②
「……絵……ですか?」
美聖はどうして良いか分からず、降沢の方を見ようとして、我慢した。
大体、降沢本人が出張って来ないのだ。
あそこに画家本人がいますと、教えて良いものなのか分からなくなっていた。
「確かに、ここは降沢のアトリエではありますが、あくまで喫茶店です。そういったご依頼は、事務所を通してお願い致します」
にっこりと笑顔を作りつつ、揺るぎない口調で、トウコが美聖の前に出てきた。
やはり、降沢がここにいることは、言わない方が良いらしい。
「ふーん。門前払いってわけか? 俺、知っているんだぜ。降沢はここで絵のモデルを探してるって……」
「なっ!?」
驚愕したのは、美聖の方だった。
(そんなこと、知らないわよ)
一度もそんな話を聞いたことがない。
降沢在季の名前で、ググってみたことはあるが、幾つかのコンクールに過去入選経験があることと、作品数が少ないという情報のみだった。
(いつも、やる気なさそうに、フラフラしていたのは、そういうわけだったのか………………なんて)
……いきなり、信じられるはずもない。
「あら、嫌だ。私、貴方のことテレビで見たことがあるわ」
そんな美聖のパニックぶりを知ってか、知らずか、トウコがさりげなく、男性に注目を戻してきた。
「確か……貴方、バンドのボーカルの最上……」
「えええっ!?」
「美聖ちゃん?」
そこにまた大仰に反応した美聖に、トウコの方がぎょっとした。
「嘘でしょ? トウコさん!?」
皆まで聞かなくても、その名前は知っている。
(まさか……。だって、有り得ないわ!)
顔を真っ赤にして、興奮する美聖に、観念したのか、男性は溜息を吐き捨てた。
「最上 初……だよ」
「うわっ! まさか本物!?」
「化物でも見たように、騒ぐなよ。ミーハー」
口はとてつもなく、悪い。
けれど、美聖は生まれて初めて、芸能人を間近で見たのだ。黄色い声をあげたくもなるだろう。
しかも、こんなに間近で……だ。
(顔、小さい……)
テレビで見るより、一層小さく、整った目鼻立ちをしていた。
最上 初にファンではないくせして、美聖はドキドキしてしまった。
「最上初さん……! こんなところでお会いできるなんて、とても嬉しいです」
「本当か? その割に、さっきはおもいっきり、胡散臭い顔で睨んでなかったか?」
「とんでもない! ちょっと、このお店の客層と違ったイメージだったので、びっくりしただけで……。まさか、ウィザードのボーカルが山奥のこんなところまでいらっしゃるなんて……」
「ウィザード?」
降沢があからさまに、分からないといった面持ちで、奥の席で首を傾げている。
美聖はぽつりと呟かれた言葉を聞き逃さずに、彼の隣に行って、小声で降沢の耳元に答えを吹き込んだ。
「バンドの名前ですよ。ウィザード。今、若い子に絶大な人気なんですよ」
「ふーん。そうなんですか」
降沢は本当に知らないようだった。
北鎌倉とて、電気は通っているだろうに、テレビを見ないのだろうか……。
(この人、仙人か何か?)
美聖も馬鹿だった。
最初に、気づいておけば良かったのだ。
腕の赤いバラはロックバンド『ウィザード』のトレードマークである。
売れているどころの騒ぎではない。
「ウィザード」は、音楽不況と言われている中で、珍しいミリオンを達成できるくらい人気のあるバンドなのだ。
(どうして、ここに一人で来たわけ?)
有名人がお忍びで一人で来るほど「アルカナ」は有名な場所でもない。
とりあえず、サインをもらったほうが良いのではないかと、またしても、ミーハー心に火がついたものの、しかし、最上の不機嫌そうな仏頂面を目の当たりにして、すぐに気持ちは萎えてしまった。
最上は手前の椅子を引っ張って勝手に座ると足を組んで、テーブルに肘をついている。
「あー、だからさ、あんたたちじゃ話にならないんだよ。降沢先生、呼んできてくれない? 金は積むから、もっと売れるように、俺を描いて欲しいんだわ。まさか、そこのオカマのおっさんが降沢っていうわけでもないだろう?」
「トウコさん?」
美聖は狼狽しながら、黙り込んで最上と対峙しているトウコを見上げた。
彼は何かを思案しているらしい。
……が、短気な最上は、机をばんと叩いた。
「降沢が絵を描くと幸せになるんだろ? だから、俺は、わざわざ鎌倉くんだりまでやって来たんだ。何処にいるんだ? 画家センセイは?」
「最上さん。……あの」
(ここまで来ると、降沢さんが出てこないと、収まらないんじゃ……)
美聖は、トウコの袖を引っ張った。
トウコがそれを受けて、何ごとか口を開きかけた時……。
「煩い人ですね。会わせるも何も、僕は最初からここにいましたよ……。最上初さん」
言葉をさえぎるようにして、降沢が美聖の隣にやって来た。
腕を組んで直立している姿は、いつもの猫背で頼りなさそうな青年とは思えなかったが、しかし最上にとっては、降沢が思った以上に、若かったことと、くたびれた格好に驚愕したらしい。
目を丸くして、口をぽかんと開けていた。
「…………あんたが、降沢?」
「ええ。貴方がご所望の降沢 在季です」
「嘘だろ? てっきり、ここの学生バイトかなんかだと……」
一応、最上も降沢の存在自体には、気づいていたようだ。
美聖にも、最上の気持ちが嫌になるくらい、よく分かる。
画家らしくない……。
その一言につきた。
「学生……ですか? 僕、これでも三十は越えていますけどね?」
「えっ!? そうなんですか?」
(絶対、私より年下だと思っていたのに……)
どんな……アンチエイジングをしているのだ。
降沢は知らなかったのかと言わんばかりに、きょとんとしていた。
「あれ? 一ノ清さんは、二十代でしたっけ?」
「今年で、二十六歳です。トウコさんから聞いてなかったんですか?」
「まったく聞いてませんでしたが。へえ……。お若く見えますね……」
「誉められている気が……全然しません」
ショックは抜けないものの、それより何より、バイトを始めてから、この人と普通に会話が成立している現実が信じられなかった。
「ふーん。降沢 在季ね。なるほど。思ったより若いんだな。俺はてっきり、よぼよぼのジジイか、バアさんかって、思っていたからさ」
「一応、調べてもらえれば僕の年齢くらいは、出てきそうですけどね。とりあえず、期待に応えられずに、申し訳なかったと謝っておきましょうか。……ああ、それと一つ貴方に言っておきたい」
今日の降沢は饒舌で、一気にまくし立てた。
「貴方の言う、幸せになれる絵なんて、そんな絵が本当に存在しているのなら、僕が描いて欲しいくらいですけどね。常識的に考えて、そんなものが存在してるはずないじゃないですか? ロックミュージシャンたる貴方がどうしてそんな世迷言を信じたのですか?」
「おいおい、随分と挑戦的だな……。画家って、みんな、こういうキャラなのか。教えてよ。お姉さん?」
「さあ……。私にもよく分からないというか」
最上が降沢を睨みつけつつ、美聖に訊ねてくる。
そんなこと、美聖が知るはずがないではないか……。
(この人が何を考えてるのか、こっちが知りたいわよ……)
心と裏腹に、曖昧な微笑を浮かべていると、降沢が美聖に目を向けた。
「何ですか 。降沢さん?」
「あっそうだ! 僕、いいことを思いついたんですけど、最上さんは、僕に絵を描いて欲しいということでしたよね?」
「あんた、俺の話聞いていたのか?」
「……つまり、そういうことなのだから」
降沢は一人で総括すると、人差し指を美聖に向けた。
「だったら、彼女に占いをしてもらいましょう。その結果次第で、僕も考えるってことでどうですか?」
「…………はっ?」
よろけそうになった美聖の身体を、トウコが支えた。
どうして、ここで美聖の名前を出してくるのか……。
彼は明らかに降沢の「絵」が目的で、占いを求めて来たわけではないのだ。
興味のないものは徹底して信じない性格が、表情に滲み出ている。
「でも、先生……。最上さんは、私に鑑定して欲しいなんて一言も」
「急に先生扱いしないでくださいよ。一ノ清さん。第一、それで言うと、君も浩介も占い師の先生なわけで、ここにいる全員がみんな先生になってしまいます。先生と呼ぶのは、混乱するので、お互いにやめましょうよ」
「はあ……」
そんな先生のような口調で、諭すように言われても困る。
今、ここで話題を反らすこと自体、反則ではないのか……。
最上が肩を揺らして、皮肉いっぱいに笑っていた。
「なるほどねえ……。よく分からないけど、占いを試金石にしようって言うのか?」
「まあ、そういうことです」
「そういうことって……降沢さん、私にはよく分からないんですけど?」
「まあまあ、これも占い修行だと思って、引き受けてくれませんか? 僕もこの人の内心が知りたいところなんですよ」
温和な口調だが、その実、有無をも言わさない感じがひしひしと伝わってくる。
(嘘……でしょ?)
そもそも、降沢は占いを信用しているのだろうか?
それすら、よく分からないのに……。
美聖は、唐突に何の関係のない話の渦中に置かれた気がして、冷や汗をかいた。
「そこまで言うのなら、やって貰おうか。でも、あんた……全然占い師っぽくなくて、むしろ怪しいけど、占いなんて出来るの?」
「……一応、占い師ですからね」
美聖は唇を尖らせながら、答えた。
自分でも、役不足は認識している。
占い道具と、参考本で鞄をぱんぱんにして、出勤はしているものの、装いは事務職をしていた頃と変わらないオフィスカジュアルだ。
お気に入りの花柄のスカートと、紺色のカットソー。
無難ではあったが、占い師としての奇抜さは足りず、おまけに、お店のエプロンをしているので、どう見たところで、占い師のイメージから程遠かった。
「やっぱり、私より、トウコさんの方が適任なんじゃないでしょうか?」
「何を言っているのよ。メインは美聖ちゃんなんだから……」
「どうしても?」
「降沢在季のご指名でしょう?」
「……分かりました」
それが仕事なのだから、美聖は堂々と胸を張らなければならないのだ。
美聖は円卓の下から、道具の入った袋を取り出し、中から愛用しているタロットカードを取り出した。
七十八枚のライダーウェイト版タロット。
二十世紀初頭アーサー・エドワード・ウェイトが製作したタロットカードの通称である。
タロットカードを使う占い師にとって、王道といっても過言ではないカードは、市販の教本も多く出回っている。
美聖の占いは、自己流だ。
占い学校に行ってコネを作るか、師匠に弟子入りして場所を提供してもらわないと、対面鑑定の仕事に就くのは大変だと言われることもあるので、自分の感覚一つで仕事にすることが出来た美聖は、本当に運が良いのだろう。
しかも、……若者に大人気のバンドの花形ボーカルを鑑定することが出来るなんて、よく考えたら、とてつもなく奇跡的なことなのではないか。
(ともかく……せっかくのチャンスだもの。頑張ろう……)
美聖は緊張しつつも、円卓の方に最上を誘導した。
他に客もいないので、カーテンは引かずに、美聖の向かい側の席を勧める。
「こちらにどうぞ……」
「はいはい」
最上は降沢に一瞥をくれつつ、大人しく椅子に収まった。
「何を占えば良いんでしょうか?」
「当然、今後の仕事について……だろう」
「……分かりました」
美聖は、タロットカードを円卓の上でシャッフルした。
展開方法は、ケルト十字法。
これも、どの入門書にも書いてある初歩的な占い方だ。
机の上に十一枚のカードを置く。
十字架を円で取り囲むような展開方法は、ケルト人が信仰していた円と、キリスト教を表す十字架を融合させたような形だ。
小アルカナカードの逆位置ばかりが目立ち、最終結果が『愚者』という大アルカナカードの逆位置だった。
愚者のカードは、若い男性が陽気に笑いながら、崖に向かって歩いて行く構図を描いた絵札だ。
正位置は『冒険』や『挑戦』を意味しているが、逆位置は確か……。
『抜け殻』『無謀』『誤った道』『無謀』。
――つまり、今後の仕事は、上手くいかない。
しかし、それでは、ただの直訳だ。
(……ううん)
そうじゃない。違うのだ。
根本的な流れが見えない。
一枚のカードの意味をリーディングするのではない。全体で見るものだということを、美聖は知っていた。
――カードが、ぼやけている。
それは、独特の表現だと、トウコに言われたことがあるが、美聖にはたまにあることだった。
(多分、この人はそんなことを知りたい訳ではないんだろうな)
だから、答えが曖昧になる。
占術の中で、もっとも人の気持ちを知るのに適していると言われているのがタロットカードだ。
鑑定者の意識は、嫌と言うほど伝わってくるものだたった。
「……で、どういう意味?」
最上がカードではなく、美聖を凝視している。
目が合った。
さすが芸能人だ。睫が長い。小さな整った顔をしている。
しかし、疲れて、やつれているようにも感じた。
(……て、私、何やっているのかしら?)
見惚れて、どうするのだ。
「ああ、すいません。実は……」
美聖は当たり障りなく、結果を伝えようとした……が、ふと最上が頬杖をついている左手の骸骨の指輪が気になった。
初めて会った時から、目にはつく程、大きな銀製の指輪であったが、なぜか今、とてつもなく気になった。
黒いもやと、光……『ユリの絵』に美聖が見たものと、同じような影が立ち上っているような気がする。
余り触れてはいけない物のような気がした。
(まあ、骸骨だし……ね)
イメージの問題もあるだろう。
それでも、気になっていると、痺れを切らした最上が声を荒げた。
「なに? 悪い結果が出て、言えないとでも?」
「…………そういうわけでは」
「美聖ちゃん」
ふわっと、トウコが美聖の肩に手を乗せた。
「もういいわ」
「トウコさん?」
「絵のモデルの件は、お断りさせて頂きます」
「…………なっ?」
降沢は一言も発していない。
――なのに、トウコの言葉は、きっぱりとしていて、誰も口を挟む隙を与えなかったのだ。