⑩
「ふふふふっ。昨日は、何やら遅かったみたいじゃないの?」
サングラスをずらして、しまりのない顔をさらした巨大な狸が、寝起きの降沢の前に立ち塞がっていた。
朝一番がこれかと思うと、げっそりするが、今朝は早めに起きない訳にはいかなかったので、降沢はとりあえず、やり過ごすことにする。
「家まで押しかけた挙句、何やっているのかしらねえ。堪え性がないわよね。芸術家って小難しいこと言っている割に、破天荒な行動をする人が多いみたいだけど?」
「それは、偏見じゃないですか?」
「ふふっ」
薄気味悪く笑う浩介を押しのけて、降沢はたいして眠れなかった割に、派手にあっちこっちに跳ねた寝癖を擦りながら、自作のユリの花の下に立った
今日も、我ながら異様な気配を発している絵だ。
浩介が勝手に命名した絵のタイトル「慕情」。
真っ白いユリの花と月を描いた絵のどこを慕情だと、当時散々降沢は難癖をつけた訳だが、しかし、じゃあ、他にタイトルを付けるとしたら、何だと考えてみても、意外に良いものが思いつかなかったりする。
なんだかんだと抵抗しつつも、降沢は浩介の目論見にはまっているのだ。
(まさしく、今回もそれだな……)
この男の掌で、降沢は踊らされているのだ。
沙夜子の望むままに、生きてやろうと思っていた。
ひたすら絵と自分との世界だけで生きてゆく。
降沢はモチーフを通して、人の抱えている闇や光を描いているだけに過ぎない。
誰とも交流せずに、たった独りで、好きなように絵を描いて、破滅的に死んでゆく。
実際、その生き方の方が、自分に似合っているように思えた。
――降沢は、強力な霊媒体質者である。
霊媒を封じなければ生きていけないほどに、いろんな物が視えて、身体を乗っ取られそうになっていた。
結局、沙夜子の病気の発覚と共に、自ら閉じることを決意したわけだが、今もその残滓が身体に宿っていた。
何も視えないけれど、微かに感じる。
それが正邪なのか、判別がつかないほど大きな力に引き寄せられてしまう。
何だか分からない得体の知れないものを、身体に寄りつかせて絵を描くなんて危険だ。
キャンバスに移すことが出来るものであれば、まだしも、もしも、降沢の身体に残ったままだったら?
命の保証はない。
だから……。
それでも、絵を描くことをやめられない降沢のために、浩介がいて、美聖が雇われたのだ。
――その美聖が、降沢の力を頼っているなんて。
(皮肉だな……)
昨夜、限界とばかりに張りつめた思いを吐露した美聖は、降沢の腕の中で震えていた。
(可哀想に……)
そう感じた。
ずっと、彼女は張りつめていたものを抱えていたのだろう。
降沢と美聖は、確かに似ているようだ。
お互いに泥沼の中で、誰の手も拒否して、一人勝手に足掻いている。
けれども、決定的なところで違っている。
美聖は真面目に生きようとしていて、降沢は刹那的な生き方しかできないところだ。
あの時、欲しいと感じたから、彼女を抱きしめた。
でも、それはかえって、美聖の心の均衡を壊す行為に等しかった。
(だけど……)
彼女の性格も、降沢の性質もよくよく熟知していたのは、浩介のはずだった。
こんなふうになることを、浩介はどこかで想像していたのではないか?
「……そんなに、一気に彼女とどうこうなりませんよ。他でもない。貴方なら分かるでしょう?」
降沢は複雑な感情を、その一言ににじませた。
無駄に聡い浩介であれば、それだけで降沢の内心を多少は読んでくるはずだ。
「まあね」
すぐに笑いを引っ込めた浩介は、案の定、核心をついて来た。
「…………美聖ちゃんは、やっぱり、お姉さんのことで足踏みしているのね」
「知っていたくせして、白々しい。そういう彼女だからこそ、貴方は僕に彼女を会わせたのでしょう。まさしく生贄じゃないですか。僕なんかに目をつけられて、かわいそうに……」
「まあ、それと。……単純に貴方の好みのタイプだと思ったから雇ったのよね」
……不純だ。
(でも……)
降沢は、言い返せない。
結局、浩介の意図の一端を理解しながら、それを良しとしていたのも、自分なのだ。
「僕が苦悩する姿を見て、貴方は楽しむ趣向でもあるのですか?」
「そりゃあ、とても楽しいけれど、それだけじゃなくて、彼女に出会うことで、お互いに刺激になると思えたのよ。他人の中に自分を見つければ、客観的な判断もできるようになるでしょう」
「上から目線で、よく言いますよ」
「あら? これでも貴方と美聖ちゃんよりは、年上ですけど?」
「昨夜、彼女はお姉さんを、見殺しにしたのは自分だと、いつもお姉さんが近くで見ているような気がして、幸せになることが怖いと口にされていましたよ」
「そう……。よく、そこまで聞きだせたわね? 私だって、そこまでは聞けなかったわ」
「別に、僕は……」
ただ、美聖の逃げ場を閉ざして、半ば強制的に吐露させただけだ。
「一ノ清さんは、僕にお姉さんの遺留品を見て欲しいと仰いました」
「……………………えっ?」
「今朝、少し早くいらっしゃるそうです」
さすがに、浩介も意外だったのだろう。
横を向いたら、口元に手を当て、固まっていた。
「…………浩介。貴方は少しだけなら、まだ視えるのではないですか? 一ノ清さんのお姉さんは、彼女にとってそんなにいけないものなのですか?」
「何となく……視えるけど。でも、声を拾うことは出来ないわ。それに、そんなに悪いものだったら、早々に気づいてはいるわよ。確かに、まだ一年と少し。お姉さんは、色濃く彼女の傍にいるけど、でも悪いものではないわ」
「…………僕も、そう思います。一ノ清さんのお姉さまですからね。ただ妹さんと息子さんの行く末を案じているだけでしょう」
「美聖ちゃんの家に行っても、貴方が惹かれる物がなかった時点で、確かに強烈なものはないのでしょうね?」
「ええ」
姉のことを気にしているのは、美聖の方なのだ。
亡くなり方が不自然だったから、自分を責めているだけだ。
けれど、肉親を亡くした人に対して、それをストレートに告げて慰めたところで、意味をなさないことは降沢自身よく分かっている。
降沢だって、未だに囚われたままなのだから……。
「僕は今まで、自分が描きたいと感じたものを描いてきました。今の僕にできることは限られています。僕は……一ノ清さんの力になることは出来るのでしょうか」
「そうなっちゃうのね。どうしてかしら」
「貴方にとって、初めての誤算だったわけですか……。僕に誰かを想うことで、絵を描くことをやめさせたかったくせに?」
「違うわよ。絵描きをやめろってわけじゃなくて、他の方法があることも知ってもらいたかっただけよ。沙夜子先輩に振り回され続ける一生なんて、馬鹿げているじゃないの。美聖ちゃんだって……そうよ」
やや拗ねたような調子で浩介が言うのは、美聖の行動が普段の彼女らしからないことを、憂いているからだろう。
「そうですね。貴方の言うことは、もっともだとは思います。実際は、そう上手くはいかないものですけど」
いつもの美聖だったら、絶対に降沢の力を当てになどしない。
こちらが手を差し伸べても、かえって恐縮してしまうような女性だ。
(自分で自分を追い詰めて、訳が分からなくなってしまっている……)
そこまで理解してしまっては、彼女の願いを拒否することなど、出来るはずがない。
アルカナに姉の遺品を持って来るように伝えるのが、あの時の降沢の精一杯だった。
「僕はいつ自分がどうなっても構わないと思ってしまいます。それは、もうどうしようもないことで、だけど、そんなふうに、自分の価値観が著しく低いから、軽薄な男になってしまうのかもしれません。もっと、ちゃんと言葉を尽くして、彼女とは向き合う必要があったのでしょう」
「…………在季」
浩介がぽんと降沢の肩に手を置いた。
「貴方、まさか……。告白もしないで美聖ちゃんに迫ったんじゃないでしょうね?」
「えっ?」
ぎくりと、降沢が肩を震わせると、浩介が顔面蒼白になっていた。
「もしかして……貴方、美聖ちゃんを強引に襲っ……」
「この話の流れで、そこに終着させますか……」
その時、店の引き戸ががらがらと音を立てて開いた。
「美聖ちゃん?」
浩介が呼んだ。
昨日の今日で、どんな顔をして会えば良いのか……。
降沢は緊張感を払拭できないままに、浩介の後を追いかけ、入口まで出ていったものの……。
「…………あれ?」
そこにいたのは、降沢にとって想定外の意外な人物だった。




