⑥
「私……降沢さんが分かりません」
閉店後の店内で、美聖はバレッタをじっと観察している降沢に、呆然と声をかけた。
降沢の肩書は『画家』だったはずだ。
しかも、気に入ったモデル=モチーフ(いわくありげなもの)以外、滅多に絵を描かないと公言していたはずだ。
前回の最上の件は別として、バレッタなんぞを描きたいと女子高生に申し入れたのには、美聖でなくとも仰天してしまうことだろう。
「確か、モチーフになる素材が安全であるかどうかの判断をゆだねるとか、何とか言われたような気がしたのですが……」
「ああ、もちろん、そうですよ。君は占い師でもあり、僕の絵のモチーフの危険度を察知してくれる貴重な人です」
間髪入れず、胡散臭い笑顔で模範回答されると、美聖の気持ちは一気に萎えた。
「……まあ、いいんですけどね。何も感じないっていうことは、悪いものではない……という判断で良いのなら、降沢さんが何を描こうが、ぜんぜん私はどうでも良いのですけど」
――だけど、やっぱり『バレッタ』というのが、納得できない。
(よりにもよって、バレッタよ。……バレッタ)
ヒマワリの柄は珍しいかもしれないし、独特の紋様のように見えて、煌びやかで可愛いのは確かだが、近くのデパートに行けば、どんなに高くても数千円前後で購入できる代物だ。
それを描きたいと懇願する画家もどうなのだろう。
ある種の変態と捉えられても仕方ないのではないか……。
机の上で、女性のバレッタを上から横から、じろじろと観察している降沢が、どうしようもなく痛い。
「うーん、僕にも、今回ばかりは、よく分からないんですよねえ」
「…………はっ?」
「君が何も感じないというものを、描きたい理由が僕にも分からないのです。でも、あの時、心からこのヒマワリを描きたいと思ってしまったのだから、仕方ないのです」
「つまり、今回のことは、ただの直感で……衝動だと?」
「はい。僕は、主に衝動と欲望に忠実に生きていますから」
どうしたって草食系に見えない男の口から『欲望』なんて言葉が出てきたので、美聖は目を丸くしてしまった。
「何か?」
「いや……。益々、分からないなって思いまして」
「うふふ。美聖ちゃんは分からなくて、当然だけど、在季はとっくに分かっているんじゃないの?」
「えっ?」
「ちなみに、私には、すぐに分かったわよ」
「トウコさん?」
トウコがエプロンで手を拭いながら、定位置に座っている降沢の前にやって来た。
洗い物を終えて、仕事が終了したのだろう。海の男らしい外見と、お似合いの缶ビールを握りしめている。
「自分の胸に手を当てて聞いてみたら? 本当は、分かっているくせに……ね」
「高校生の髪留めを描きたくなった理由……ですか?」
「簡単でしょ?」
トウコは降沢の背後に飾ってある『慕情』を顎で示した。
そのユリの絵は、降沢の作品である。
降沢は、今までにない程、険しい表情で黙り込んでしまった。
「もしかして、トウコさん、あの絵と今回のことと関係があるのですか?」
「多分……ね。じゃなきゃ、いくらアイツでも女子高生に話しかける勇気はないでしょうよ」
二人で内緒話をしている姿を、降沢が機嫌悪そうに睨んでいる。
「何よ。わたし達の仲に、嫉妬しているの?」
「……やっぱり、僕には分かりませんね」
「懇切丁寧に、そのバレッタを描きたくなった理由を、私に語って欲しいってこと?」
「違いますよ。浩介」
「えっ?」
違う……ということは、その理由は分かった……ということだろうか?
むしろ、その件について、ものすごく知りたい……美聖なのだが、降沢が口にしたことは、まったく別のことだった。
「あの子は、本当に先生のことが好きなのでしょうか?」
「……はっ?」
美聖は首を傾げる。
「だって、先生のことを想って、彼女は泣いていましたよ?」
「高校生だから、ある程度大人でしょうけどね。でも、自分の前に、共通の目指すものを持っていて、年上で優しくて何でも知ってそうな人がいたとしたら、その人を特別に想わない人はいないでしょう……」
「それが……恋愛感情って言うんじゃないんですか?」
美聖があっけらかんと返すと、降沢はそっと目を横に逸らした。
「…………そういうものなのでしょうか」
「降沢さん……。もしかして、その恋愛経験とか……そういうのが……あの?」
どきどきと、心音が高鳴る。
いくら、なんでも三十路過ぎの男性に恋愛経験の一つもないはずがないのだが、それでも、美聖の心は、自分でも分からないくらいに動揺していた。
「ああ」
降沢は、自身の頭を撫でながら、にっこりと微笑んだ。
「高校の時の自分を思い出していたんですよ。僕はどちらかというと、そういう恋バナとかをする同級生たちを冷ややかに見ているいけ好かない子供だったので……」
「それは……本当に、いけ好かない子供ですね」
思ったままに言葉を返すと、降沢は肩を揺らして笑った。
「……ですよね。僕もそう思います」
くしゃりと目尻に皺を寄せて、笑う。
明け透けな笑い声に、美聖は単純に嬉しくなった。
「ほら……ね?」
いつの間にか、缶ビールを飲み干していたトウコがやんわりと言い放った。
「在季は、彼女の気持ちと、あの頃の自分の気持ちを確かめたいと思ったのでしょう? 今日の女の子が余りに自分に似ていたから……」
「……浩介?」
「あの子、相当……ピアノ上手いんじゃないかしらね?」
「トウコさん、どういう意味なんですか?」
「沙夜子先輩は、高校の美術の先生よ。在季の絵の才能を最初に見出したのは、先輩だったの」
「浩介。…………一ノ清さんに、話したのですか?」
「別にいいじゃない。美聖ちゃんだって、今回みたいに、巻き込まれたあげく、何も知らないままじゃ、かわいそうでしょう?」
「いい歳したおっさんが、子供の頃の話を持ち出してくるなんて、気味悪くないですか?」
呆れたように、溜息を吐く。
「一ノ清さん、君のお客様に対して、申し訳ないことをしてしまいましたが、本当に、今回は、ただの僕の気まぐれなんて、あんまり気にしないで下さい。……恥ずかしいですから」
語尾の『恥ずかしい』の一言に、美聖はどきりとする。
(この人、分かっていて、やっているんじゃ……)
そう問いたくなるほどに、全身で悶えたくなった。
「じゃあ、僕はこれから制作モードに入るんで。一ノ清さんも、暗くなってきましたし、早めに帰って下さいね」
「えっ……でも」
「それじゃあ」
降沢は、そそくさと、トウコと美聖の間を抜けて店を後にしてしまった。
どことなく、突き放すような言葉に、美聖は呆然と後ろ姿を見送ってしまう。
背後のトウコが例によって、豪快に笑っていた。
「美聖ちゃんは、本当に可愛いわよね。そんなに分かりやすいと、私、ちょっと心配になっちゃうわ」
「トウコさん……。降沢さんは、従姉さんのことを思い出していたんでしょうか?」
「でしょうね。本人は、まだ認めたくないだろうけど。大きな子供で嫌になるわ……」
「トウコさん、私」
美聖が振り返ると、トウコが大きく頷いた。
「美聖ちゃん、一つ頼まれてくれる?」
「はい。ぜひ!」
「キッチンの適当な物を見繕って、在季に、食料届けてあげて。今日、アイツ、あまり食べてないのよ」
「それは、体に悪いです」
「それと、お札……忘れずに持って行って頂戴」
「了解です!」
お札は、トウコの知り合いが作成した魔除けだ。
前回、美聖が怖い思いをしたことを、トウコなりに受け止めてくれたようで、知り合いに頼み込んで、作成してもらったらしい。
本当は、この札が出来上がるのを待ってから、美聖を離れに行かせたかったそうだが、その告白自体、後の祭りな感じがしている。
「行ってきます!」
威勢よく返事をすると、美聖はキッチンから果物とシフォンケーキを急いでビニール袋にまとめて、降沢を追って離れに向かった。
「降沢さん!」
離れの鍵を開けて室内に入ろうとしている降沢に、美聖は大きな声で呼び掛ける。
長いスカートの裾が絡まって、速く走れない。
そんな美聖を待っているだけなのも心配になったのだろう、降沢はぶつぶつ何事か呟きながら、美聖の方まで歩み寄ってきた。
「君は一体、何をしているんですか?」
「……見て分かりませんか。降沢さんを追って来たんですよ」
「どうして、また?」
「話の途中で、降沢さんが逃げるからです」
「逃げたわけじゃありませんよ。くだらない話を続けていても、不毛だと思っただけです。君が気にする内容でもなかったはずですし……」
「私にとっては、そんなことはありません」
「それは、好奇心から?」
「すっ、すいません。もちろん、それもあると思いますけど」
「君は変なところで、素直ですよね?」
降沢は怒りもしない。
むしろ、感心しているようだった。
美聖は、それから……と前置きして、真っ直ぐ降沢を見据えた。
「そのバレッタは、高価なものではありませんけど、響子ちゃんが大切にしていたものですから……。ちゃんと見届けたいのです」
「もしかして、あんなに怖がっていたのに、また離れに、入るつもりだったんですか?」
「大丈夫です。お札も作ってもらいました!」
「そういう問題ではないですよね?」
「でも、降沢さん放っておくと、どうなるか分からないから、大丈夫かどうか、見届けたかったんです」
「見届ける……ね」
そう呟いたきり、しばらく、黙り込んだ降沢は、額を押さえながら顔を上げた。
「………………でも、あんまり、ここにいると、君の帰宅時間が遅くなってしまいます」
「降沢さん……。貴方の気にするとこは、そこ……ですか? 私はすでに、二十六歳の成人女性ですけど」
「北鎌倉は、街灯が少ない所が多いので、女性一人で歩かせるのは心配なんですよ」
「それこそ、余計なお世話です」
美聖は胸を叩いて、平然と言い放った。
「大丈夫ですよ。普段のバイトなんて、もっと夜遅くまでしているんですから……」
「えっ? 君は他にバイトをしているんですか?」
「知らなかったんですか? トウコさんは最初から知っていますけど?」
もちろん、トウコには『アルカナ』でバイトする前から、伝えてある。
(……それにしたって、この人はオーナーって話なんじゃ)
『アルカナ』でアルバイトを始めて、三か月。
降沢は、美聖のことをまったく知らないようだ。
美聖も降沢から直接聞かれない限り、答えないので、きっと仕方ないことなのだけど、少しだけ降沢が美聖のことに興味を持っていないようで寂しい。
「さすがに、こちらと電話占いだけじゃ生きていけませんからね。近所のコンビニでバイトしていますよ。今日はオフですけど……」
「そうなんですか……」
降沢は考え事をしているのだろう。上の空で答えた。
「分かりました。少しの間だけなら離れに入っても良いですよ。ただし、本格的に暗くなる前には出て下さいね。あと、ちょっとでも危ない気配を感じたら、出て下さいよ」
降沢は、ポケットから鍵を取り出して、扉を開ける。
例によって、絵の具特有の香りが美聖の鼻腔を擽った。




