⑤
「残念ねえ……。美聖ちゃん、今日もお休みですって」
大きな顔を携帯画面に押し付けて、誰かと親しげに話していたと思ったら、美聖だったらしい。
降沢は、あの日から読むことを放棄して飾りだけになってしまった本を、机の上に無造作に投げ出した。
(何で、この巨大なオカマは……その電話を僕に代わってくれないのだろう?)
美聖に対し、円という姉の子供の存在を問い質した日から、丸七日が経過している。
その翌日から、美聖はその円が病気になったと言って「アルカナ」をずっと休んでいた。
毎朝、浩介には電話が来るのだが、降沢にはない。
無理もなかった。
降沢は、彼女の連絡先さえまともに知らなかったのだ。
いつも、浩介を間に入れたやりとりばかりしているから、こんな目に遭うのだろう。
連絡先くらい、さりげなく聞いておけば良かったのだと、今更になって後悔している。
「浩介。その……姉のお子さんが水疱瘡というのは、本当の話なのでしょうか?」
「知らないわよ。本人がそう言っているんだから、そうなんでしょう」
「もしかして、僕が……」
「しつこく、訊いたからって?」
素直に頷くことも出来ずに、降沢はそっぽを向いた。
自分がこんなにも子供っぽかったなんて、新たな発見だった。
「…………そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。私にも美聖ちゃんの気持ちは分からないわ。貴方の気持ちを美聖ちゃんが分からないように……ね」
「僕の気持ち……ですか?」
浩介が何を言いたいのか、降沢にはよく分からない。
そのことを、分かってはいけないような気がするのに、知りたくなるのは、どうしてなのか……。
「僕は、ここまで、分かりやすい人間はいないのではないかと、最近とみに思うのですが?」
「いやー。いくらなんでも、初恋をからかわれたことに気分を害して、女慣れしているのを装うなんて、いくら腕利きの占い師でも分からないと思うけれど?」
「だから……。そこまで、僕はモテないわけじゃないと、主張したかったのです。ちょっと、一ノ清さんを、からかってみようかと……」
「根暗はこれだから嫌よね。気になる子にモテなきゃ、ただの宝の持ち腐れだわ」
昔から、いちいち癇に障るが、もっともな言葉ばかり繰り出してくるオカマだ。
「…………浩介、最初に、貴方が僕に言っていた「彼女は地に足がついている」というのは、子供を養育しているという意味だったのですか?」
「そっ、彼女は円くんを子育て中だから、絶対に自分から堕ちていくことはない。……でも、取り巻く環境は貴方と一緒。不安定ってことよ」
「…………不安定……ですか」
窓の外から、乾いた風が吹き込んできた。
もう、すっかり秋めいている。
春夏秋と、彼女と共にいて、彼女が自分に関心を寄せてくれることを当然としていた。
多分、一ノ清美聖は自分に興味がある。
それに、気づいていたからこそ、降沢は彼女に甘えていたのだろう。
「以前、貴方からもそれとなくは聞いていましたけど、一ノ清さん、僕に身内を亡くした話をされていました。それは、お姉さまのことだったんですね?」
「丁度、一年になるのかしら……ね。お姉さまが亡くなられてから、仕事を辞めて、フリーターになって……。本格的に、占い師になろうとしたんだって、私にそう話してくれたわ」
「仕事を掛け持ちしながら、子供を育てる決意をするなんて、よほど、仲の良い姉妹だったのでしょうか?」
「さあ……。でも、もし、そうだったら、貴方の絵を見た時、もっと違う反応をしたと思うのだけど?」
「…………違う反応?」
「貴方と一緒よ。彼女もまた拗れてしまっているのよ。一筋縄ではいかない。私はそう思うわね。だから、とても似ているのよ」
「なるほど……。似ているからこそ、互いに詮索をしない間柄で、今までやってこれた……と」
半年間、良好な関係を築くことができたのは、そのせいだと浩介は言っているようだ。
確かに、最上や芽衣の存在を経て、沙夜子の存在が明らかにならなければ、降沢は過去のことを美聖に話すことはなかっただろう。
そして、美聖も、あの朝、降沢が円のことを目撃をしなければ、家族のことなど話すこともなかった。
それでも、降沢のもやもやは晴れない。
(いつでも、どうとでもなる準備は出来ていたのに……)
今日も禍々しく輝いている「慕情」から目を逸らし、各テーブルに活けられている一輪の白いコスモスに注目した。
美聖がいたのなら、絶対に花の感想があって、降沢に意見を求めただろう。
彼女がたった七日、仕事に来ないだけで、我を失ってしまいそうな自分は、生温かい檻の中で、少しずつ、おかしくなってしまったのかもしれない。
……だから、嫌だったのだ。
「さて、今日もはりきって開店よ……」
浩介は、目が見えにくいハンデを感じさせない、きびきびとした動きで、テーブルをさっと拭き終わると、厨房の方に移動を始めた。
そうして、捨て台詞のように、重要な言葉を降沢に投下していったのだった。
「それでねえ、美聖ちゃん、これ以上休みが長引いたら、申し訳ないから、他にアルバイトの人を探しておいて欲しいって言っていたわ。確かに、私一人で店を回すのは楽じゃないけど……お客様にもご迷惑をおかけしているしね」
一瞬、頭が真っ白になった。
(何を?)
そんな重要なことを、今さらっと、浩介は言うのだろう。
「ちょっと、待って下さい。浩介。僕だって、少しは手伝っているじゃないですか?」
「うーんと、悪いけど、在季じゃねえ……。会計は出来ても、愛想がないから、オーダーは取れないしね。安い給金で使い叩ける助っ人も、今は奈良の山奥でしょう」
「その助っ人の存在は忘れて下さい。単純に、適当に笑ってればいいと言うのなら、僕だってそのうち、オーダーくらい取れますよ……て、そうじゃなくて」
降沢は頭を振った。
そうじゃない。大切なのは……。
「それで、貴方は、一ノ清さんに、どう答えたんですか?」
「そりゃあ、もちろん、オーナーは降沢だからって、投げておいたわよ」
「やっぱり……ですか。そうするだろうと思ってはいましたけど」
降沢はげんなりしつつも、弱々しい手で浩介を引き留めにかかった。
「な、何よ?」
そっと手を出す。
まるで、子供が駄賃をねだるような動作で、屈辱的だったが、今はなりふり構ってはいられないかった。
「浩介、貴方の携帯を貸して下さい。一ノ清さんには、僕から電話をします」
「えー。何でまた急に?」
「七日待ちました。もういいでしょう?」
「待ったふうには、見えなかったけど。……さーて、どうしようかしら」
花柄シャツのサングラス大男が愛らしく、腕組みをしている。
出来れば、直視したくない光景だったが、これも我慢するしかない。
「どうしようもこうしようも、僕が頭を下げて頼んでいますよね」
「頭は下げてないわよね。むしろ、威嚇されている感じ? 在季は昔から、たまに熱くなるのよね。それで、美聖ちゃんに電話をして、どうするわけ? 僕は好き勝手やるけど、君にはアルバイトとしていて欲しいって都合の良いことを言うつもり?」
「…………そうですね。それしかありません」
「そんな悪びれずに、堂々と宣言されても……ね」
浩介は呆れ果てているが、降沢自身にも、自分の気持ちがよく分からないのだから、どうしようもないのだ。
「何しろ、僕には僕の人生がいまだに分かりませんからね。どう転がるのか、自分でも謎なんです。でも、何ともないことで、彼女が責任を感じて辞めるのは、……とっても、嫌なんです。大体、そういうふうに仕向けたのは貴方じゃないですか?」
「まあ、分かってて、はまってるなら世話はないわね。……で? 思ったんだけど、貴方は彼女が子育てしていることに関しては、何とも思わないのかしら?」
「それは、大変だと思いますけど。……それが何なんです。どうかしましたか?」
「うーんと。そうね……それを、言葉を尽くして、美聖ちゃんに直接伝えてあげたらいいんじゃないかしら?」
「ええ。そうしろと言うのならそうしますけど。とりあえず、さっさと携帯貸してください」
「急かすわよね?」
「ついでに、一ノ清さんの連絡先を僕の携帯に提供してください」
「いやいや、しれっとストーカー発言をされても……ね。番号くらい、本人に訊いて頂戴よ」
「浩介……」
「やっぱり、携帯は貸してやらないわ」
野太い声で、きっぱりと断言されて、降沢は腹を立てた。
(この男、どうしてくれようか……)
真剣に携帯を盗む方法を考えたところで、浩介が走り書きのメモ用紙を降沢に渡して来た。
「どうせなら、直接、会いに行けば良いんじゃないの?」




