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美聖は接客中で、まったく知らなかったのだが、翌日の営業日。
混雑の合間に、三人組の一人、ツインテールの姫花が降沢にラブレターを渡したらしい。
それを、降沢は中身を読むこともなく、爽やかな笑顔で突き返したのだそうだ。
『どうしたところで、僕は君を好きにはなれないから……』
1%の確率もへし折るような、絶望的な断り文句だった。
しかも、ちょっと上から目線ではないか?
「…………降沢さんが?」
閉店直後のキッチンで、美聖はそれを知った。
天気は夜から雨の予報で、お客様は早々に帰宅したので掃除も早めに済ますことができた。
楽な一日だったと、解放感に浸っていた美聖に、暇を持て余したトウコが「まったく困った話よね……」と世間話風に切り出したのだ。
最初は、さほど深刻に考えてはいなかった美聖だが、話を聞いていくにつれ、次第に自分でも驚くほど降沢の対応にショックを受けていることに気づいた。
(もう少し方法はなかったの?)
相手が女子高生だからって、絶対に好きにならないなんて、たいした自信ではないか……。
三十路の……いい歳した成人男性の対応とは思えない。
「私、ちょっと降沢さんと話してきてもいいですか」
「えっ、あっ? 美聖ちゃん?」
トウコの話が終わるか否かの段階で、美聖は未だに定位置で暢気に寛いでいる降沢の前に仁王立ちになった。
「降沢さん、トウコさんから聞きました。いくらなんでも、それはないんじゃないでしょうか?」
「…………はっ?」
何が?
明らかに、降沢は最初何を指摘されているのか分からない顔をしていた。
しばらく、目をまん丸くしていたが……。
「…………ああ」
やがて察しがついたのか、興が薄れたとばかりに、そっと美聖から目を逸らした。
「何だ……。今日の女の子の話ですか?」
「姫花ちゃんです」
「そういえば、君のお客さんでしたよね。すいません、僕が手紙を読まないと、次からは来てくれないような子でしたか?」
「そうじゃなくて!」
美聖は降沢が座っている机を、おもいっきり叩きそうになって、寸前で手を止めた。
「一ノ清さん?」
降沢の思考回路はどうなっているのか。
いや、そんなことより、美聖はどうして、こんなにも他人事で心を痛めているのか。
(ああ、そうか……私)
美聖は完全に姫花と自分を重ねあわせてしまっているのだ。
だから、こんなにも感情を乱している。
察してしまった分、美聖は、益々降沢を責めることをやめられなくなってしまった。
「断るにしたって、もう少し、やり方というものがあったのではないでしょうか……」
「どうして? どうせ、断るのに、やり方も何もないじゃないですか?」
「彼女がどんな想いで、手紙を書いたと思っているんです?」
「分かりません。でも、それを知ったところで、僕は反省なんてできません」
決まりきったことを何故訊くのか……と、降沢は冷ややかな対応だった。
しかし、美聖の目が潤んでいるのを確認した途端、渋々といった感じで折れた。
「……確かに、見た目はともかく、健気な感じで、可愛い子でしたけど」
「……………………?」
どうして、そういう答えを美聖に返して来るのか?
降沢は、十歳以上の年下でも大丈夫なのか。
逆の疑いを深めてしまった。
ロリコンの気があるから、わざと厳しくしたんじゃないだろうか……なんて。
美聖は、自分の妄想を咳払いをして、封印した。
「だったら、少しくらい、優しくしてあげてもいいんじゃないですか……。可愛い子だったんでしょう?」
「一ノ清さん、君って人はね」
(なに……よ?)
しかし、美聖が彼女の味方をするほどに、降沢の表情は険悪に曇っていくのだった。
「僕に犯罪者になれと言うんですか? 僕が三十過ぎてるって知ってますよね……。十歳以上も歳の差があるんですよ。大体、僕のような社会不適合者のひきこもりで、ここから出ることも苦手な、臆病ニートの男と十代の若い女の子が、付き合うなんて、それこそ彼女の悲劇じゃないんですか?」
「そんなこと……。降沢さんは、なぜ、ご自分を卑下するんですか。別に付き合えと言っている訳ではありません。ちょっと論点がずれますけど……。でも、いまどき歳の差なんて関係ないし、生活環境だって、降沢さんが改めれば変わるものです。そんなにひねくれていると、本当にひきこもりの寂しい一生になってしまいますよ」
それは間違いなく、美聖の本音だ。
『アルカナ』でバイトを始めてから、今日まで、美聖が降沢を気にしなかった日はない。
怖いけれど、でも近くにいないと、そわそわする。胸を刺す痛みがあった。
無視できない魅力が、充分に彼にはあるのだ。
――それなのに……。
降沢は透明人間のようで、いつも、そこにいるようで、いない。
気配を感じさせない。
遠く離れたところから、他人事のように、物事を俯瞰している。
決して、自分から人の輪には入らない。
(それじゃあ、生きてたって、つまらないじゃないの?)
「なるほど……。歳の差なんて、関係ないって?」
降沢がめいいっぱいの皮肉を込めた半笑いをしていた。
「えっ?」
嫌味を言ったつもりはなかったのに……。
美聖は彼の斜に構えた態度に、狼狽えてしまう。
「それって、昨日の年配の人と、君だって、そういうことですよね? むしろ、君はあれほど年が離れている男が好みだということですか?」
「はあっ!? どうして、そうなるんです?」
「どうも、こうも……。ちょっと優しい言葉をもらっただけで、デレデレしていましたよね?」
「私は、デレデレなんてしていませんよ! どこをどうしたら、そう見えたんですか?」
「どこからどう見ても、そう見えましたが……?」
美聖はわなわなと手を震わせた。
(ムカつくー。ムカつくわよ。降沢在季!)
美聖の純粋な敬意をそんな低劣な感情とすり替えてしまうなんて……。
こんな人間に、素晴らしい絵なんて描けるはずがない。
美聖の抱いている不可解な感情だって、きっと勘違いだ。
(目を覚ますのよ。私!)
「分かりましたよ! 貴方のような引きこもりニートに、前途洋々な女子高生を穢されてたまるものですか。彼女にはうんと言い聞かせます」
「そうしてください。迷惑なだけです」
「降沢さんは、人の感情を何だと思っているんですか?」
「美聖ちゃん!」
「はっ、何ですか。トウコさん、今私は…………」
背後から存在感ありまくりで現れたトウコにも、きつい口調になってしまった美聖だったが、その時になって、ようやくトウコのすぐ後ろで、例の三人組が聞き耳を立てていたことを、知ったのだった。
「…………あっ」
美聖は何か言おうとして、少女たちの鋭い目に呆然とした。
「えっ……何で、私?」
どうして、美聖が少女たちに睨まれなくてはいけないのだろう。
そこがまず、理解不能だった。
フラれた張本人の姫花が怒声を張り上げた。
「ひどいっ! 占いの先生が彼と付き合ってたんじゃない!」
「へっ?」
美聖は腰を抜かしそうになった。
「一体……何をどうしたら、そうなっちゃうの?」
「まるきり、痴話喧嘩じゃないの!」
「どうりで、おかしいと思ったのよね!」
悠樹と奏子もそれに続く。
「…………えっ、ちょっと待って。今のでどうして?」
痴話喧嘩?
おかしいだろう。
美聖は本気で降沢に意見していたのだ。
後先を顧みてなかったと仕事上の後悔はあっても、今のやり取りに、恋愛感情をねじ込んだつもりは毛頭ない。
「もう行こう。どうせ、この人、ニートだって言うし」
「三十路過ぎて定職に就いていないとか、マジでヤバいよね」
「二度と来ないから……」
「ま、待って……。誤解だから……」
しかし、美聖の呼びかけは虚しく、三人で怒りの団結をして、嵐のように店を出て行ってしまった。
宙に伸びた美聖の手は、一体どうしたらいいのか……。
「美聖ちゃん、しっかりして……」
呆然と佇む美聖の肩を、トウコが軽く叩いた。
降沢は何ごともなかったかのように、紅茶を飲みほしてから、読みかけの本に視線を落とした。
「…………降沢さん、何を落ち着いているんですか?」
「落ち着いてはいませんよ。台風が去ったことに、安堵しているだけです」
「同じようなものですよね……」
美聖は鬼の形相を降沢に向けたものの、彼はびくともしない。
「ご協力、ありがとうございます。一ノ清さん、三人同時に諦めてくれたみたいで、スッキリしましたよ」
「ちょっと待ってください。貴方は、彼女たちが見ていたことを知ってたんですか?」
「…………途中からですけどね」
降沢がすまし顔で告白した。
「だから、あんなに自分を蔑むような発言をしたり、私に絡んでみたりしたんですね?」
「嫌だな。てっきり、一ノ清さんも協力してくれていたんだと思ったんですけどね。占い師なのに、人の気配に気づかなかったんですか?」
「占い師は忍者じゃないんですよ。こんな回りくどい……もっとも酷い仕打ちじゃないですか。最低ですよ」
だが、美聖が激昂するほどに、降沢はクールダウンしていく傾向があるらしい。
「勝手に店に入って聞き耳立てているのも、不法侵入じゃないですか?」
しれっと言い放ったのだった。
「君だって占ったのなら、彼女たちの性格が分かるでしょう。あの手の子たちは、逞しいものです。そんなに時もかけずに、ここに顔を出すでしょうから、心配はいりません」
「そんなこと、分からないじゃないですか?」
ムッとしながら、答えるものの、トウコは降沢に同意らしい。
重い溜息を吐いてから、説明してくれた。
「さっき、言いかけていたんだけどね。美聖ちゃん。ほら、このオッサン、見てくれだけは人並みでしょう。恋する女子高生とオッサン。季節ごとの恒例イベントみたいなものなのよね」
「…………はっ?」
何だ。それは……?
「ある程度時が経つと、脈なしだって、諦めていくんだけど、三人同時はさすがに凄いかもしれないわ」
「……………………私は、ある種の当て馬みたいな存在だったと?」
「当て馬とは、ちょっと違うと思うけどね」
いずれにしても、 美聖は降沢に良いように利用されたのだ。
もう、辞めてしまいたいくらいに、恥ずかしいし、悔しい。
更に追い打ちをかけたのは、その後の彼女たちだった。
果たして、降沢の言う通りだった。
期末テストが終わったあたりで、彼女たちはふらりと現れたのだった。
「北鎌倉で気軽に安く占いができるところって、少ないじゃん?」
そんな言い訳をしていたが、姫花には、すでに意中の相手まで出来ていた。
他の二人はまだ降沢を引きずっているようだったが、ニートの三十路は彼女達の常識的にも論外だったらしい。
(画家だって、あの時言えば良かったのかしら?)
困ったものだ、美聖は占いの場で、降ってくるメッセージを拾うのは得意だが、普段の生活において、他人の感情に疎いのだ。こんなことでは、プロでやっていくのは難しいような気もする。
………………一体、あの時の降沢の真意は何だったのか?
「トウコさん。私はあの時、本気で降沢さんと言い合いをしている感覚だったんですよ」
「…………でしょうねえ」
「えっ?」
客足が落ち着いた頃、腕をふるって、常連のおじいさんに紅茶を淹れていたトウコがさらっと認めた。
「トウコさんも、そう思うんですか?」
「だって、私にも在季は途中から本気に見えたもの?」
「でも、降沢さんは、すべて芝居だったんですよね?」
「大馬鹿なのよ。あいつは……いつも、言葉足らずなの」
「はあ?」
つまり、彼女たちの存在に気づいたのは本当で、口走っていたことも、本音だったってことなのか?
「ん?」
(それって、やっぱり?)
「いやいや……」
振り返ってみたが、あの時の二人は異様なテンションであったが、まさか降沢があんなふうに子供のような嫉妬心を口に出すはずがない。
(ばかばかしい。変な解釈入れるのは、やめとこう……)
これ以上、トウコに聞いたところで、はぐらかされるのも分かっている。
余計なことは考えないのが一番だ。
「さっ、美聖ちゃん。いつものおじいちゃんに、ダージリンティを持って行ってちょうだいね。美味しさたっぷり注入したから」
「了解です! あのおじい様、本当に良い方ですからね。このお店が大切にしないといけないお客様ですよね」
「あのー……」
――と、美聖がトウコから受け取ったところで、また気配なく降沢がキッチンに現れた。
「降沢さん?」
「……紅茶のお代わりもらっていいですか? 一ノ清さん」
「…………はっ?」
「僕、アールグレイのアイスティーがいいです」
「えっ、あっ……はい?」
一方的なオーダーを押し付けたと思ったら、降沢はさっさと席に戻ってしまった。
今日も寝癖だろう、後ろ髪がぴょこぴょこと跳ねていた。
(どうせ暇なんだから、自分でお茶くらい淹れたら良いものを……)
そこまで横着するのか……。
「くーーーっ。まったく、分かりやすいくせして、誤魔化そうとするのよ。中学生のガキかって感じだわ!」
珍しくトウコが、地団駄を踏んで、降沢に怒っていた。
「トウコさん?」
「もう、いいわ。在季の奴、一度手酷くフラれてみたらいいのよ。ざまあ見ろって嗤ってやるから! 美聖ちゃんも一緒に嗤ってやりましょうね!」
「ええ、本当に!」
降沢は何を考えているのか……。
(きっと、何も考えてないんだろうな……)
描きたいモチーフだけに、野生の感覚で反応するだけの三十路のおっさん。
(痛いわ……)
それなのに、彼のことを想うと胸がざわついてしまうのが、我ながら不本意だった。
(女の敵よ。あんな奴……)
――結局、常連のおじいさんは、トウコが対応することになって、美聖は降沢の紅茶を淹れる羽目になった。
『在季のオーダーなんて、適当でいいからね!』
そんなふうに、トウコに言われたが、相手が降沢だと思うほどに、手抜きはできない。
……といっても、あらかじめトウコが作って冷やしてあるアイスティーを容器からコップに注ぐだけなのだが……。
(アイスティーか……)
いつも温かい紅茶だったのに、降沢はいちはやくアイスに切り替えた。
それが、温かいお茶を淹れることにまだ慣れていない美聖に対する配慮だったなんて、複雑すぎて、自力で気づけるはずがない。
(夏だなあ……)
涼しげな氷の音が、コップの中で響く。
キッチンの小窓から見える風景は、青空と青葉のコントラストだ。
確実に、季節は巡っている。
美聖の心だけを置き去りにして、北鎌倉の占い喫茶に本格的な暑い夏が訪れようとしていた。




