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「降沢さん、いくら何でも、これは……」
「大丈夫ですよ。最近は浩介の目があまり見えなくなってきたっていうんで、僕も結構乗っているんです」
降沢はシートベルトをてきぱきとつけて、爽やかに笑ってみせたが、助手席に座らせた美聖の顔は強張っていた。
西河マリアの講演会チケットの件で押し問答を繰り返すうちに、円少年のお迎え時間が迫ってしまった……そうだ。
顔面蒼白で、駆け出そうとする美聖を、降沢が引き留めたのだ。
――僕が車で送ります……と。
「アルカナ」には仕入れ用に、白い軽自動車がある。
浩介の要望で購入した車だったが、目が見えなくなりつつある浩介は、最近は、もう乗っていない。
売り払うことも考えたが、浩介にたまには運転して店に貢献しろと説教されて、降沢は渋々仕入れの際に車を出したりなどするようになった。
だから、それなりに運転には慣れているはずだった。それなのに、美聖のこの反応は何だろう。いくら何でも怯え過ぎだろう。
「やっぱり、私……走って。まだ何とか間に合うと思うんです」
「その勢いで走ったら、事故を起こしますよ。ここまで来て、何をごねているんです?」
「……だけど。降沢さんって、そもそも免許持っていたんですか?」
「いくらなんでも無免許運転するほど、度胸ないですよ。第一、浩介が止めますから」
…………一体、彼女の中の降沢在季のイメージはどうなっているのだろう?
「学生時代に取って、つい最近まで、ペーパードライバーだったのは、確かですけど」
言いながら、降沢はエンジンをかけて、シフトレバーをドライブに入れた。
「ひっ!」
美聖がオーバーすぎるリアクションで、アシストグリップに掴まる。
久々に素の美聖を目にすることが出来て、こんなところで降沢は楽しくなった。
あの日から、美聖と二人きりでこんなふうに会話をすることもなかったのだ。
「そんなに怖がらなくったっていいじゃないですか。今までだって、浩介に運転してもらったことあるでしょう。あっちの方が、恐ろしいことなんじゃないですか」
「いや、でもトウコさんの方が……その安定感があるというか……」
「僕、そんなに危なっかしく見えます?」
「そういう訳じゃないですけど、何となく降沢さんと車のイメージがなかったんです」
「そういえば、僕がスマホ持っているだけで、君は驚いていましたよね……」
「多分、降沢さんは「アルカナ」の内装のようなイメージなんですよ」
「どういう意味ですか?」
「昭和レトロな感じ……でしょうか?」
「はあ?」
何だろう。それ?
少なくとも、誉められてはいないはずだ。
危なげなく、降沢は車を走らせて、細い路地を抜けて、駅前に出た。
しかし、降沢はそのまま駅を通過し、建長寺の前を通って、鎌倉に抜けて行く。
「降沢さん……あれ? 駅までって……」
「せっかくなんで、逗子まで送りますよ」
最初からそのつもりだったのだ。
申し出たら、拒否されそうだったので、言わなかっただけである。
「そんな、申し訳ないですよ。チケット代だって、借金になっちゃったのに!」
「まだ、そんなこと気にしているんですか。いいじゃないですか。君が頼んでもいないのに、勝手に浩介が購入したんです。僕だって、自分が行ってみたかったから、買い取っただけですからね。あっ……ほら、もう鎌倉着いちゃいましたから」
車だったらすぐだ。
駅まで出るのと、逗子まで行くのと、降沢にとってはそんなに手間にならない。
想像以上に道が空いていたため、紅葉のドライブ気分すら味わうことなく、あっという間に円のいる学童保育所にたどり着いてしまった。
小学校の隣に保育所は併設されているとのことで、降沢は小学校の手前で車を停めた。
「ありがとうございました! 余裕で間に合いました」
「せっかくですから、家まで送りますよ。円くんを連れて来て下さい」
「はい、すぐに連れて来ますので」
美聖は、もはや抵抗しなかった。そそくさと車から飛び出していく。
この小学校は、美聖の家の近所だ。ここまで来てしまったら、ここで別れるのも、家まで送り届けてもらうのも、同じようなものだと認識したのだろう。
(気まずいんだろうに……な。一ノ清さん)
多分、美聖一人だったら、強引に北鎌倉駅で車を降りていたただろう。
円がいるから、彼を育てていかなければならないから、彼女は上手な距離感で降沢と付き合おうとしている。
(それが良いことなのか、悲しいことなのか……僕には分からないけど)
程なくして、美聖がボーダー柄のシャツに半ズボンの腕白そうな少年を連れて車までやって来た。
運転席で降沢が軽く手を振ると、覚えていてくれたのだろう、円は片手を勢いよく突きだした。
「お待たせしました」
「あっ、みっちゃんママの元彼じゃん」
いきなり恐ろしいことを言ってのけるので、降沢も美聖もその場で硬直してしまった。
「もう……。馬鹿なこと言ってないの?」
「何で……。別れたんでしょ?」
「そんなんじゃないのよ。もう、やめてよね」
美聖が顔を真っ赤にして、否定した。
(一ノ清さん……)
すべての感情が顔に出ている。素直すぎて、可哀想なくらいだ。
円がランドセルを下ろして、後部座席に二人で並んで座ろうとしたところで、小走りでやって来た眼鏡の女性が美聖に声をかけた。
「……待ってください! 一ノ清さん、お話いいですか?」
「あっ……先生」
美聖は慌てふためきながら、シートベルトを外した。
「円の先生が、何かお話があるみたいです。降沢さん、お時間は?」
「僕のことは、お気になさらず。当然、何もないですから。行って来て下さい」
「ごめんなさい! 少しの間、行ってきます!」
頭を下げた美聖は、身をひるがえし、外に出て行った。
(一体、僕は今日だけで何度彼女に謝罪されているのかな……)
降沢も謝罪ばかり繰り返しているので、お互い様なのかもしれないが、少しさびしい。
ぱたぱたと走り去って行く、美聖の後ろ姿を目を細めて追っていると、円とルームミラー越に目が合った。
「あれ? 別れたんじゃないんだ?」
「…………あーーー、学校は順調ですか? 円くん」
「話を逸らすのは、言いたくない証拠だろう?」
「…………最近の小学生は、大人びていますね」
どうしたものか……。
子供は嫌いじゃないが、得意ではない。
接した経験が余りないからだ。
しかも、妙に核心をついてくる円を、まるきり子供扱いして良いのか降沢には分からなかった。
円は舌足らずな高い声で、平然と降沢の傷に塩を塗ってきた。
「兄ちゃんが来た日から、みっちゃんママが落ち込んでるから、祖父ちゃんが、きっとフラれたんだろうって言ってたんだ。あれだけ仲良くしておいて、みっちゃんママをフるなんて、兄ちゃんは女の敵だな」
「…………違いますよ。あの日は」
そういう次元の問題ではなかった。
……が、それをどう説明していいのか、降沢には分からない。
「じゃあ、どうしてみっちゃんママは落ち込んでいるの。兄ちゃんが酷いこと言ったわけ?」
「それは……」
なかなか、しつこく噛みついて来る。
子供ながらに、円が必死で美聖を護ろうとしていることを、降沢はありありと感じていた。
(困ったな……)
まさか、公園でのやりとりをまんま話すことも出来ない。
やがて、歯切れの悪い降沢に、うんざりしたのか、円は、疲労困憊気味の大人のような溜息を、大げさに吐き捨てた。
「みっちゃんママは、俺のせいで一生ヒトリミ……なんだってさ……。俺を育ててるせいで、嫁にいけなくて、かわいそうだって言うんだ」
「はっ?」
どきりとした降沢は、ハンドルに手を置いたまま、上体を後部座席に向けた。
円は無表情で、降沢から視線を逸らしつつ、落ち着かないのか、足をぶらつかせていた。
「誰がそんなことを言っていたんですか?」
「おばちゃん……」
「おばちゃん?」
「祖父ちゃんの妹……」
「ああ、なるほど」
(デリカシーがないというか、子供だから分からないと思っているのか……)
美聖から、円の心情については聞いていないが、彼はわずか八歳で、いろんなものを背負いこんでしまっている。
口さがない親戚の言葉こそ、円を傷つけているのではないか……。
「君のせいじゃないですよ。そんなことはありません。一ノ清さんにその気があれば、結婚もするでしょうし、心配しなくても大丈夫です」
「でも、兄ちゃんは、俺がいるから、みっちゃんママが嫌になったんだろう?」
「そんなはずないじゃないですか……。逆に、一ノ清さんが僕のことを信用できないんだと思います。僕自身も、自分が信じられないですし」
「意味が分かんない」
「……ですよね」
(結局、僕は何をしたいのだろう?)
これ以上、触れてくれるなと美聖が言っているにも関わらず、首を突っ込んで、それでも、彼女が求めているだろう……たった一言を、口にすることが出来ない。
「…………ママもよく泣いてたんだよな」
「ママ? それは一ノ清さんのお姉さまの……?」
円は何も答えなかった。
心に深い傷を負っている少年は、ある意味大人よりも落ち着き払っている。
降沢は家族が自分を異様な目で見て、差別されていた子供時代を思い出していた。
あの頃の自分も、虚勢を張って、悟ったような大人びた態度をしていた。
状況はまるで違うが、多少似たところは持ち合わせているのかもしれない。
「ママは、円くんのお父様を想ってたのでしょうか……?」
降沢は、あえて突っ込んで尋ねた。
もしも、彼があの頃の降沢と同じような寂寥感を抱えていたのなら、第三者の誰かに話を聞いてもらいたい気持ちも持っているはずだ。
円は言いにくそうに、一瞬うつむいたものの、降沢の予想通り、ぽつりと小声で答えた。
「ううん。パパじゃない。違う人だと思う。よく来てたから……」
「そう……ですか……」
亡くなる前、映里には他に思いを寄せる男性がいたのだろうか。
多分、こんな話を、円は家族である美聖や祖父には話せていないはずだ。
「みっちゃんママも、たまに泣いてる。みっちゃんママまでいなくなったら…………俺、困る」
「…………一ノ清さんが」
(……泣いているのか)
公園で抱きしめた日、涙をこぼしていた美聖は、今だって、降沢の知らないところで泣いているのだ。
(僕はダメだな)
彼女が深い傷を負っているのに、霊媒で力になれないのになら、何もできないと一人で悩むばかりだった。
……浩介が羨ましかった。
なんてことはない調子で、恵慧まで引っ張り出してくる柔軟さが、自分にないことを降沢は悲しいくらいよく知っていた。
(一体、どうしたら、大人らしく、毅然とできるんだろう……)
円は泣かない。
八歳の子供の方がはるかに自分より大人だ。
降沢は、いつも逃げてばかりだ。
どこまでも逃げ続けて、最期に堕ちても、自分一人で責任を取れるのなら良いと自惚れていた。
いつも、興味のないことには、一線引いて、他人事のように上から目線で物事を見つめていた。
(このままじゃ、いけないよな)
今、彼を安心させてあげられるのは、降沢の言葉しかないのだ。
「円くん。いいですか。君が考えているようなことは、絶対に有り得ません。一ノ清さんの近くには、僕がいます。……頼りないですけど。でも、必ず何とかしますから。大丈夫です。……絶対、保証します」
「本当に?」
「男の約束です」
降沢が熱く語ると、円は薄い笑みを浮かべて応えた。
半信半疑といった顔をしているが、それは仕方ない。
降沢には、まだ具体的な行動が伴っていないのだから。
(ああ、しかも、男の約束って……)
我ながら、古臭い言葉だ。だから、昭和レトロとか言われてしまうのだ。
でも、伝えたいことは、今、この勢いのままこの場で話してしまいたい。
「……円くん」
「何?」
降沢は姿勢を正して、円と向き合った。
黒目がちの大きな瞳に、降沢の姿がまっすぐ映っている。
「僕は君と約束を守るために、出来る限り頑張るつもりです。だけど、みっちゃんママをこれ以上泣かせないためには、君にも協力してもらう必要があると思うのです」
「……俺は、何をすればいいの?」
「ありがとうございます、円くん。実は……君にとっては、あまり思い出したくないことかもしれませんが、どうしても、前に進むために、必要なことなんです。……だから、僕に、協力して教えてくれませんか?」
降沢が身を乗り出して、深く頭を下げると、円は小首を傾げて、一言呟いた。
「変なオッサン……」
そうかもしれない。我ながら、変だという自覚はある。
だけど、変なオッサンの辛いお願いに、従順な少年はきっちりと応えてくれた。
「…………一体、何をしていたんですか? 降沢さんも、円も」
ややしてから、車に戻ってきた美聖は、あからさまに怪訝そうな表情をしていた。
「何だ……。見ていたんですね」
「そりゃあ、見ていましたよ。窓越しに、何しているのかなって、思って……」
「ふふふふっ。それはねえ、男同士のヒミツだよ」
「はっ?」
円が茶目っぽく言ったので、美聖は益々、険しく眉をひそめたのだった。




