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「遅いわよ、アリシア。待たせないで。」
「…、申し訳ございません。」
リビングルームの奥にあるダイニングルームへと続く扉をくぐればもうすでに全員が席に座っていた。全員が私を待っているのはそんな良い感情ではなく、ただ、仕来りだから。お母様は入ってきた私に言葉を投げかけるけれど、視線は手元の書籍に向かっていた。そしてお父様とお兄様は視線すら、言葉すら私に向かない。お姉様は感情の見えない瞳を私に向けていたけれど、その口からはため息すら落ちることはなかった。
これが今の私の日常だった。
ダイニングルームは、それはもうお話に出てくるような広くて美しい装飾がなされた空間だった。足を沈ませるふわっとした柔らかい絨毯に壁を彩る品のある模様、部屋の四方八方に置かれた見るだけで高価だと分かるものの数々。部屋の中央に置かれた広いテーブルも椅子も言うまでもない。急いで、それでも品のある女性を思わせるように優雅に。幼い頃から公爵令嬢として育てられ教育された私は呼吸をするように公爵令嬢としての作法や言動がでてくる。だから優雅に急いで歩くなんて正反対のような表現を思わせる仕草だって簡単にしてしまえる。
私が大きなテーブルの奥にある指定の席に座れば暖かい料理たちが次々と運ばれ、テーブルを彩っていく。焼きたてで良い香りのする数種類のパンにふわふわとしたスクランブルエッグ、カリッと焼かれたベーコンに我がセントフォーズ公爵家の領内で作られた新鮮な野菜とシェフがイチから編み出したシーザーサラダ、湯気が立ち上るクリーミーで濃厚なコーンポタージュは私が幼い頃まだアリシアとしてしか知らなかった子供の頃、ミリィにこっそりと連れて行ってもらった調理場で料理長が作っている最中を見せてくれたあの料理そのものだった。まだあの頃は私の世界が狭く無邪気だった時で、ミリィと一緒にソレルに怒られながらも遊んでいた頃だ。まだ私が置かれていた現状を理解しておらずにいたあの頃。今ではもう遠い昔のように感じてしまう。多分この料理も私の様子がおかしかったのを気にしていた、今この空間にいないミリィがシェフに無理を言って変えてもらったものなのかもしれない。その優しさが嬉しくて、一口入れた温かいコーンポタージュと共に私の身体と心をふんわり温めてくれた。しかし、その間に流れるのは温かい料理たちとは裏腹に、冷たく、そして重く流れる沈黙だった。
居心地が悪いのはいつものことだと割り切って食事を進めることが出来たのならどんなに良かったのだろう。そんなことも出来ずただただつらいその空間に気持ちを引きずられていってしまう。そして、そんな家族の顔を見て息をのむのも又、いつものことだった。私が生まれたセントフォーズ公爵家は何百年と続く由緒正しいお家柄だ。王家からの信頼も厚く、何度か王族の女性が降嫁されたこともある。そして、このグランドスワレイ王国の二大公爵家の片翼を担う我が家は多くの優秀な宰相閣下を輩出している。現在当主である私の父のセントフォーズ公爵もまたその一人だった。歴代の宰相の中でもずば抜けて秀でていると名高いお父様は、陛下との仲も良好だ。そして、お母様は王家の血を引く家のご令嬢で今は王妃様に仕える筆頭女官を務められている。毎日のように出仕され、公爵夫人としてのお務めもこなされ、昔から変わらずお綺麗で優れた方である。
お兄様は才気溢れるその頭脳でお父様の補佐を務めておられており、次期宰相としてすでに名声を上げられている。涼やかな目元はまだ社交界に出られて数年しか経っていないと言うのに、威厳すら感じさせる。温度のあまり感じられないその表情と声は一度でも聴いたり見たりすれば、忘れることを許さない。未だご婚約はされていないのは何故なのか分からないけれど、遠くない未来にお兄様の隣に立たれるご令嬢もまた才気溢れる方だろうと言われている。お姉様は王太子様の婚約者として数年前のお生まれになった日に婚約なされている。その見た目はお母様同様、社交界の花として有名で、美しさに惹かれ殿方は何度もお姉様に見惚れるという。そして王太子殿下とのご関係は王都にまでお噂されるほど良好で、城下では美しい恋の物語として語られている。そんな公爵家の次女で末子である私はそのような大層な肩書きは未だ何も持ち合わせていないけれど。
セントフォーズ家の人々は、私の前世の記憶にある“高瀬美穂”の家族と色素こそ違うものの姿形がそっくりなのだ。日本で生まれたときは黒目黒髪な私の家族は、あの時では考えられないほど鮮やかな色をしている。セントフォーズ家本筋は必ず薄紅色の色素を受け継ぐ。お父様とお兄様は薄紅色の髪にルビーを思い浮かばせる美しく輝く赤い瞳で、私とお姉様はお母様の金髪金目を受け継ぎ、薄紅色の髪に黄金の瞳を持っている。
そのように、全く違う色を持っているのに、やはり顔立ちや背格好はあの頃のまま育った姿だ。あの時の私は8歳で人生に終止符を打ったけれど、今は11歳でもうすぐ12歳を迎えようとしている。あの人生でそのまま成長したらそうなるであろう姿を、今の家族は持っている。
でも、あの頃あったはずの暖かさは一欠片もそこにはなかった。
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11歳の誕生日当日、私は初めてあの夢をみた。それを受けて、全てを思い出した私は着替えもそこそこに家族の集まるダイニングルームに向かい1秒でも早く愛しい家族に会いたかった。けれどそこにいたのは、私が大好きだった家族に似ているけれど全くの別人だった。瞳に宿る色は冷たく、雰囲気も顔つきもあの頃は絶対に、一度も向けられた事の無い冷たさを持っていたのだ。
怖くなって足が竦んだ私に何の暖かさの宿っていない眼差しで告げるのだ。「公爵家の令嬢として振る舞え」「恥をかかすこと、家名に泥を塗ることは許さない」と。
痛む心を押さえつけなんとか食事を終えて、前世で大好きでいつも後ろをついて回り、そして私に惜しみなく愛をくれた優しいお姉ちゃんの元へ向かった。まだ微かに残っていた希望が、前世のときの関係を忘れさせてはくれずに、私の背中をぐいっと姉の元へと押したのだ。食事が終わるや否や足早と去って行くお姉様を追いかけ、声をかけたのは部屋から出て数歩歩いた廊下の真ん中だった。
「お、お姉様…、あの」
「…なに」
振り返ったお姉様の顔を見て、声を聞いて息をのむ。あの頃私が姉の名前を呼べばいつも柔らかく微笑んで目線に合わせしゃがんでくれたあの優しい姉はどこにもおらず、身長差のある私を冷たく見下ろしていた。次の言葉が口から出てこなくて黙り込んだ私を見て、大きなため息をつかれたお姉様は一言、
「用事がないのなら呼び止めないで。」
そういって私の反応を見ることなく従者を連れて去られていく。
咄嗟に伸ばした腕は空を切り、だらん、と落ちていく。その腕は微かに震えていた。
呆然とした。
分かっていたじゃない。あのダイニングルームでもうすでに、この世界があのただただ愛おしくて優しく、穏やかだった場所とは違うことを
。知っていたじゃない。アリシアとしての私の心が無理だと否定していたことに。それで諦められなかったのはまだ、私の心の中に美穂としての心が残っていたから。
後ろに控えていたソレルに促されて自室へ足を進めるも、私の頭の中には先ほどの去って行くお姉様の後ろ姿が、焼き付いていたままだった。
気づけばもう自室へ着いていて、寝室でひとり窓側にある椅子に腰掛けて朝日が昇り青々とした空を見上げていた。
その私の着るドレスの胸元は少し湿っていた。手のひらを、頬を撫でるように滑らせると止まることのない雫がぽろり、ぽろりと流れ落ちている。私は泣いているのだと自覚した途端、凪いていた心が荒れ狂い、胸の奥を強く締め付けてくる。両手を胸の前で握りしめるけれど痛みは落ち着くどころか鈍器で殴ったように私を苦しめてくる。
心の中でアリシアが叫ぶ。もう諦めよう、楽になりたい、と。美穂は首を激しく横に振って、諦めたくない、まだ諦めたくない、と声をあげる。
私はどうすれば良いのかわからない。でも、楽になりたいと思った。…思ってしまった。心の中でアリシアの気持ちが強くなっていくのを感じた。美穂である心が嫌だ嫌だと泣きながら抵抗している。でも、どんどんその心の光が弱まっていき、ついには私の心はアリシアの気持ちでいっぱいになっていた。
窓辺に座り外をみる令嬢の瞳はだんだん色を失い、濁った光を宿すものへと変わっていった。乾いてきていたはずの頬に一筋の雫がこぼれ落ちていく。それはまだ彼女の心の中にすむなにかが最後の抵抗をみせ、そして抗っている証なのかもしれない。




