけてきた。
美聖も降沢が言いたいことは分かっていたので、何度も頷いて返した。
「はい……。何となく、あのバッジ……気になりました。何でしょう……。激情のようなものが……」
それが何なのか、美聖の力で視ることはできない。
美聖より何となくの度合いが大きい降沢も同じなのだろう。
「僕もよく分かりませんが、あのバッジ……異様に惹かれました。描けるものなら、描きたい感じです」
――何かある。
お互いに分かっていても、それだけの理由で、よりにもよって弁護士バッジを借りるわけにもいかない。
降沢と美聖はお互いに黙々と、広々としたコンクリートの歩道を歩いた。
(どうしようか……?)
姉の手掛かりを掴んだは良いが、その先の進め方が素人には厳しい。
たとえるなら、材料はそろって来たのに、何を料理したら良いのか分からない状態だ。
(お姉ちゃんは、一体何が伝えたいの? どうして、死のうと思ったの?)
日は既に傾きつつある。
二人の影が歩道に細長く伸びていた。
秋風が都会の隙間を縫うように、心地よく吹くと、降沢は風で乱れた髪を、後ろに掻き分けた。
「レンヤという男性、一ノ清さんは名前を聞いたことありませんよね?」
「ありません。姉の遺品を探してみても、そんな人の名前が入った書置きは、一つもありませんでした」
「そうですか……」
「姉の自殺の理由に、レンヤという人が絡んでいるのでしょうね……」
「すぐにでも、捜し出したいところですが、名前だけだと、長くかかりそうですね。西河マリアは、本当に知らない様子でしたし……」
「……ですよね」
再び沈黙が訪れた。
緩やかな坂道に差し掛かり、いつの間にか道幅が狭くなっていた。
二人並んで歩いていると、肩がぶつかり、手の甲が触れた。
「…………あっ」
同時に声を上げて、目と目が合った。
「すいません。一ノ清さん」
「こちらこそ……不注意で」
よそよそしく離れると、降沢が再度謝ってきた。
「あの……先程は、申し訳ありませんでした。いくらなんでも君の夫だなんて……」
「あっ、いえ、別に……」
なんて答えてはいるが、何も気にしていないとは言えなかった。
ドキドキしたのは、事実だ。
美聖は照れ隠しで、笑い飛ばすしかない。
「きっと、降沢さんに考えがあるんだろうってことは分かっていましたから」
「あの人、よく分からない男と相性が良いから、付き合った方が良いなんて言いだしそうじゃなかったですか。二人で既婚者の方が良いと思ったんです」
「…………ええ。はい。そうだろうとは思っていました」
合理的な理由で、降沢は美聖を既婚者にした方が良いと判断したのだ。
(分かってたけどね……)
降沢は美聖のことを大切に想ってはくれているようだ。そうでなければ、ここまでしてくれるはずがない。
けれど、彼を信じることができない。
その場の感情で動くという彼の何をよりどころにして信じたら良いのだろう。
美聖のひきつった笑みに気づいているのか、気づいていないのか、降沢は穏やかな笑みを浮かべていた。
「もしかしたら、あの場でこんなことを思っていた僕は不謹慎かもしれませんけど……」
「はい?」
「一ノ清さん……格好良かったです」
「私が……ですか?」
不意打ちの指摘に、美聖は首を傾げる。
「西河マリアに対峙しているとき、あの場で君の占い師としての心構えのようなものが聞けて、僕は頼もしかったです」
「それなら……降沢さんだって」
――格好良かったです。
口走りそうになって、できなくて、美聖は更にうつむいた。
美聖があの場で強くいることができたのは、降沢が隣にいたからだ。
確かに、西河マリアにはある程度の霊能があるようだったが、映里の死についてはまったく分かっていなかった。美聖には、降沢の能力の方が彼女より上に見えていた。
降沢の……たまに見せる鋭い目が、美聖は好きだ。
けれど、その目は冷たくて、怖くて、美聖は彼に近寄りがたくなる。
「一ノ清さん?」
不意に降沢に呼ばれて、美聖はハッと顔を上げた。
「あっ」
地下鉄の入口が目の前に迫っていた。
「ああ、すいません。帰りましょうか」
階段を下りようとして、降沢に袖を掴まれた。
「降沢さん?」
「よかったら、これから食事に行きませんか?」
「えっ?」
「今日は日曜日で、お父様が円くんの世話をしてくれているのなら、まだ時間あるでしょう。僕は朝食べてなかったので、お腹がすいています」
「はあ」
早口で言い切られたので、美聖が口を挟む余地もなかった。
「駄目ですか?」
念押されて、美聖は微笑した。
不器用な人だということを、再認識している。
「駄目なわけないじゃないですか。私もお腹空いてたんです。何処に行きしょうか?」
降沢も土地勘がなかったらしく、近くにあった看板の鮮やかなイタリアンレストランに、行くことになった。
「何だか、一ノ清さんに決めてもらってしまって、有難うございます。この辺りのこと僕は全然、分からなくて。今、何処にいるのかもよく分からないんですよね。そもそも、新宿に来たのは学生の時以来かもしれません」
窓際の席に着いた途端の告白に、美聖は久しぶりに心から笑声を上げた。
「……えっ、でも、元町は、慣れていたじゃないですか?」
「あの辺りに、浩介の実家があるんです。今は一人暮らしですけど、何年か前までは、実家で暮らしていたんです。引きこもりな僕は、よくあいつに連れ出されてました」
「そうだったんですか」
トウコが横浜で一人暮らしをしていることは耳にしていたが、実家が元町近辺にあることは初耳だった。
(今度、トウコさんに聞いてみよう……)
メニュー表を覗きこんでいた自分を、降沢が待っているような気がして、美聖は慌てて注文を決めた。
渡り蟹のクリームパスタとサラダセット。
メニュー表を降沢に渡そうとしたら、見るまでもなく降沢は美聖と同じもので良いと断言した。
「降沢さん、それで本当に良いんですか?」
「ええ。クリームパスタって、美味しそうじゃないですか」
「でも、お腹減っているなら、もっと量を食べるとか……。あっ、ワイン飲みます?」
「いいんです。勿論、お腹は空いていましたけど、君を食事に誘うことの方が大切だったんです」
「はっ?」
降沢は水を飲んでいるが、これが酒なのではないかというくらい、今日はちゃんと喋っていた。
「今まで、こんなふうに誰かを食事に誘ったことなんてなかったんです。元町で一回。今回で、二回目です」
「…………それ、めちゃくちゃ嘘っぽいですよ」
「本当ですよ。僕なりに緊張していたんです。しかも、前回より、今回の方がハードル高めでした」
「よく分かりませんけど……。その……嬉しいです。……ありがとうございます」
恐縮しながら答える降沢に引きずられたのだろう、美聖も畏まりながら、水を一口含んだ。
降沢がどこまで本気なのか、彼の気持ちが読めない。
「実は……お姉さまのこととリンクして、君に話しておきたいことがあったんです」
降沢は姿勢を正して、真っ直ぐ美聖を見据えた。
しんと、張りつめた空気が演出されたのは、客層のせいだけではない。
看板だけで選んでしまったレストランは、看板にランチセットがお得だと掲げていたので、てっきりカジュアルな造りをしていると思っていたのだが、店内の内装は洒落ていて、クラシカルな音楽と白いテーブルクロスが改まった空間を作りだしていた。
まるで、プロポーズでも受けそうな独特の雰囲気が漂っていたが、そうでないことは、美聖にはよくわかっていた。
「……何でしょうか?」
「僕の体質のことです。君の事情ばかり首を突っ込んで、僕のことをちゃんと話していなかったから……」
「それは……ある種の霊媒体質だって、以前、そう仰っていらっしゃまいしたよね?」
「霊媒体質だった……ということです」
降沢が少し声を小さくしたのは、疎らにいる客の目を気にしたせいだ。
距離は取っているが、聞こえているかもしれない。
「僕は小さい頃から、おかしなものが見えたり、聞こえたりして、まあ……漫画とか映画とかテレビの世界とかだと、面白おかしく描けるものかもしれませんが、正直、生きた心地がしなかったのです。両親も弟も僕を奇異の目で見て……。普通に接してくれたのは、従妹と、少し能力のある祖母くらいでした」
降沢は言いにくそうに、でも、テーブルの上でぎゅっと拳を握りしめて、美聖から目を逸らそうとはしなかった。
「祖母から聞いたところ、降沢家は元々、奉納絵師の家柄だったそうです」
「奉納……絵師? 初めて聞きました」
「……ですよね。江戸時代からそんなふうに呼ぶようになったそうです。最初、神憑りの寄坐だったそうですが、時代が下るに従って、神社や仏閣に奉納する絵を描く絵師となった。それは、ただの絵ではなく、神降ろしの絵……だったそうです。僕も話を聞かないままだったら、知らなかったと思います。今はもう、そんな絵師なんていないですしね……」
「……いないんですか?」
「いないそうです。降沢家も明治になってからは、奉納絵師を完全に辞めたそうです。でも、たまに僕のような子供が生まれるみたいで。特に僕の場合は、変に強いせいか、普通に生きていくのは無理なくらい、重症でした」
「えっ……でも?」
しかし、今の降沢は何も感じていない。
そうでなければ、あの重苦しいアトリエにこもって、平然と絵を描くことなどできるはずがないのだ。
「今は……正邪が分からず惹かれるだけ……なんですよね?」
「ええ。抑えに抑えて、その程度までになったのですよ。従姉から、浩介を紹介してもらって、浩介の伝手で、理純と理純の父親の恵慧師二人がかりで、僕の力を封じてもらいました。絵を描くことは、家系の因縁を受け継ぐことに繋がるのだから、僕は絵を描くことをやめるつもりでいました。それを、きっと従姉も望んでいると思ったのです。……でも」
「…………沙夜子さんから、やめるなと言われたのですか?」
「はい。それが彼女の遺言でした。最初は酷いことを言うなって思いましたけど、結局、あの人がそう言わなくても、僕はきっと描くことから、逃れられなかったと思うのです。僕は何処か投げやりで……。自分のことを、不幸だなんて思ったこともないのに、終わりにすることを、心の何処かで望んでいる。………………愚かな人間なんです」
しん……と二人で黙り込んだところに、明るい声で店員が威勢の良い掛け声と共に、パスタとサラダを運んできた。
美味しそうだが、今、手をつける気になれない。
「…………そんな降沢さんに、私はとんでもないことをしていますよね。姉のことは降沢さんにとって、悪い影響を与えそうです」
「いいえ。どうしてですか? 責められるべきは僕の方です。僕に昔の力があれば、もっと君の役に立てたかもしれないのに……」
降沢は目尻に皺を寄せて、苦笑した。……が、美聖は笑うことなんてできない。
「降沢さん。こんな私が何を言っでも信じてもらえないかもしれませんが、私は貴方を利用しようとか、役立てようとか……そんなつもりじゃなかったんです。ただ……その……あの時は怖かっただけで……」
「怖い?」
「降沢さんは、たまに何処か遠くを見ている時があります。誰も見てなくて、たった一人で生きているような雰囲気を出している時があるんです。だから、私、分かっていましたよ。降沢さんの刹那的な性格。それが私には、手が負えない気がして怖かったんです」
「……僕、そんなに痛い人な感じが出ていましたか? 自分だと分からないものですね」
いやいや、傍から見た分には、降沢は普通だろう。
単純に、美聖が降沢をよく見ているだけで……。
そうして、そんな刹那的な降沢に、美聖は惹かれてしまっているのだ。
――怖い。
だったら、美聖もまた愚か者ではないか。
映里が生きていたら、そんな妹の重い恋愛をみっちゃんらしいと、嘲笑されてしまうかもれしない。
「私は降沢さんがいなくなったら、嫌ですよ。悲しいです。姉がいなくなって、心にぽっかり穴が開いた気持ちになりました。そういうのは、もう……勘弁して欲しいです」
「すいません……。ちゃんと君と話そうと思ったんですけど、どうも僕は、君を傷つけてばかりいますね」
「そうじゃなくて……」
美聖は額を押さえる。
どうも、伝えたいことが上手く届かない。もどかしさが募る。
「私は降沢さんのことを、心の底から、心配しているんです」
「えっ?」
「おこがましいと思いますが、姉のことで、おかしなことは考えないで下さいね。もう一度、同じ体質に戻ろうとか、そんなことを考えたら、絶対に駄目ですからね」
我ながら、直球の愛の告白のようで、むず痒さを覚えていたら、降沢は明後日の方向で納得したらしく、瞳を輝かせていた。
「一ノ清さん、すごいですね……。まさか、そこまで、お見通しだなんて……。占い師ってみんなそうなんですか?」
(あれ……)
何やら、素直に感心しているらしい。
「先日、理純に申し出たら、殴られそうになりました」
「…………ああ、もう、やっていたんですか」
自ら、病み気質だと宣言するだけのことはあった。
美聖の想像以上に、降沢は人生を投げているようだ。
「…………僕も、いい歳したおっさんが何を言っているんだろうって、思うんですけど、君が心配してくれるのは、嬉しいものですね。元の力に頼るのは、最後の手段にして、君のためにも、僕のためにも、出来る限りのことは、してみたいと思います」
「一体、何を……? レンヤという男性については、ゆっくり捜すしかないと思うのですが?」
降沢はようやくフォークとスプーンを手に取った。
「一ノ清さん、もし許されるのなら、お姉さんの最期の場所に、僕を連れて行ってくれませんか?」




