⑦
――まったくもって、子供というのは、分からない。
美聖は仕事を休んでいるくせして、自宅で疲れ果てていた。
円は、前日ぴんぴんしていたくせして、翌日には、怠いと言いだし、熱を計ったら38度を越えていて、気が付いたら、赤い湿疹が手足と背中に出来ていた。
水疱瘡ですね……一週間くらい安静にしておきましょう……と、お医者様から診察結果を告げられはしたものの、預ける場所など何処にもない。
父はこれ以上仕事を休めないので、美聖が休むことしたのだが、しかし七日間、仕事を休むのは辛かった。
(早く良くなってくれたら、良かったけど、きっかり一週間かかっちゃったものね)
こういう時、世の中の身寄りのないお母様はどうしているのだろうか……。
いや、まずそんなことよりも……。
(今月のお金、どうしようかな……)
収入が読めない電話占い師のお金とコンビニバイトだけでは足が出るのは確実だ。
住んでいるマンション関連のお金と光熱費は、父の口座から支払うことができるだろうが、円に関する学費や学童保育のお金は、美聖が負うところが大きい。
自分で申し出た手前、ちゃんと払いたいのだが……。
今月ばかりは、父に頼らざるを得ないかもしれない。
(きっと、快く……というより、心配して全額出してくれるのだろうけど……。何だか、格好悪いな)
寝入った円を、見守りながら、美聖はぼんやりと白い天井を見上げていた。
こうも休みが続いてしまうと、さすがに「アルカナ」も迷惑だろう。
トウコは気にすることはないと言ってくれた。
元々、自分一人でやっていた店だから、慣れていると笑ってくれた。
それでも、申し訳ないからと付け足した美聖に、最終的には、降沢が決めることだと告げてきた。
じゃあ、降沢は、どうするのだろう?
(なんか、分からなくなってきちゃったな……)
一週間、会っていないせいか、降沢のことが益々、分からなくなっている。
トウコの電話を、降沢に代わって欲しいと頼めばそれもできただろうが、会話が続かないのが目に見えていて、何となく嫌だった。
(丁度、良い機会じゃないの……)
降沢のことを思うと、胸をチクリと刺す甘い痛みだって、ずっと会わない期間が続けば、気のせいだったと、やり過ごすことが出来るはずだ。
もう、これ以上彼を振り回さないで済むのなら、気持ちの一つや二つ封じ込めることもできるのではないか。
簡単なことだ。
(いっそ、未練を断ち切るべく、占ってみたら?)
「…………て、駄目だった」
――そうだった。
悲しいことに、降沢を占っても、はっきり結果が出て来ないのだ。
何度となく「アルカナ」の空き時間や、自宅で占ってみたものの、まったくリーディングが出来なかった。
トウコも、降沢のことは分からないと、口にしていたような気がする。
たまにいるのだ。タロットカードを使っても、読めない人間が……。
そういう場合、大抵こちらのリーディングを惑わすほど、闇が深い人だったり、霊感がある人だったりする。
恋愛だったら、絶対に近寄らない方が良いとお客様に伝えるべき人物だ。
(……うーん、だけど、降沢さんって霊感はないんだよね?)
霊感がないからこそ、あれだけ禍々しい離れにこもっても平気なのだ。
(じゃあ、霊媒って何?)
降沢が口にしていた霊媒……。
それはよく話に聞くイタコとか、ユタとか、そういう類のものなのだろうか……。
確かに、降沢はたまに、視えているのではないかと、美聖が疑いたくなるほど、鋭い時もある。
―――もしも、彼が絵を描いたのなら……。
「お姉ちゃんの最期……分かるのかな?」
(いけないな……私)
時々、そんな益体もないことを考えている自分自身がいる。
美聖が姉の遺留品を提供したら、降沢はそれを描きたいと感じてくれるだろうか……。
降沢が絵を描いた時、その意味を辿れば、姉の最期のメッセージを受け取ることができるのではないか……。
「いやいや」
どうして、そんなことまでしてもらわなければならないのだろう。
(私も直視できない遺品を、降沢さんに?)
出来るはずがない。美聖はそうやって、いつも自分に言い聞かせている。
(絶対にしてはいけないことよ。それこそ、信用関係に関わることだわ)
適度に暇だから、いけないのだ。
だから、こんな些末なことで、真剣に葛藤してしまうのだ。
「さっ、夕飯の準備をしなきゃ」
恐ろしい想像をもみ消して、美聖は起き上がり、キッチンに急いだ。
今日は、父も残業をしないで帰ってくると話していたので、支度も早めにしておきたかったのだ。
居間の椅子に掛けていたエプロンを素早く身に着けて、冷蔵庫の中身を確認しようと再びキッチンに戻る。
…………その時、けたたましく、インターホンが鳴った。
「はいはい……」
きっと、宅急便だろうと、気安く、子機を取って応じた美聖は、そのまま石像と化した。
「…………えっ」
自分の耳を疑ってしまった。
玄関の先にいる来訪者が有り得ない名前を口にしている。
「降……沢さん……ですか?」
「はい、降沢です」
「本当に、降……沢さん?」
「ええ、降沢ですが?」
静かに念を押されて、美聖は狼狽えた。
「どうして、こんなところまで?」
「浩介から住所を聞いて、僕も直接行った方が早いかなって思ったので……」
――早い?
そんなはずはない。
北鎌倉から逗子だ。少なくとも「アルカナ」からだったら、一時間はかかっているはずである。
ひきこもりのくせに、フットワークが良すぎだろう。
「今、私は円が水疱瘡でお休みいただいているのですが……」
「もちろん、知っています。僕は小さい頃、水疱瘡の経験があるので、その点、大丈夫です」
「えーっと、何が……?」
つい、言葉に出してしまったのは、混乱がピークに達しているからだ。
伝染しないから、大丈夫なので、家にあがってもOKとか、そういうことが言いたいのだろうか……。
(――て、ここまで来てくれたのに、帰すなんて、むしろ酷い話だわ)
美聖は、慌てて訂正した。
「ちょっと、お待ちください。今、その……どうにかしますので」
「どうにか?」
「しばし、お待ちを……」
美聖は問答無用で、子機を置くと、居間に出ているものをすべて、和室の押し入れに叩き入れ、ハンディクリーナーでさっとフローリング床を綺麗にしてから、急いで自室でよそ行きのワンピースに着替えた。
化粧している時間はなさそうなので、最低限、眉毛を書いて、リップを塗ってから、玄関の前に立った。
深呼吸して、ドアノブに手を置くと、目を擦りながらパジャマ姿の円がとぼとぼと美聖の前にやって来た。
「なに、誰か来たの?」
「……そうよ。ちょっと、ママの職場の偉い人が来たのよ」
「ふーん」
「いい? 円は、お利口さんにしているのよ?」
「うん」
気前よく頷いてくれたが、かえってそれが怖い。
余計なことを言わないと良いのだが……。
(大体、降沢さんも、どうしてこんなところまで、来たのかな……?)
不安でいっぱいになりながら扉を開けると、スーツ姿の降沢が落ち着きなく立っていた。
七日の間、何度も脳裏に浮かび上がらせた人が、この場に普通にいる現実を美聖は、なかなか認めることが出来ずにいた。
でも、彼は幽霊ではない。遥々、美聖の家を目指して来たのだ。
「えっと……おっ、お久しぶりです。降沢さん」
「お久しぶりです。一ノ清さん」
降沢が引きつった笑顔で、ぎこちなく片手を挙げた。
もっさりした髪の毛を切って、ストライブ柄のスーツを颯爽と着こなしている降沢は何処からどう見ても、仕事のできるビジネスマンだ。
一見、愛想も良く見えるから、美聖が受ける衝撃は半端ない。
(もう、大丈夫と思ったんだけど……)
やはり、駄目だった。
会ってしまうと、くだらない恋心は簡単に再燃してしまうようだった。
「やっぱり、僕……迷惑でしたか?」
「とんでもないですよ。わざわざ、有難うございます」
「ねえ!! その白い箱は、何?」
「円っ!」
唐突に、円が口を挟んできたので、美聖はうろたえた。
「降沢さん、ごめんなさい。こら、円……。挨拶がまだでしょう?」
「一ノ清 円、八歳です!」
「ああ、君が……」
子供のめいいっぱいの声に、驚きながらも、降沢は円の目線までしゃがんで、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「円くんですね。僕は降沢 在季と言います。こうして会うのは、はじめまして……ですよね。こちらは、お見舞いのケーキです。あっさりしているから、病み上がりでもいけるのではないかと、浩介からですよ」
「俺にくれるの?」
「はい……。ママさんと食べて下さいね」
「わーい! ありがとうございます!」
降沢から白い箱を強奪した円がリビングに消えて行く。
美聖はその後ろ姿に溜息をこぼしながら、玄関前にスリッパを用意した。
「その……汚いところですけど、どうぞ上がっていってください」
「お言葉に甘えて……お邪魔します」
降沢は言われるがままに、スリッパを履いて室内に入って来た。
(なに、この有り得ない光景は……?)
3LDKの築20年のマンション。
オートロックもない、エレベーターもない、5階建てのおんぼろマンションの3階に、降沢が普通に存在していることが不思議で仕方なかった。
降沢はトウコよりは劣るが、美聖の父よりは背が高いので、一層狭い部屋が窮屈そうに見えてしまう。
「すいません。アルカナとは比較にならないところで、申し訳ないのですけど?」
「そうですか。そんなことはないと思いますけど? お子さんもいるのに、綺麗にされているなって、感心していますけど」
「はははっ。それは、どうもありがとうございます」
さすがに、不要な代物をすべて押入れに叩き入れたとは白状できなかった。
美聖は、うすら寒い笑いを浮かべながら、他の部屋にふらふら行かないように、降沢をリビングの真ん中のソファーまで、やや強引に連行した。
「降沢さん。美味しいかは分かりませんけど、我が家のアールグレイを淹れますね」
「嬉しいです。ありがどうございます」
「うおーっ! うまそう!」
円がすでにマイフォークを持って、トウコ特製のシフォンケーキを狙っていた。
「まだ食べちゃ駄目よ。みんなで分けるんだからね」
美聖は、やかんに火を掛けながら、キッチンの食器棚からお客様用のお皿を用意していた。
「円くん、元気そうですね?」
降沢が目を細めている。
いまいち何を考えているのか分からない人だが、子供嫌いではないようだ。
「はい。おかげさまで。一応、かさぶたが取れるまで、大事をとって、七日休ませて頂いたんです。明日からは出勤する予定でした」
「それなら、良かったです」
「降沢さんには、連絡ができずに申し訳ありませんでした」
「どうしてです? だって、僕は君の連絡先も知らなかったんですから、当然じゃないですか」
「そう仰って下さると……」
美聖がお皿を並べていると、降沢が上目遣いに言った。
「……で、今後それは困るので、君の連絡先を教えて頂けませんか? こういう時、連絡が取れないと、いけないでしょう」
「ええ、それはもちろん」
いつになく、積極的な降沢の言動の真意が分からないまま、美聖は携帯を取り出した。
「ああ、それと……欠勤するようだったら、僕の方に先に連絡いただけると嬉しいです。浩介から毎回聞かされるのは、苦々しいので……」
「はっ?」
(なぜ?)
降沢は美聖の欠勤自体には、特に何も感じていないようだが、トウコから休みを知らされることは、不愉快らしい。
「ええっと、はい。別に、それは構いませんが……」
「ねえ? この兄ちゃん、みっちゃんママのことが好きなんじゃないの?」
早速シフォンケーキにかぶりついた円がけらけら笑いながら、とんでもないことを口にした。
「こら、円っ! 失礼でしょ?」
何てことを口走るのだ。
「すいません。降沢さん。あっ、お湯が沸いたみたいなので、紅茶持ってきますから……」
美聖は一人忙しく、沸騰した薬缶の方にすっ飛んで行った。
しかし、リビングで降沢と円を二人にさせてはいけなかったのだ。
降沢は、のんびりとした口調であっさりと告げた。
「もちろん、僕は一ノ清さんのことは、大好きですよ。とても、明るいし、頼りになるし、優しいし、お店にいないと寂しいと思える人です」
「………………っ」
顔が真っ赤になりすぎて、美聖の方が沸騰してしまいそうだった。
(違うから……)
美聖は震える手で、ポットにお湯を流し込んでいた。
降沢は男女の意味でそれを言ったわけではない。この場で、嫌いだなんて、言えるはずもないだろう。
「じゃあ、結婚するの?」
「けっこん……?」
「円! いい加減にしなさい!」
さすがに、黙っていられなかった。
キッチンから、声を荒げて、円の発言を止めようとするが、子供の勢いは止まらなかった。
「みっちゃんママ、結婚できないんだって。いつも、そう言ってるから」
「そんなことないと思います……けど?」
「もう駄目なんだって、彼氏もできないって、占っても良い結果がでないって言ってた」
「うーん、でも、占い師が自分のことを、占うと鑑定結果にブレが出るそうですよ」
「降沢さんっ!」
律儀に答えなくてもいいのに……。
むしろ、一刻も早く話題を変えて欲しいのに、降沢はこういう時に限って、紳士的に対応するのだ。
「君は、一ノ清さんのことが心配なんですね……」
降沢は、静かに円の頭を撫でた。へへへと、円が照れた笑い声を上げた。
「俺のママは、たまに言っていたよ。あの子も結婚したら、変わるだろうに……って」
「…………そう……なの?」
初めて耳にした。
いや、何より円とは、映里の話をあまりしていなかったのだ。
(だって、円は…………)
――と、そこで、突然玄関の扉が自動に開いた。
ただいま……と声を張り上げて、帰って来たのは、仕事帰りの美聖の父だった。




