⑨
◆◆◆
『アルカナ』の定休日に、美聖は久々に横浜まで来ていた。
響子の学校帰りに合わせて、彼女と待ち合せをすることになっていたからだ。
こちらの都合で勝手にバレッタを借りたのだ。郵送で返すと美聖は告げたのだが、響子は逆に会った方が早いとメールで告げてきた。
当然、遠い場所に呼び出されたら、断るつもりだったが、彼女の学校は横浜だということで、美聖の戸惑いも解消されて、今に至っている。
まあ、確かに、郵送より、直接届けに行った方が近いだろう。
電車で三十分以内の距離なのだから……。
――しかし……だ。
予想外だったのは、降沢の参加だった。
当初、リフレッシュも兼ねて、美聖は横浜に行く予定にしていたのだが、それを降沢に話したところ、なぜか急に彼も一緒に行きたいと言い出してしまったのだ。
(引きこもりが好物の降沢さんが横浜に行きたいって……?)
彼がまともに歩くことが出来るのか、切符を買うことは出来るのか。
いや、そんなことより……。
(これって、どういうことなんだろう?)
断じて、デートではない。
それは、美聖自身、十分に分かっている。
けれど、気持ち化粧を濃いめにして、お気に入りのふんわりした袖のブラウスと、ミモレ丈の清楚なスカートをチョイスしたのは、少しだけ浮かれた気持ちがあったからかもしれない。
(だって、元町だよ。男の人と二人で来るなんて、初めてだよ!)
それに、待ち合わせ場所がデートスポットで有名な元町の喫茶店なのである。
この時点で、恋愛経験の貧弱な美聖の心は、大いに揺れていた。
相手がたとえ空気の読めない降沢だったしても、ときめくのは仕方ないことではないのか……。
そういうことで、当日を迎える頃には、美聖は考え過ぎですっかり疲れきってしまっていた。
「どうしたんです。一ノ清さん」
降沢は涼しい顔をしている。
何てことはなさそうだ。
腹立たしいくらいに、彼はいつも通りである。
よく見ればお肌も艶々だし、昨夜はよく眠れたことだろう。
「別に、何でもないですよ……」
「一ノ清さん、何だか機嫌が悪そうですね?」
「違いますよ。ただ複雑な気持ちでいるだけですから」
「はっ?」
自分ばかりが振り回されて、癪な気持ちもあったが、何より今は距離が近いのだと、叫び出したい気持ちをぐっと堪えていた。
降沢が美聖の隣に座っている。
気持ちが落ち着かない、この非日常的なムードは喫茶店の雰囲気も大いに影響していた。
そこは、いまどき珍しい昭和を漂わせるレトロ喫茶だった。
『アルカナ』とは違う意味で、モダンな店内で、茶っぽいガラスで仕切られた空間は、独特の空気を漂わせていた。
ソファーの色は焦げ茶色で、水の入ったカップも茶色だ。
クーラーの埃臭さに、どことなく懐かしさを覚えるものの、決して古臭く感じないのは、所々に置かれている手入れの行き届いた観葉植物と、客層のおかげだろう。
若者が多く、しかも、カップルが大多数だ。
平日の昼間から、何をしているのかと突っ込みたくなるが、逆に言えば、降沢と美聖もそういう関係に見えなくもない……かもしれない。
そのむず痒い空間に、早い時間から入店していた美聖と降沢は、声が外に漏れないよう奥の席を希望して座っている。
ぎこちないムードだ。
……それに。
降沢の普段と違う、しっかりした格好もまずかった。
「あのー一つ聞きたいのですが、降沢さん。今日に限って、どうしてスーツなんですか?」
「ああ。だって、一ノ清さんが普段着で来るなって、怒っていたじゃないですか? もしかして、僕、変でしたか?」
「変じゃない……ですけど。きっと適当なシャツ一枚で来ると思っていたので……」
「僕……スーツとシャツ以外、服を持っていないんですよね」
「…………なんか、買った方が良いんじゃないですか?」
お金に、不自由しているわけでもなさそうなのに……。
証拠に、今日の降沢が身に着けているスーツは、有名な海外ブランドの代物だ。
いつものよれよれのシャツとチノパン姿に慣れている美聖には、ノーネクタイとはいえ、きっちりとした格好をしている降沢の姿は直視できないほどの魅力を放っていた。
あとは長い前髪を切ってしまったのなら、完璧だろう。
さらさらの髪と、小さな顔と、整った鼻梁に、すらりとした手足。
(イケメンよね……。実体は、ニート画家だけど)
普段から、そういうふうにちゃんとしていたのなら、ファンクラブでも出来るのではないか……。
しかし、同時に降沢がそういうことに無頓着であることを、美聖はよく知っている。
外見でどう見られるのか、そういうことに関して、この人はあまり興味がなさそうだった。
しょせん、絵を描くこと以外、彼にとっては、どうでもいいことなのだ。
(この人、そこまでして……どうして私について来たんだろう?)
美聖に格好を指定されてまで、ほぼひきこもり状態の降沢がここまで足を運ぶ理由が不明だ。
描き上げた絵に関しても、美聖が窓口になると申し出たにも関わらず、一緒に行くの一点張りだったのだ。
「もしかして……ロリコン……とか?」
「あのー、一ノ清さんの中で、僕のイメージって一体どうなっているんでしょうか?」
「あっ……」
「まったく、いつも僕に聞こえないと思って、毒舌している時がありますけど、みんな、ちゃんと聞こえていますからね」
……ああ、何だ。
聞こえていたらしい。
だったら、黙っていてくれれば良いのに……。
(また今日は、えらく饒舌じゃない?)
…………いや、違う。
正確には、先日離れでヒマワリの素描を美聖が見学した日から、降沢は一層、美聖と喋るようになった気がする。
「元々は、君のお客さんに、僕が無理言って借りてしまったんですから……。それに、君と同じく彼女のこと……見届けたいと言う気持ちはあるんですよね」
――見届けたい……というのは、美聖と降沢とでは、意味が違うのではないか?
過去の自分を振り返りたいという意味も込められているような気がした。
『あいつなりに、何か思うところがあるんじゃない』
そんなことを、昨日話していたのは、トウコである。
遠い昔の降沢のことなど、まったく想像がつかないが、降沢の絵として、この世に遺してもらえた従姉のことは、正直なところ、とても羨ましかった。
(もやもやした気持ちの出処なんて、知りたくもないのだけど……)
降沢は注文していたアールグレイティーを一口含むと、窓の外の景色に目を向けた。
美聖は、そんな降沢の横顔を見守りながら、アイスコーヒーに口をつけた。
「降沢さんが言っていたヒマワリの花言葉……。崇拝と憧れ以外に何があるんですか?」
タロット占いをしている美聖にとって『ヒマワリ』の花は、タロットカード大アルカナの十九番目のカード『太陽』のイメージだった。
美聖が使用しているウェイト・ライダー版タロットには、中心に描かれた太陽の下に、ヒマワリの花が咲き誇っている。
ギリシア神話において『太陽を崇拝する花』として登場するヒマワリに、マイナスな意味合いはない。
栄光や成功を示唆する力強いカードだ。
もしも、何か意味があって、先生が響子にヒマワリの髪留めをプレゼントしたのなら、それは『明るい君にいつも癒されている』とか『貴方だけを見つめている』とか、そういったことを伝えたかったはずだ。
「……だったら、なぜ、美聖さんの占い結果で、先生の気持ちは曖昧だったんでしょうね」
「響子ちゃんの気持ちの方も正直、リーディングしにくかったんですけどね……」
「存外、彼女今日来たら、元気になっているかもしれませんよ」
「いくら何でも、それは……」
「やっぱり、恋とは違うんじゃないですか?」
「また、それですか?」
降沢は、そこに拘っているようだ。
…………そして。
降沢の予想通り、時間よりだいぶ遅れてやってきた響子は、先日の号泣が嘘のように、溌剌としていた。
「美聖先生、遅れてしまって、すいません。…………それと、こないだは、ありがとうございました」
息を切らしつつも、満面の笑みで、ぺこりと頭を下げた響子に、むしろ美聖の方が言葉を失った。
本当に彼女は、先日の少女と同一人物なのかというくらい、印象がまるで違う。
「なんか、その元気になった……みたいだけど?」
「はい。別に元気になったってわけじゃないけれど、あの人のことを想うことをやめたんです。振り回されているばかりで、意味がないじゃないですか。時間の無駄ですよね」
「そう……」
そんなことはない。
恋している時間に、無駄はないだろう。
だけど、ここであえて彼女に反論するつもりはなかった。
元気になったのなら、それでいいではないか。
「そのバレッタ、画家先生に渡して良かったと思います。おかげで先生のこと、あまり考えずに済んだし、楽になったような気がするんです。その画家先生の言う通り、変化が起きたのかもしれません」
「僕、占い師じゃないんですけど、その人の持ち物を描きたいと思った時、その後の持ち主さんの人生が大いに変わることがあったりするんですよ」
「へえ……。そうなんですか。なるほど。今の画家さんの格好だったら、信じられるかもしれません。いつもスーツ姿でいいんじゃないですか?」
「君まで、そんなことを言うんですか……」
「だから、そう言っているじゃないですか」
美聖が同意すると、降沢は一層肩身を狭くしてうつむいた。
どっと笑いが起こる。
それは、先日の響子からは考えられない程、劇的な進歩だった。
「じゃあ響子ちゃん。一応、バレッタ返しておくけど……。先生のこと、本当にもういいの?」
「ええ、もういいんです。だって、私、三日前に、近くの男子校の男の子から、告られたんで」
「えっ……えっ?」
「付き合おうかと思って……」
「はっ?」
運ばれてきたクリームメロンソーダ―を、ストローで混ぜながら響子が笑った。
若干、顔が赤く見えたのは、照れているからだ。
本気の証だろう。
美聖は彼女の激しい感情の流れについていけない。
「なんか、彼……。ずっと通学のバスが一緒だったらしくて、私のことを気にかけてくれていたみたいなんですよね。結構好みのタイプだし、優しそうだし、好きになれそうなんです。今日は時間ないから、無理だけど、今度、美聖先生に占ってもらおうかな。彼のこと」
「うん……。まあ、それはいいけど。えーっと……」
若い子の考え方は謎だ。
歳を取ったと実感はしたくないけれど、十代の感覚が美聖には読み取れないのも事実だ。
彼女と同じ年の頃、美聖は響子ほど成長していなかった。
(……そう簡単に、誰かと付き合えるのかしら?)
特に、真面目で一途っぽい響子が寂しいからとか、ただの当てつけで次の男性に目移りするはずがない。
その点は、占い師として、見抜いていたはずだ。
いきなりの展開についていけない美聖が目を丸くしていることに気づいたのだろう。響子は穏やかに話した。
「私……美聖先生にみてもらってから、色々と考えたんです。でも、段々、先生の……彼のことをどう想っていたのか、分からなくなってきちゃったんです。すごく大人な感じがして、ミステリアスなところがあったけれど、今考えると、ただの優柔不断な人だったのかなって。美聖先生も、先生は私のことを好きは好きだけど、複雑な心理だって言っていたじゃないですか?」
「そうね。言ったわね……」
彼女の好きとは少し種類が違うという話だった。
(……でもね)
彼の好きは、響子の好きとは異なるけれど、でも『好き』ではあったはずだ。
そう考えてみると、はるかに響子より先生の好きの方が重いような気がしてくる。
「だけど、響子ちゃん。毎日先生と顔合わせているんでしょう? 辛くはないの?」
「あと少しのことですから。大丈夫です。あんまり話もしないし、会わなければ……」
「……そっか」
「じゃあ、絵もいらないですか……」
降沢がスケッチブックに描いた素描を彼女に見せた。
夏の日差しに恋焦がれるように、上を向いた大輪のヒマワリの絵。
それには、バレッタから着想したとは思えないほど、郷愁を誘う風景画となっていた。
下の方には小さく降沢のサインが入っている。
響子はその絵を目の当たりにしてから、間髪入れずに答えた。
「……私、その絵、欲しいです。おいくらですか?」
「えっ?」
素早い反応だけではなく、購入するつもり満々のところが更に美聖と降沢を驚かせた。
「買うんですか?」
「はいっ!」
降沢と美聖が顔を見合わせている間に、響子はピンク色の長財布を取り出していた。
「すいません。今、ちょっと手持ちがなくて……お財布の中に三千円しかないんですけど。とりあえず、これでいいですか? 画家さんの絵だから、もっと高いと思うんですけど、後でちゃんと金額分払うよう頑張りますので」
「えっ、いや……響子ちゃん」
「そんなに仰々しくならなくても。別に欲しいのなら、タダで良いですよ。無理言ったのは、僕なんでいすから。最初からそのつもりだったんです」
「そんなの、駄目ですよ」
響子は身を乗り出して、降沢を睨んだ。
「画家さんの絵をタダではもらえません」
「いいじゃない。くれると言っているんだから、有難く受け取っておけば。そんなに律儀だと、いつか、あくどい奴に騙されちゃうわよ」
美聖が笑いながら指摘するものの、響子は有無をも言わさない勢いで、三千円をテーブルの上に置くと、すぐさま鞄の中に財布を戻してしまった。
「三千円は出しますので、美聖先生には、飲み物代だけ、よろしくお願いします」
「響子ちゃん?」
毅然とした物言いに、美聖は彼女の内心をおもんぱかった。
彼女もまた何かを秘めたのではないか……と。
(タロット持って来れば良かったな)
今日は、ただ響子と会うだけだと聞いていたのでカードを持ってこなかった。
タロットカードを使えば、今度こそ響子と先生の想いが視えるかもしれないのに……。
「さっ! 今日は、これから家でピアノのレッスンがあるんです。帰らなきゃ……」
「先生と、放課後にレッスンすることはやめたんですね?」
降沢が淡々と問うと、響子も事務的に答えた。
「ええ。音大狙ってみようと思って……。今まで趣味の延長みたいにピアノをやっていたんですけど、本気で頑張ってみようと思います」
「…………そうですか」
降沢は間延びした声で、小さくうなずくと、彼女が置いていった三千円を手に取り、微笑んだ。
「分かりました。この三千円は有難く頂きます。そういうことで、この絵はこの瞬間から、君のものです。どうぞ、お好きに。持って行って下さい」
そうして、スケッチブックの一枚を切り取ると、革鞄から取り出したA4サイズの封筒に入れて、響子に手渡した。
「嬉しいです。ありがとうございます」
恭しく受け取った響子は、置きっぱなしだったバレッタをポケットの中に入れてから、降沢の絵を鞄の中に丁重に仕舞い込んだ。
「じゃあ、美聖先生、降沢先生。私は、これで失礼します!」
「あっ、響子ちゃん」
「はい?」
美聖は呼びとめたものの……。
振り返った響子の凛然とした笑みに、息を呑んだ。
「また「アルカナ」に遊びに来てね……」
「もちろん!」
そう言い残して、颯爽と踵を返す。
彼女の高く結った髪を束ねているのは、赤色のリボンだ。
やはり、リボンの方が年相応で似合っている。
そうして、響子は一礼すると、太陽のような輝きを放って、陽炎の立ち込める外界に飛び出して行った。




