①
◆◇◆
誰も寄せ付けず、例によって自室にこもっていた。
この場所しか、僕にとって安心できる場所がないからだ。
残照がカーテンの隙間を縫って、真っ直ぐ室内に差しこんでいる。
湿った風が室内を吹き抜け、横になっていた僕の髪を撫でていた。
(何だ……。生きているのか……)
現実と夢の境が曖昧だ。
いっそのこと、ずっと眠ったままでいたいけれど、悪夢を見るので、意味もないだろう。
ならば、僕に生きている価値などあるのだろうか?
「まーた、独りで勝手に、ふさぎ込んでいるわけ? ……在季」
不躾に、僕の領域に侵入してくるのは、厄介な身内一人しかいなかった。
今日がいつなのか忘れてしまったけれど、彼女は最近足しげく、僕のところにやってくる。
横になっている僕の真ん前に立つから、露出の多い服から覗く長い手足を否が応でも目に入れなければならない。
(健康的な小麦色……だな)
決して、いやらしい意味ではなく、純粋に羨ましかった。
僕の生白い皮膚の色とは大違いだ。
ほとんど、家から出ることも出来ず、人と会うことにすら抵抗を覚える僕とは真逆の女性。
いつだって活動的で、誰からも好かれて、必要にされていて、頭も良くて、美人な僕の唯一の理解者。
すべてを滅する太陽のように、輝いている。
だから、邪悪な物は彼女に寄りつくことも出来ないのだろう。
それなのに、彼女を表す名前が「夜」というのも、不思議な話だった。
「…………別に。沙夜子姉さんには、関係ないでしょう?」
僕は上体だけ起こして、沙夜子姉さんを睨みつけた。
そんな僕の威嚇に、彼女は怯みもしない。
「関係なくはないわよ。従姉なんだから! せっかく、頭の良い高校入ったんだからさ、卒業くらいしとかなきゃ勿体ないじゃない?」
「それは、沙夜子姉さんの価値観じゃないですか。僕には無理です。高校に入ったら、少しは体質も変わるかなって思ったんですけど、まったく、変わりませんでした」
「…………あの話、やっぱり、本当なの?」
沙夜子姉さんが、僕の背後で仁王立ちしている。
細長く伸びた影が、僕の上に乗っかっていた。
わずかに感じた彼女の心の揺れを、残念なことに、僕は敏感に察知してしまうのだ。
(……気づかなければ、良いのに)
他人の考えなんて、見通さなくて良いのだ。
分かってしまうから、怖くなる。
そうして、怖いから、僕は逆毛を立てて、今にも噛みつくような脅しをかけて、誰も来ないように遠ざけてしまうのだ。
「別に……。本当でも、嘘でも良いでしょう。姉さんにとっては、どうでもいいことなんですから。僕の頭がどうかしているって言うのなら、病院にでも連れて行ったら良いんじゃないですか。……でも、安定剤は勘弁してくださいね。かえって、きつくなるので……」
「…………本当に、どうしようもない子ね」
沙夜子姉さんは、どんよりとした溜息を吐いた。
その態度は、一貫していて、僕が子供の頃からブレがなかった。
一瞬見えた彼女の深奥の怯えは、綺麗に消え去っていることに、僕は気づいていた。
「分かったわよ。信じるって。信じてあげるわよ。私、貴方がちゃんと日常生活を送ることができるように、何か手を探してみるから……」
「そんなこと、出来るわけが……」
「大丈夫。任せて! 出来るわよ。だって、貴方がそういう目を持っているのなら、同じ人がこの世には必ずいるはずでしょう?」
「ただ単に、僕が本当に変なだけかもしれませんよ……」
「まあね。確かに、貴方は変わっている。……けど、ちゃんと勉強だって出来るし、誰かと普通に話すことができる程度には、普通だと思うわよ」
「沙夜子姉さん……」
「だから……ほら」
沙夜子姉さんは、肩掛けの大きな鞄から、A4サイズのスケッチブックを取り出した。
「ここで毎日、ぼけっとしていたら、普通にボケるわよ。このスケッチブックで絵でも描いてなさいよ。あんた、絵だけは上手いんだからさ」
「絵なんて、ぜんぜん興味ない……」
「何よ。せっかく、上手いって誉めてあげたのに……。私だって絵描く人間なんだから、人の絵を誉めるのって、結構屈辱的なことなのよ。分からない?」
「別に、誉めて欲しいなんて、頼んでもいないし……」
「本当―に、可愛くないわね! 精々自分の子が出来た時に、反抗期に手間取って、苦労すれば良いのよ!」
「僕は結婚なんてしないし、誰かと付き合おうとも思いません。子供なんて出来やしませんよ」
「そんなこと分からないじゃないの。いつか一緒にいたいって思える人が出来て、その人との子供なら育てることが出来るかもしれないって思う時が来るかもしれないわよ?」
「偉そうにお説教するのなら、沙夜子姉さんこそ、自分の結婚の心配をしたら、どうなんです?」
「あのね……。それ、めちゃくちゃ余計なお世話だから!」
――ああ。まったく。
どうして、ここまで捻くれているんだろうと、情けなくなるくらい、僕の口からは滑らかに、反抗的な言葉が飛び出していってしまう。
(馬鹿だな)
感謝しておけばいいのに……。
僕の味方は小さい頃から、彼女と祖母の二人だけだった。
その祖母はもういないのだから、彼女しか今の僕には家族がいないのだ。
無条件に愛情を与えてくれる存在の……その尊さを理解できず、僕は甘えで返してしまっていた。
沙夜子姉さんが呆れつつも、笑っている。
白いワンピースが橙色に染まっていた。
この日常が崩れ去る日が来るなんて、予想もしていなかった。
永遠がないことを、僕は嫌と言うほど知っていたはずなのに……。
――どうして?
ハッとして、顔を上げる。
「あれ?」
一瞬、自分が何処にいるのか分からないほど、眠りが深かったらしい。
いつもの店の定位置に、何杯目かのアイスティーが運ばれていた。
からんと、小さな音を立てて、氷が解ける。
「まったく……」
ひやっとして、顔を上げると、美聖が腰に手を当てて降沢を睨みつけていた。
「居眠りしているなんて、なかなか良い身分ですよね。降沢さんも。もう閉店ですよ」
「…………ああ」
そうか……。
夢を見ていたのだ。
どうも、最近、彼女に関する偶然ばかりが続く。
本当に偶然なのだろうかと、疑いたくなるくらいだ。
(でも、もしすべて必然だったのなら……)
――――それは、それで面白いことだろう。
降沢は肩の力を抜いて、薄く微笑んだ。
「…………懐かしい夢でした」
「えっ? 夢まで見てたんですか……」
美聖がぎょっとして、目を剥いている。
「美聖ちゃん、気にしないで。こいつは、起こしても起きない時もあるくらいだから……」
浩介の呆れた声がキッチンから飛んできた。
(…………平和だな)
夕方の決まった時間に聞こえる、カラスの声。
連綿と続きそうな、日常の一コマ。
過去、どこまでも堕ちていってしまいそうな瞬間が、降沢にはあったはずだ。
それは、今、この瞬間だって、分からない。
自分が境界線の真ん中に立っている自覚くらいはある。
―――だからこそなのだろうか……。
この一瞬が、とてつもなく尊いものに感じてしまうのだ。
美聖を包む夕陽が逆光して、眩しい。
(後光のような……て言ったら、大げさだろうな)
最上の件で、占い師としての才覚ではなく、自身の微妙な霊感を利用されているだけだと、美聖は知ったはずなのに、それでも何事もなかったかのように、降沢とトウコに接している。
――変わった人だ。
お金のためといったら、そこまでだろうが、彼女であれば他にいくらでも高給な働き口があるだろうし、占い師として腕を磨きたいというのであれば『アルカナ』でなくても良いはずなのだ。
(あまり、占い師としても、熱心に働きたいというわけではなさそうだけど……)
それほど、一ノ清美聖は普通で、占い師にしてはお人好しすぎるような気もする。
降沢が今まで関わったことのない、女性だ。
(でも、いずれは……彼女だってここを通過して、どこかに行ってしまうんだろうけどな……)
どうせ、降沢はここから動けやしない。
彼女が遺した色彩の檻の中で、息絶えて死ぬまで…………。
無意識に手を伸ばそうとしたら、美聖は、降沢にくるりと背を向けていた。
「一ノ清さん……」
「何ですか?」
ムッとした表情でも振り返ってくれたということは、多少、自分に対して親しみを抱いてくれているということだろう。
降沢は一気にアイスティーを飲み干すと、彼女にカップを掲げてみせた。
「もう一杯お代わりしたいので、残業していきません?」
にっこり笑顔が嫌味に映ったらしい。
当然、美聖には断固拒否されてしまった。




