⑨
夜の児童公園は、人気がまったくなかった。
静寂そのものの空間で、虫の声だけが大きく聞こえている。
美聖は腹を決めて、降沢と向き合った。
「……で、何でしょう? 一ノ清さん」
「やっぱり、降沢さんは、画家の職業が向いていると思うのです」
「………………ああ、それは手相の結果……ですか?」
ちょっと、いやかなり、拍子抜けした感じで降沢が応じた。
美聖は真剣に頷いた。
「逆に、事務職とか経営はむいていませんでした」
「ええ。それは自分でも、分かります」
「私も事務職とか向いていないんです。でも、大学出てから……ずっとOLをしていました」
「むいていなかったのに……ですか?」
降沢が質問しながら、美聖との距離を詰めてきた。
きっと、美聖の声が小さかったからだろう。
「ええ。その時は、辛いことをするのが仕事だと思っていました。お金を貰っているのだから、辛い、苦しい、だるいは当然なんだと思っていましたね。新人の時に、お局さんに言われた「ここで駄目だったら、何処に行っても駄目なんだ」って言葉を、苦々しく心に刻みつけていました」
美聖は、瞳を伏せた。
それだけで、半年間の「アルカナ」での日々が鮮烈によみがえる。
「だから、アルカナに、入れてもらってからです。仕事って、楽しいんだなって初めて思いました。アルバイトですけど、お客様にも良くして頂いて、自分も日々成長しているんだなって、実感できて、本当に毎日が充実していました」
「それは、良かったです」
「だからこそ思うんです。私はこれからも、こんなふうに、お休みを頂く機会があるかもしれません。今まで、休みがなかったのは、奇跡的なことでした。元々、従業員もトウコさんとバイトの私だけしかいませんし、トウコさんは、最近一段と目が悪くなってきているようです。逆に口コミで、お客様は増えていらっしゃいますから、何かしらの対策は必要だと思ったんです」
美聖は降沢の顔を見ずに下だけ向いて、一気に言った。
大好きな職場だからこそ、気を遣わせたくない。
いずれいなくなる美聖だから、甘くなんてしなくて良い。
…………それなのに。
降沢には、まるで響いていないようだった。
「その件でしたら、従業員を君以外に雇うつもりはありませんよ。それは僕も、浩介だって同じ意見です」
「…………しかし」
そんな甘いことで良いはずがない。
「君は自分に厳しい人ですね。再三言っている通り、どうにかなりますって。あの店は。どうにかならなければ、無理して続ける必要もないのです」
「「アルカナ」を潰されたくありませんよ」
「じゃあ、そんなこと。君が気にすることではないということでしょう」
相変わらず、よく分からない時だけ、ふてぶてしい。
美聖には、他に言葉がなかった。
降沢が好きだから、怖いのだ。
これ以上、深入りしない方がいい。
降沢はただのオーナー以上に、美聖のプライベートに入り込みすぎている。
最初に、彼と出会った時に感じたイメージ。
――どうしようもなく、怖い。
それは、どこまでもこの人に溺れていきそうな自分を、畏れていたからだ。
そんな恋愛を、この歳まで美聖はしたこともないし、今はしたくないのだ。
特に毎日、顔を合わせる職場なら、尚のことだ。
それなのに……。
優しくされると、どうしたら良いのか分からなくなってしまうのだ。
「それとも、君がアルカナを辞めたいと言うことですか?」
「…………それは」
下を向いている美聖を、降沢が覗きこむように迫ってきたので、美聖は思わず距離を置いて、立ち上がった。
「…………降沢さんは、私のこと、たいして興味を持っていなかったのに、どうして急にそんなことを言うのです?」
「興味がなかったわけではありません。……でも」
降沢は一度息をのみこみ、バツが悪そうに、自分で髪の毛をくしゃくしゃにしながら、話した。
「僕は君じゃなくとも、あの店に人を雇うことに、気乗りしていなかったんです。だから今だって、君以外雇うのは反対です」
「……離れの絵のことがあるからですか?」
「絵と僕です。僕のところには、いわくつきのものが集まりやすい。敏感とか鈍感とか、そんなのを問わず、少なからず働いてる方に影響が出るかもしれない。それを恐れていました。でも、浩介は君を連れて来ました。君はあの絵を、怖がりながらも綺麗だと言ってくれて……。僕も、あの絵にそういった思を込めて、描いていたんです。だから……君を、合格にしました」
…………合格です。
初めて会った時、降沢は美聖に一言、そう告げた。
「そうでしたね。私はあの絵が怖いけれど綺麗で、いまだに直視できません」
「慕情」は怖い。けれど、綺麗だ。
ずっと眺めていたら、そちらの世界に持っていかれそうなほどに、美しい。
だから、怖い絵なのだ。
「降沢さんは、あの絵を描くとき、沙夜子さんの意思のようなものを感じて描いたのですか?」
「彼女の病室にあったユリの造花をモチーフにして、描きました。でも、あの人は病死ですからね。造花のユリには、強烈なメッセージはありませんでした。むしろ、沙夜子姉さんが生前僕に遺した物の方に、強烈な感情がこもっていました。僕はそれを慕情にぶつけたんです」
「…………そうなん……ですか」
「まるで、あの絵は降沢さんのようですね。こんなに近くにいるのに、遠いような感じがして、距離感をつかめずにいたら、あっという間に引きずり込まれて……どうなるのか予想がつかない感じ」
「最低な男ですね。僕は……」
「自覚があるようですけど?」
「君も僕と同じタイプの人間らしいですよ」
「まさか」
「浩介が言っていました。僕と同じふうに、あの絵を捉えている時点で、君は僕と同じようなタイプなのだそうです。……なるほど、僕も、そう思いました」
降沢は逡巡の欠片もない、真っ直ぐな声音で告白した。
「君は……どこか僕と似ている。……だから、僕は放っておけないんでしょうね」
「降沢さん……」
(悲しいな……)
それは、美聖の欲しい言葉ではない。
…………ただの同情だ。
好意に限りなく近い同情ではないか。
美聖はツンと痛くなってきた鼻を手で覆った。
頑丈に蓋を閉めて封印していた気持ちが溢れ出しそうだった。
降沢が心配そうに
「…………泣いているんですか?」
問いかけてくる。
そのまま逃げてしまいたい。
長い間、抱えていたものが重くて、今の美聖は何を言いだすか、分からないから……。
けれど、彼の漆黒の瞳が美聖を捉えて離さなかった。
「………………降沢さん、私は、姉を見殺しにしたんです」
「えっ…………」
「ずっと姉が嫁いでから、無関心を貫き続けました。あれだけ幼い頃、母親代わりに私を可愛がってくれた人なのに……。いや、だからこそ、結婚をして遠くに行ってしまったあの人を私はずっと憎んでいました」
姉の死にも、葬儀にも涙の一つも出なかったのに、どうしてだろう。涙が止まらない。
勝手に一人で感情的になっている。
自覚はあったものの、美聖はおかしくなっていた。
「……姉は一年ほど前、自ら死を選んだんです。栄養状態の行き届かなくなっていた……円だけを部屋に置き去りにして、ビルの屋上から身を投げました。私は……何も知りませんでした。何も知らずに、ただ長い間、ずっと姉を妬んでいただけだったんです」
「一ノ清さん……」
「私は、降沢さんとは違います。どちらかというと、浅ましい人間です。同情で優しくするにも値しない人間なんです」
美聖は、夜の静寂を叩き壊すがごとく、早口で喋り切った。
当然、幻滅されるだろう。
もしくは、かける言葉をなくして、彼はこの場を去っていくはずだ。
―――そう予想したのに……。
降沢は、美聖の想像の斜め上以上を行っていた。
「えっ?」
視界が……唐突に暗転した。
投げ出していた美聖の左手は、強引に引っ張られ……。
後ろに倒された……と思ったら、ベンチに座る降沢の腕の中に、美聖は見事に収まっていた。
「ふ、降沢さんっ!?」
「すいません。ここまで勢いよく倒れてくれるとは思ってもいなかったのですが……」
「わ、分かりました。故意でないのは……。とりあえず、手を放していただいても良いですか?」
「嫌です」
…………そうだった。降沢は、そういう人だ。
離せと言えば、逆にきつく抱きしめてくるようなタイプなのだ。
すでに当初の事故的なぎこちなさはなく、美聖の背中に、降沢の腕が交差していた。
…………抱擁。
多分、そうだ。
これは、そういう名称に値する行為ではあるだろう。
「……で? それが、一体何なのでしょうか? 一ノ清さん」
「はっ?」
「それが一体、何だと言うのでしょうか? お姉さまのことは、大変悲しいことだと思います。君がずっと後悔していることも、それが根底にあって、円くんを引き取ることにしたのも、容易に想像がつきます。…………でも、それを聞いたところで、何が変わるというわけでもない。誰だって後ろめたいものは、持っているものでしょう。君だって、僕だって……」
降沢という人物は、本当によく分からない。
これほどまでに、熱弁を振るう彼を、美聖は出会ってから半年以上の間で一度も見たことがなかった。
「降沢さん……。酔っていませんか?」
「君の方が酔っているのでは?」
ああ、そうだ。完全に酩酊している。
それは、お酒のせいではない。多分、降沢の体温だ。
「僕は優しい人間ではありません。言ったじゃないですか。主に衝動と欲望に忠実に生きているって。僕はここで君を手放したくない……という、衝動で動いています」
「…………そんなことを……言われても」
「今ここで、簡単に手を放すつもりはありません。君にとっては、かえって辛いかもしれませんけど、それも含めて、僕は良い人間ではないんです」
向かい合うことが出来ずに、降沢の胸の中でじっと頭を下げている美聖にしびれを切らして、降沢は美聖の首筋に唇を寄せた。
美聖のぽろぽろ流れ続ける涙が、降沢のワイシャツに染みを作っている。
(そうか……。この人と私は)
お互いに踏み込めないけれど、離れがたい。
恋人にはなれないけど、寄り添っていたい。
過去も今も、うやむやにして、ぬるま湯に揺蕩っているような関係。
そういう関係になりつつあるのかもしれない。
降沢と美聖は……。
でも、そんな不健全な関係は、美聖には維持できない。
「…………だったら」
小さく震えながら、美聖は口を開いた。
「……けて下さい」
「えっ?」
「助けて……下さい」
駄目だ駄目だと、頭の中で警鐘が鳴っているのに、美聖は降沢のスーツの襟を掴んでしまった。
ここまで言わせたのは、降沢のせいだと言わんばかりに、強い力で降沢にぶら下がっている。
「…………いつも、お姉ちゃんがそこにいて、睨んでいるような気がするんです。幸せになろうとすれば、怒っているような気がするんです。お姉ちゃんは、どうして、あんなふうに死んでしまったのでしょうか。私は……だから、それが知りたくて、占い師になったんです」
「一ノ清さん……」
「…………教えてください。降沢さん」
………………姉(あの人)の最期のことを。
何処かで、映里が見ている。
美聖の頭の片隅には、それがある。
――結婚する気がない。
多分、降沢の言う通りなのだろう。
表面上は、結婚をしたいと言っている。彼氏が欲しいとも愚痴っている。
いつも自分の結婚運を気にしているし、幸せになりたいとぼやいている。
でも、実際はそんなこと出来ない。
自分が幸せになることが、この上なく、似合わないと感じる。
だから、降沢に告白する勇気も、彼の抱えているものを受け止める覚悟もできないのだ。
一生、今は駄目だと思って、老いていくのが美聖らしい人生なのだ。
でも、そんなことを、誰かに分かってもらおうなんて思ってもいなかった。
くだらない、些末な深層心理など、見るに値しないと、ずっと隠して、欺いて、眠らせてきた。
それなのに…………。
…………どうしてこの人は、美聖の見たくなかった自分を、揺り起こしてしまうのだろう。




