⑧
「…………降沢さん、今日は本当に本当に、申し訳ありませんでした!!」
夜の住宅街に響き渡らん大音声で、美聖は頭を下げた。
隣を歩いていた降沢は突然の謝罪に、かえって恐縮している。
「いや、だから、どうして君が謝るのです? 押しかけてきたのは、僕じゃないですか。こんな時間まで長居してしまって、女性に夜道を送らせるなんて、とんでもないですよ。僕は一人でも大丈夫なので、早々に帰って……」
「とんでもない!」
それこそ、そんな不義理なことをできるはずがないではないか……。
「見送りもなく帰すなんて、絶対に駄目です。それに、この辺りは落ち着いていて、治安はいいですから気にしないで下さい。大体、父がこんな時間まで降沢さんに絡んだのがいけないのです。もう……お詫びの仕様もありませんよ。私」
「でも、お父様にはかえって、色々頂いてしまいましたし……」
「いやいや、それも、含めて心の底から、申し訳ありません!」
美聖は、ひたすら平身平頭、謝罪しかない。
恥ずかしくて仕方ない。
毎日、アールグレイティばかりを飲んでいる降沢に、大吟醸の大瓶をプレゼントする人がいるだろうか……。
(降沢さんが、恐縮しつつも、貰ってくれたから良いものを……)
和食と洋食といったら、降沢は洋食なイメージだろう。従って、日本酒とワインといったら、ワインな人なのだ。
「えっ? どうしてです。こんなに高そうな一升瓶まで頂いてしまって。日本酒も、お寿司も久々に美味しかったですよ」
「……お寿司は、出前ですよ。……ていうか、全部、降沢さんの奢りじゃないですか」
「まあ、そうですけど、大人数で食卓囲むのも良いなって、改めて思いましたよ」
「もう何もかも、すいません……」
なにもかも、美聖の父がいけない。
職場の上司だと、ちゃんと告げたはずなのに、降沢を美聖の彼氏と邪推するような態度を取るからいけないのだ。
職業が画家と聞いて、謎の躊躇いをみせた分際で、夕食を奢ると降沢が財布の札束を見せた途端、急にフレンドリーになった父の姿を、美聖は絶対に忘れないだろう。
「いい、ご家族ですね」
降沢が夜空を仰ぎながら、ふわりと呟く。
…………そんなことはないと、とっさに否定しそうになった美聖だったが、トウコから聞いた複雑な降沢の家族関係を思い出して、言葉を飲みこんだ。
「あ…………ありがとうございます」
素直に礼を述べれば、降沢がふっと口元を緩ませた。
道行く人は、誰もいない。
二人だけの世界といったら、大げさだが、割とそれに近いところだ。
美聖の住んでいるマンションは、逗子の繁華街より少し離れた閑静な住宅街の中に、ぽつんと建っている。残念ながら、海とは逆方面なのでリゾート感の欠片もない。
車がほとんど通らない狭い路地ばかりがあって、人気がないばかりか、初めての人だと迷いやすい面倒な場所であった。
(降沢さん、よく迷わず住所だけで、あのマンションを探し当ててきたな……)
もはや、ひきこもりの自称は取っ払った方が良いのではないかと思うくらのアクティブな働きだ。
更に、美聖の父親と会っても、物怖じ一つせず、晩酌まで付き合うくらいの大物だということが発覚してしまっている。
(そういえば、お酒……)
ほんのりお酒の香りがするのは、降沢との距離が近いせいだろう。
たまに父に飲まされている美聖は慣れているが、降沢はどうなのだろう。
美聖が見る限り、結構、飲まされていたはずだが、足元がしっかりしているところを見ると、降沢はお酒が強いようだ。
(……緊張するなあ)
美聖の方が酔ってきたような気がした。
顔が赤いのは、きっと今頃、酔いが回ってきたせいだ……なんて。
(そう、思い込めたら、どんなに楽か……)
暗がりとはいえ、やはり、ちゃんと化粧をしてくれば良かったかもしれない。
「そんな困った顔をしないで下さい。一ノ清さん」
「えっ、そんな顔をしていますか? 私?」
「さっきから、ずっと眉間にしわを寄せていますよ」
「いえ、そんな困ってなんかないですよ。……むしろ」
「むしろ?」
緊張に凝り固まっているとは、さすがに自白できない。
美聖が言い淀むと、降沢はそれ以上は追求せず、暢気な調子で話を進めた。
「明日から、元気に出勤して下さいね」
「ええ、それは……もちろん……ですけど」
その言葉の方にこそ、美聖は困惑させられた。
「僕も、あの店で、いつもぼーっとしているだけで、使い物にならないと浩介から言われたので、君が気安く休めるくらいに、少しくらい接客技術を身に着けておきますからね。だから、そんなに弱気にならないでください」
「いやいや、降沢さんは、そんなことまで……しなくとも良いのでは」
この人は、また何をとんでもないことを口走っているのだろう。
「アルカナ」が開店して、五年。
彼は、あくまで「アルカナ」のオーナーで、店のことはトウコに任せているというスタンスで営業をしていたはずだ。
むしろ、彼がすべきことは、オーナーの裁量で、美聖を辞めさせることで、そのすぐ後に、新しいアルバイトを雇うことなのだ。
(それなのに、何で、この人は……)
いきいきとしているのだろう。
いつもと真逆だ。降沢が明るく振る舞って、美聖の方がそれを一歩下がってみているような感覚となっている。
「今日は、お父様からも、娘を頼むと一任されましたからね。少しは僕も社会的不適合者を改めていこうと思えたのです」
「はっ!? 何ですか。それ!? 聞いてませんよ」
「結構、大声で頼まれましたけどね」
「あの親父……」
美聖がいない隙に、酔っぱらった父は、とんでもないことを、降沢に吹き込んでいたようだ。
「降沢さん、それ絶対勘違いしていますから……ね」
「勘違い?」
「…………勘違いです。父と円の言っていることは、酔っ払いと子供の戯言ですから、お気になさらないで下さい」
「円くんの言っていることって、一ノ清さんが結婚できないというアレですか」
「そこに話を戻すんですか?」
「君が結婚願望があるというのが意外だったんですよ」
「意外ってどういう意味ですか?」
「いや、占い師なら自分が結婚するかしないか、分かるものなんじゃないかなって思ったので……。不安になっている君が不思議だったんですよ」
どうやら、皮肉ではなかったらしい。
降沢は、それが疑問だったようだ。
「…………まあ色々と、自分で鑑定しましたけどね。タロットはいつも微妙で、手相は結婚線が薄いといった感じです」
「でも、線はあるんですよね?」
「一応は……」
結婚線は、小指の下の線のことだ。
真ん中を二十五歳として、小指側が二十五最上、手首側が二十五歳以下を指し示す。
もっとも、これは西洋手相術の見方だ。
日本で鑑定するほとんどの占い師は、西洋手相術であり、流通している本も、西洋手相術が圧倒的である。
東洋手相は、美聖もよく知らない。
だが、まあ……今まで勉強中ながら、いろんな人の手相を見てきたが、結婚線はおおよそ、小指の下の線で良いのではないか……と思っていた。
先日、芽衣の手相も鑑定したが、やはり結婚の流年が今年を示していた。
線もしっかりしていたので、今のところ離婚はないと太鼓判を押してきたのだ。
「じゃあ、本当は、したくないだけかもしれませんね。本気で結婚願望があれば、君のような人は、絶対、結婚するんだと思いますよ」
「……さあ、どうなんでしょうね」
さすがに、その文句は言われ慣れている。
(多分、そういうことじゃないんだろうな……)
「私には、よくそれが分かりません。円も父も心配してくれていますけど、むしろ、私自身、自分の将来のことなんて、考えられない感じですよ。まして、結婚して誰かと人生を一緒に過ごすなんて……」
へらへらとわざとらしく笑った美聖は、この話題はおしまいとばかりに早足となった。
でも、相変わらずマイペースな降沢は空気を読もうとしない。
「…………同感です。僕も一ノ清さんと同じですよ。先のことなんて考えられません。第一、結婚線が薄いどころの話じゃなくて、僕、生命線すらないらしいですからね」
「………………本当に? 降沢さん、生命線がないんですか?」
美聖は、目の色を変えた。
そんな手相があることは知っていたが、そういう人を目の前にするのは、初めての経験だった。
「以前、浩介がないと言っていましたよ。……やっぱり、死ぬんですかね。僕は?」
「いやいや、ちゃんと降沢さんは、生きてますから……。でも、その手相はとっても珍しいです」
こんなに身近に手相の勉強に役立つ逸材がいたのに、今まで、気づかなかったなんて馬鹿だった。
……といっても、美聖が手相の勉強を始めたのは、最近のことなので、降沢の手を気にする前に、教本と睨めっこして、トウコの見解を聞いている部分が大きかったわけだが。
美聖は、肩掛けのポシェットの中を探った。
「そういえば、確か……」
「えっ? 一ノ清さん」
「ああ、あった。良かった。持って来ていました」
美聖は、小さなLEDのライトを取り出した。
量販店で購入したものだが、街灯が少ない夜道を一人で歩く時に、携帯するようにしているのだ。
「さっ、降沢さん、こっち来て下さい! 早く」
美聖は押しの強い商売人のように、路地から少し入った児童公園に降沢を引っ張って行った。
「ああ、はい。行きます。行きますから」
「そして、あのベンチに座って下さい」
勝手知ったる地元の公園だ。
無人のベンチがそこにあることは、織り込み済みだった。
美聖は降沢をそこに座らせると、両手を見せるように促した。
右手と左手で先天的な運命だとか、後天的な運命だとか、母方、父方など、様々な鑑定の仕方をする占い師は多いが、美聖が知っているのは、トウコに少しずつ教えてもらっている両手を総合的に見て鑑定する方法だ。
美聖は降沢の両手にライトを当てる。
「…………うわ! 本当だ。初めて見ましたよ。生命線のない人」
「そんなに、嬉しいことなんですかね?」
「そりゃあ、滅多にいませんからね。勉強になります。トウコさんも、どうして教えてくれなかったのかな」
美聖はくすくす笑いながら、占い師のスイッチを入れて、注意深く降沢の手を観察した。
タロットでは分からない降沢という人間も、手相には多少人間性が出ているようだ。
(なんだ。もっと早く見ていたら、良かった)
確かに、降沢の生命線は左手にはなかったが、右手には薄らとあった。
こういう場合は、やはり性格が両極端……ということになる。
画家としての降沢と、普段の降沢ではまったく感情の流れも違っているのだろう。
「でも、降沢さん。片手の生命線がないだけですし、運命線の勢いはありますから、心配することはないと思いますよ。健康線が出ているので、不摂生には注意ですけど」
「健康線?」
「生命線から小指方向に出ている線ですよ。健康な人には出てきません」
「はあ……。耳が痛いです」
「それに、結婚線ありますよ」
「…………へえ、本当に? 意外ですね」
「三十代前半……近いじゃないですか」
「近いですね。まさしく今じゃないですか?」
「親指の付け根が張っていますし、子宝も大丈夫です」
「…………はあ」
美聖は完全に芽衣を鑑定した時のような占い師モードになっていた。
「ああ、ちなみにお相手は、元気な人が良いですよね。降沢さんは、どうも思いつめる性格をしているので、それをフォローできるような逞しい人が宜しいかと思います」
「………………逞しい……人……ですか?」
「はい……。たとえば、頭脳線が緩やかにカーブしている人とか……」
「元気で、逞しい……人?」
ふと、降沢の視線が美聖とかち合った。
(あれ……?)
美聖は何かまずいことを、降沢に告げてしまったのだろうか。
じっと見つめられてしまい、頑丈に装着していた占い師の仮面は、あっけなく外れてしまっていた。
(ああ、私やらかしてしまったのね……)
夜の無人の公園に二人きりで、熱烈に語る内容ではなかった。
(結婚相手がどうのって、余計なお世話だし、なんか……まるで、今がチャンスだから、私はどうですかって、おススメしているみたいじゃないの?)
さすがに降沢の手を握っていることも出来なくなって、ぱっと放してしまった。
降沢は、黙って放れた自分の両手を眺めていた。
(ああ、そうよ。相手は降沢さんよ)
ちょっと、良いムードだと思ったとしても、彼のことだ。
明後日のことを考えている可能性だって、十分にある。
それを期待しよう。
それに……
(このままじゃ、駄目だから)
ここは、きちんと話しておいた方が良いのではないと、美聖は決意して、姿勢を正した。
「降沢さん……」
「はい、何ですか?」
降沢は何かを待っているかのように、美聖の言葉に耳を澄ましている。
彼の善意は嬉しいけれど、しかし、美聖はいつの日か「アルカナ」を辞めなければならない日が来るだろう。
このまま甘え続けることなんて、出来るはずがない。
――それを……。
美聖は今、口にしようとしていた。




