②
一ノ清 美聖が「アルカナ」で働き始めてから、そろそろ半年になろうとしていた。
今まで、特段変化のなかった日常に、新しい風が吹き込み、降沢は少しだけ自分が変わったことを、意識せざるを得なかった。
浩介の思い通りになるのは、釈然としないが、朝の九時半を過ぎると、自然と美聖が来るのを待ちわびてしまうのは、もはや、降沢の習性と化しているのだから、どうしようもない。
そう……まるで、時間に忠実な犬のような振る舞いだろう。
自分でも滑稽で、嗤えてしまう。
今日も……。
「遅い……ですね」
あまり内容が頭に入らないままに、読んでいた本をテーブルに置いて、厨房の方に目を遣る。
浩介が堪えていた笑いを一気に爆発させながら、こちらにやって来た。
「別に遅刻しているわけじゃないでしょう。始業時間まで、十五分以上はあるわよ」
「……そう……ですけど」
彼女と会うのは、一日ぶりだ。
昨日は定休日だったので、顔を見ていない。
(たった一日……なのにな……)
そうして、再び読むつもりもない本に目を落とす降沢の顔を、浩介がにやにやしながら覗きこんできた。
「ねえ? もしかして、髪を切ったことを誉めて欲しいとか、そんな子供のような神経で、美聖ちゃんのことを、待ち詫びているとか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
言下に否定するものの、まあ、そうかもしれない。
昨日、定休日に鎌倉まで出て、しっかり髪を切ってきたのは、事実なのだ。
今まで、適当に長くなったところを自分で切り揃えたりしていたものの、床屋まで出掛けたのは、大学生以来の快挙だった。
美聖を含め、散々いろんな人に切った方が良いと言われ続け、ついに観念した……というより、単に自分で切っても上手くいかず、重苦しくなってきただけなのだが、それでも、あれだけ口うるさく、髪を切ろと言い張っていた美聖がどんな反応を見せるのか、興味がないと言えば、嘘だった。
「あー……。一ノ清さんって、他にも色々とアルバイトをされているようですけど、身体は大丈夫なのでしょうか?」
降沢は話題を逸らすつもりで、浩介に尋ねた。
今まで人を雇うことに反対だった降沢は、あえて、美聖の個人情報を浩介に訊かないようにしていたのだが、やはり、美聖の口から折に触れて他のアルバイトをしている話を聞いていると、何かと心配になってきてしまう。
「ああ、まあ、仕方ないわよね。今はちょっと正社員で働くのは難しいみたいだし。シフト制のバイトの方が、都合も良いって言ってたわ」
「うちの給金を、もう少し上げてみたら?」
「確かに、昇給は考えてはいるけれど、いきなり倍増していたら、本人が恐縮するでしょう。かえって、困らせしまうじゃない?」
「……そういうものなのですか」
降沢はぼうっとしながら、答えた。
自分の感覚は、世間とずれているのだろうか……。
学生時代にアルバイトをした経験はあるが、確かに、社会に出てから、まともに働いたことはなかった。
「それに……。そんなことをして、困るのは貴方なんじゃないの?」
鋭い浩介の突っ込みに、降沢は苦笑いで応じることしかできない。
「…………まあ、そうかもしれません」
ぬるま湯みたいな関係で、丁度いいと思っていた。
彼女を降沢の因縁に深入りさせるつもりなんてないのだから、素知らぬ顔を貫いているのが優しさではないか……などと。
けれど、とっくの昔に、その前提を自分が壊してしまっていることに、降沢は目を背けているだけなのかもしれなかった。
「ちょっと、見てきましょうか」
それ以上考えたくなくて、勢いよく席から立ち上がった。
「あら、珍しい」
浩介が手を動かしつつも、くすりと肩を竦めて笑っている。
そのいかにも訳知り顔を、普段だったら手厳しく追求していたところだが、今日はそのつもりもなかった。
早く、美聖に会いたい。
その気持ち一つで、外に飛び出して行った降沢は……。
「……すごい」
一面の白い世界に閉口した。
霧が濃い。
起きた時から、霧が発生していたことには気づいていたが、ここまで濃いとは予想していなかった。
これは、どうしようもない。
美聖がやって来る時間が遅くなるのも頷けるような気がした。
(もしかしたら、電車が遅れているのかもしれませんね……)
視界不良の中を、降沢は年季の入ったサンダルですたすたと行く。
「アルカナ」の前は、なだらかな坂道となっているが、降沢には小さい頃から慣れた道だった。
そろそろ本格的な秋が来る前に、靴を購入しておいた方が良いのではないか。
ぼんやりと、そんなことを考えている。
(また、一ノ清さんに怒られそうだな……)
そもそも、着古したシャツとジーンズ自体が、美聖には不評なのだ。
…………かといって、あの店で一人スーツ姿なのもおかしい。
使い勝手の良い普段着を買えとしつこく言うくらいなのだから、一緒に買いに行って欲しいと頼めば、引き受けてくれるだろうか?
割と真剣に、美聖を買い物に誘い出す文句を練っていた降沢は、我に戻って赤面した。
(まったく、いい歳をして情けない……)
坂を下った通り沿いで、待っていたら、美聖と会えるような気がしていたので、そこを目指して下りて行った。
だが、その時だった。
この辺りでは珍しい、乗用車が坂道の下に乗りつけてきた。
乗用車と判別できたのは、ヘッドライトが皓々としているせいだ。
「じゃあ、行って来るね!」
後部座席から、勢いよく飛び出してきたのは、降沢が待ちかねていた美聖だ。
膝丈のフレアースカートを揺らしながら、すっかり伸びた髪を風に踊らせ、大きな鞄を肩掛けに背負った。
どうやら、家の人が送り届けてくれたようだ。
「…………あっ」
…………一ノ清さん!
降沢は手を上げて、美聖に近づこうとしたものの……。
次の言葉が降沢の足を、その場に縫いとめた。
「いってらっしゃい。みっちゃんママ!」
同じく後部座席にいたらしい、小学生くらいの男の子が窓から顔を出して、美聖に向かって、手を振っている。
「……えっ?」
降沢の頭の中は大いに混乱した。
(………………ママ?)
聞き違いではなかった。子供は真っ直ぐ美聖を見ていた。
ママは間違いなく、美聖に向けられた言葉だ。
それに、美聖はその子供を慈愛に満ちた微笑みで見送っているではないか。
「じゃあ、ママ。行って来るから。今日は、ちゃんとおじいちゃんの言うことを、聞いて良い子にしていのよ!」
「はーい」
そのやりとりを残して、車は行ってしまった。
(今のは、一体……?)
せっかく美聖に近づくことが出来るのに、降沢は何も言えずに、先に店に戻ってしまった。
頭の整理がつかない。
(浩介は知っていたんだな……)
別に、美聖は降沢に隠していたわけではないだろう。
彼女の個人情報について、あえて興味のないふりを貫いていたのは、降沢の方なのだ。
(そういう……ことか)
美聖がいくつもバイトを掛け持ちしているのも、正社員になろうという意欲がなかったのも……仕事が終わると直帰したがったのも、占い師になろうと勉強していたのも、すべて……。
(彼女は既婚者……なのか? それとも今は、シングルマザーとか?)
降沢は結論付けることが出来ず、店の定位置に戻っていた。
変に勘の冴えている浩介が、おもいっきり含みのある表情で、降沢に訊ねてくる。
「あれ? 美聖ちゃんには、会えなかったの?」
「あっ、いや……それが」
降沢が歯切れ悪くしていると、美聖が勢いよく店にやって来た。
「おはようございます!」
「おはよう。美聖ちゃん」
浩介が淀みなく返す。
降沢だけが二人のテンションについていけずにいた。
(元気な挨拶だな……)
ここまで威勢が良いということは、先ほど、降沢の存在に気づかなかったのだろう。
(だったら、良かった……)
いや、良かったのか?
大混乱中の降沢を発見した美聖は、ぱあっと瞳を輝かせて、一直線に駆け寄ってきた。
「あれ!? 降沢さん、髪を切ったんですね! どうしちゃったんですか!? すごく良いじゃないですか!」
「あ……ありがとうございます」
つい数分前まで、気にしていた彼女の反応も、今は違うことに気を取られて、他に言葉が続かない。
「どうしたんです?」
美聖がエプロンを着つけながら、訝しげに眉をひそめている。
出来ることなら、問い詰めてしまいたい。
けど、拒絶されるかもしれない。
それほど、この件に関しては、デリケートな問題のように思えてならなかった。
「あっ、美聖ちゃん。ちょっと、手伝ってくれない?」
「はい!」
美聖は弾かれたように、浩介のもとに走って行った。
降沢は再び本を開いてみたが、益々文字が読めなくなり、ぺージは昨日から止まったままとなってしまった。
(あの時は、男慣れしていないなんて……僕も酷いことを言ったものだな)
以前、降沢は初恋の話を美聖としていた際、恥ずかしくなって、ついおかしな対応を取ってしまったことがあった。
その後の美聖の反応も分かりやすい程、暴走していて、絶対に彼女には、男がいないと思いこんでいたのだ。
あの少年の父親は、どんな人なのか?
彼女が一度でも、選んだ男性がいるのなら……。
……なんて。
(……そんなこと、考えるのはしんどいな)
程なく、美聖が淹れてくれたアールグレイティーを見下ろしながら、降沢は小さな溜息を零したのだった。




