④
「やっぱり、もう少し店の手前で降ろしてもらえば良かった」
朝の出勤時、濃霧で電車が遅れていたので、父が「アルカナ」まで送ってくれたことは有難かった。
しかし、坂の下だったのが、まずかった。
遅刻しそうだったから、やむを得ない処置だったとはいえ……。
よりにもよって、ひきこもりの降沢がその場面を目撃するなんて、あり得ない偶然が重なってしまったのだ。
まあ、いずれ発覚することは、分かっていたのだが……。
それでも…………。
「…………疲れたなあ」
あの後、結局残業代を払うとか、いらないとか押し問答になりながら、事の次第を降沢に説明した美聖だ。
あれだけ微塵も、美聖に対して関心を抱かなかったくせして、子供の存在を確認した途端、降沢が美聖に説明を求めてきたのは、一体どういう了見なのだろう。
(子供がいると、不合格だったのかしら?)
もし、そういう含みを持っているとしたら、どうしようもない。
少し予定には早くて、中途半端な感じになるが、解雇してもらうしかなさそうだ。
「何だよ。みっちゃんママは、昨日休みだったくせして、もう疲れたのか?」
洗い物を終えたところを見計らったように、小さな暴れん坊こと円が美聖に抱きついて来た。
「もう……円!」
一ノ清 円は今年八歳になる姉・映里の子供である。
昨年、映里が亡くなったことで、身寄りがなくなってしまった円を、父が養子として引き取ることにした。
正直、実子にするより、戸籍をそのままにしておいた方が、手厚い社会保障を受けることが出来たようだが、父が自分の子供にすると言い張ってきかなかった。
その決断を、美聖は責められなかった。
姉の死に関しては、美聖自身、後悔と懺悔……様々な感情が拭えないからだ。
円の養育について、協力したいと申し出たのは、美聖の方だ。
(あの時の選択を、私は後悔したことはない……)
けれど……。
今日……説明している時に、降沢の顔を直視できなかったのは辛かった。
やましいことなど、何一つないはずなのに、後ろめたい気持ちを抱いてしまうのは、どうしてなのだろう。
(出来たら、降沢さんには知られたくなかった……なんて、都合の良い話だよね)
美聖はそっと目をつむって、強力に抱きついている円の手を引き離した。
「ねえ、円。もう、子供は寝る時間でしょう。ママは明日も早いんだから、とっとと寝ましょう……ね?」
「だって、祖父ちゃんだけだと、退屈だったんだもん」
「いいじゃない。今日は一日、祖父ちゃんが休みだったんだから……」
さすがに疲れて眠ってしまった父だが、今日は会社を休んでくれて、助かった。
そうでないと、美聖もアルバイトを休むか、学童保育に頼むか、対策に頭を悩ませただろう。
「ほらほら早く……。布団に入って」
美聖は追いたてるように、パジャマ姿の円を奥の子供部屋へと追いやっていった。
「じゃあさ、一つだけ、占ってよ」
「占い? あんたには、まだ早いわよ」
「じゃあ、寝ないからね」
「………………分かったわよ。もう」
甘いと思いながらも、渋々、自室から通常より一回り小さなサイズのタロットカードを持って来た美聖は、子供部屋の電気をつけて、丸テーブルの上で、カードのシャッフルを始めた。
「なんか、面白そう……」
円が目を光らせている。
タロットが面白い……とは、先行きが恐ろしい子供である。
けれど、昔……。
美聖は映里と一緒に、こんなふうに小さな丸机でタロット占いをしたことがあった。
それを、映里の子供と同じことをするなんて、人生とは一体何が起こるか分からないものだ。
「…………では、何を占いますか? お客様?」
美聖は占い師役になりきって、円に尋ねた。
「みっちゃんママの結婚について」
「それは、ちょっと……ね。占っても悲しくなるだけだから……さ」
美聖は机の上に倒れかかりそうになって、何とか耐えた。
占うまでもない。
……というか、そんな内容だったら、しょっちゅう自分で占ってはいる。
おおよそ、悲しい結果だから、忘れるようにしているのだ。
「どうして? みっちやんママの年だと、結婚していてもおかしくないって聞いたんだけど。何で、みっちゃんママは結婚できないの?」
「……さあ……どうしてだろうね。性格の問題なんじゃないかな。みっちゃんママは性格がひねくれているからね」
「じゃあ、ひねくれた奴と結婚すればいいじゃん?」
「そんな単純な話ではなくてです……ね」
苦笑いで答えながらも、美聖は内心冷や汗をかいていた
(…………ひねくれた奴って、どんな奴でしょうね?)
ふと、降沢の顔が浮かび上がって、嫌になる。
あんな謎だらけの男の何処が良いのか……。
大体、子供と父親込みのアラサーなんて、条件だけですぐ弾かれる物件だ。
(降沢さんだって、選ぶ権利は十分にあるわよ)
そんなふうに、降沢ありきで考えている自分が一番嫌だった。
「ほら、他のこと、占ってあげるからさ。円のことで……何か私に占って欲しいことない?」
「じゃあ、俺の気持ちを当ててよ」
「…………気持ちか。難しそうだけど、頑張ってみようか」
美聖は時計回りに、タロットカードをシャッフルし、三つに山を分けてから、一つにした。それから、カードを扇状にさっと並べて、円に一枚引くようにうながした。
「ワンカードで見てみようか。一枚カードを選んで。……円」
「分かった」
円はふざけながら、手を抜き差ししていたが、やがて、一枚のカードをそっと引いた。
「これは」
美聖はその絵柄を見た途端、とっさに顔を蒼くした。
タロットカード大アルカナの十二番。
「…………吊るされた男」
「何の意味?」
円が無邪気に身を乗り出して尋ねてくる。
「えーっと、何だろうね。もっと頑張れって意味かな」
「俺の思っていることと違うんだけど……」
「円が、みっちゃんママに思っていることなんじゃないかな?」
「…………そうかもしれない」
そこは、否定しないらしい。
美聖はそそくさとカードを片づけると、敷いていた布団をぱんぱんと叩いて、円を呼んだ。
「さっ、占ったんだから、もう寝よう……ね? しばらく、添い寝してあげるから」
「えーっ」
「寝ないと、明日学校に行けないよ。ママも眠いんだ」
美聖は宥めすかしながら、円を布団に導いた。
だけど、眠くはなかった。
――吊るされた男。
意味は、困難を乗り越える。忍耐、努力などの意味を指す。
さほど、悪い意味のように思われないカードではあるが、占い師によっては、一番厄介なカードと見なす場合もある。
美聖が敏感に反応したのは、吊るされた男のイメージにある。
キリストの磔を連想させるものとして「自己犠牲」という意味を持っているが、しかし、一方で、絞首台の罪人という図像のイメージも持っているのだ。
(異端の処刑……か)
心配になった。
降沢にもトウコにも話していない。
美聖の姉の映里は、自ら命を絶った……とされている。
あの時の姉の経済状況や精神状態からして、美聖もそうだろうと思ってはいる。
……だが、遺書はない。
本当のところは、誰にも分からないのだ。




