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息子の友達は

作者: 嘉實

 私の息子、大地(たいち)は昔からとても大人しい子供だった。

 ついこの間の出来事なのだけれど、私が大地と一緒に買い物に出た時、私たちは突然後ろから声を掛けられた。

「あら、藤野(ふじの)さんじゃない。そちら息子さん?」

 その人は私が今住んでいる家ーー裏野ハイツ引っ越してから、ずっとよくしてくれるご近所の方だった。彼女の後ろには、大地と同じくらいの年と見える男の子の姿もあり、その子は所在なさそうに辺りをキョロキョロと見回していた。

「こんにちは。ほら大地、あいさつ」

 そう私は言ってみた。けれど大地はひょいと私の後ろに引っ込んで、顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに俯くばかりだった。

「ごめんなさい。この子、どうも人と話すのが苦手みたいで」

「まあ羨ましいこと。うちの子はいっつも悪さばっかりして……こら佑樹、店の物に触っちゃだめでしょっ」

 奥様が佑樹くんを叱りつける。私はその光景に羨ましさのようなものを感じていた。

 子供なんだから少しくらい悪さをしてもいいのに。私は心の内でそんな悩みの種を育てていたのだ。

 旦那に相談したこともあった。けれど彼は私の言うことを何てことないように笑うばかりで、

「それくらいの年の子は、色々と難しいからなァ。なに、心配することはないさ」

と、呑気にお酒を煽るのだった。


 私はいつものように夫の見送りを済ませると、洗い物を片付けに台所の前にたった。一枚、二枚、と泡の乗った食器を水で流していき、ふとため息をつく。

 大地のこと。もしかして、私が考えすぎなだけなのだろうか?

 ただ私が、過保護になっているのだろうか?

 私は呆然と、流し台に出来た渦を眺めていた。

 また、私には最近もう一つ悩み事が増えた。それはいつも、大地がうちにいる時に起きることでーーああ、始まった。

「つぎはぼくのばんだね。いっくよー」

 居間の方から、大地の話す声が聞こえてきた。音を立てないようそっと戸を引いて、私は大地の様子を覗いた。大地は何も無い空間に向かって、朗らか語りかけていた。

「たーいちっ。誰と話してるの?」

 後ろから、大地に声をかけてみる。

「ぼくの友達だよ、ママ」

「友達?今、そこにいるの?」

「うん。そうだよ」

 大地はそれだけ答えると、また一人遊びに戻った。

 私の新たな悩み。それはここ一週間ほどで、急に大地に独り言が増えたことだった。こればかりは流石に怖くなって、私はインターネットに救いを求めることにした。

『子供 独り言』

 検索エンジンにそう打ち込み、さあ検索しようとしたところで、ぱたりと手が止まる。何となくしっくり来ないような気がして、私は『独り言』の文字を消した。

 画面の上で、指が右往左往する。しばらく悩んで私はそこに『空想の友達』という言葉を付け足したのだった。

 イマジナリーフレンド。大地に起きている現象は、一般的にそう呼ばれているらしい。

 確かな名称がついている通り小さな子供にはよくある話で、成長するうちに自然と無くなっていくものだという。私はホッと胸を撫で下ろした。

 言われてみれば子供の頃、いわゆる『空想の友達』が、私にも居たような気がしてくる。勿論もうはっきりとは覚えていないけれど、何となく、私の思い出の中には誰とも分からない『誰か』がいるのだ。もしかすると全ての人の中に、その『空想の友達』は居るのかもしれない。

 ひょっとすると大地にとって、このことは他の子供と話すための第一歩になってくれるのではないか?

 私は淡く、そんなことを期待していた。


 その日の夜のことだ。さほど暑いわけじゃないのにやけに寝苦しくて、私はなかなか寝付けなかった。額にじんわりと、汗が滲む。

 旦那は今日から一週間の九州出張で、あと一週間は帰ってこないことになっている。いつもより余計に空いたスペースが、何だか心細い。

 そこでふと私は、隣の布団がもぬけの殻なことに気が付いた。確か少し前まで、大地はぐっすり眠っていたのに。一人でトイレにでも行ったのだろうか?

 むわっと暖かく湿った人の吐息のような空気が、扇風機に送られて私の肌に染み込んでいく。その時、妙な生臭さがつんと鼻をついた。まるで生ゴミ置き場だった。鼻と口元を覆ってみてもさして効果はなく、胃の奥がむかつきが止まらなくなった。

 私の意思とは無関係に、五感がどこまでも冴えていく。これは何か……音?いや、人の声かしら。

 テレビを消し忘れたのだろうか。それとも外からの話し声が聞こえてきているのだろうか。

 私は音のする方へ足を進めてみることに決めた。

 空気が重たい。水の中を歩いているかのような感覚が頭の奥を支配して、体が思うように前に進んでいかない。心臓は張り裂けそうなくらいに脈打っている。

 居間に通じる戸まで、私は辿り着いた。僅か数メートルの距離を歩くのに、10分以上かかったような気がした。耳を澄ますと、ひそひそ声はさっきよりも大きくなったいた。私はおそるおそる、引き戸に手をかける。

「うん。うん。ぼくもそうだよ。きみとおなじで……」

 声の主は大地だった。深い海の底までどっぷりと沈んだような暗闇の中で、大地は一人ぶつぶつと呟いていたのだ。まるでその場に、話し相手がいるかのように。

「大…地……?」

 私の声は、自分でも驚いてしまうくらいに震えていた。すると大地はこちらに気付いたらしく、物凄い速さで首をぐりっと回転させる。思わず口から、「ひっ…」と声が漏れた。大地の姿は、私の息子の『大地』ではないーー無表情の、大地の面を被った何かだった。

 ゾッと背筋が凍るような冷たい沈黙。今すぐこの場から逃げ出したい。そう思った。でも私は、なけなしの勇気を振り絞り、大地の方に駆け寄った。

「……大地……大地!?」

 自分の首を締め上げるように、無理矢理喉から声を絞り出す。そして何度か大地の肩を揺すっていると、

「ママ?どうかしたの?」

 息子の大地が応えた。紛れもなく、それは大地だった。

「ああ大地!良かった!」

 私は夢中になって大地の身体を抱き締めた。腕から伝わる大地の体温が、さっきまで感じていた不気味な気配を、霧散させる。

「いたいよ、ママ……」

「あっごめんね大地」

「うん!いいよ」

 にこりと笑う大地。ピンと張りつめていた緊張の糸は、いつの間にかすっかり解れていた。

 でもその中で、私は奇妙な違和感を覚える。どこかおかしい。どうしても、胸の支えが取れない。ああ嫌だ。早く寝てしまいたい。

 私は早く布団を敷いていた部屋に戻ろうと、大地を立ち上がらせた。

「それにしても、こんな時間に何してたの?もう寝る時間じゃない」

 私の言葉に、大地がしゅんと肩を落とす。

「ごめんなさい、ママ。友達が、どうしても遊ぼうって言うから」

 友達。大地からその単語を聞き、私の中でさっきの恐怖が甦ってくるような気がした。

「やめてよ大地。友達なんて、いないでしょう」

「ううん。いるよ」

「いないわ」

「いる」

「いない!!」

 私はいつの間にか、頭ごなしに怒鳴り付けるような声になっていた。それくらい、精神的な余裕が無かった。

 何度か肩で呼吸をした後、大地が完全に俯いてしまっていることに気が付いた。いきなり大きな声を出されて、大地もびっくりしたに違いない。私はごめんねと口を開こうと、した。

「いるよ」

 大地の首が再び、折れるような勢いで回る。私は思わず腰を抜かした。吐き気を催すような臭気が、じりじりと舞い戻ってくるのを感じた。

「いる。いる。いる。いる。いる。いる。いる。」

 大地は壊れた機械のように、抑揚のない声で繰り返す。

「もうやめて大地!ママが謝るから。お願いだから!」

 私は頭を抱え、冷たい床に身体を擦り付けながら、必死に懇願する。そこでぶつりと、大地の声が止んだ。私は極めてゆっくり、恐怖のあまり弛緩した顔を起き上がらせた。

 大地の小さな眼球が、ぎょろりとこちらを見る。私の心臓は狂った警告音を響かせていた。

「いるんだよママ」

 大きく開かれる口に、ねっとりと唾液の糸が引く。

「ーーだって、僕ガソゥダかラ」

 その声は地の底から響いてくるように、低かった。

 瞬間ーー部屋の壁がドンッ!ゴンッ!バシンッ!と、凄まじい轟音を立て始める。家具という家具がガタガタと揺れ、周囲からは無数の子供の、ケラケラとせせら笑う声が聞こえてきた。

「いやぁぁぁあぁああぁッ!!」

 私がうずくまって耳を塞ごうと、音はまるでやむ気配を見せない。それどころか、どんどん大きくなっていく。

 呼吸は不規則に乱れ、視界が激しく揺れる。もう目の前がぐちゃぐちゃだった。私は獣のような呻き声を上げながらーー失神した。



 夫が帰ってくるまでの一週間、私と大地は近所の安いホテルに宿泊していた。家に帰る気になれるわけもなく、出張を終えた夫に、あの日の出来事を話した。初めはまともに受け合ってもらえなかったが、私のあまりの必死さに事の重大さを理解したらしく、翌日家族全員でとある有名な神社にお祓いに行くことになった。

 神主さんの話によると、私と大地はかなり危険な状態だったらしい。特に大地は最悪の場合、あのまま霊に憑き殺されていたかもしれなかったとか。

 例の一件で私たちはすぐさま裏野ハイツから出て、新天地で新たな生活を始めた。それから大地が『空想の友達』と話すことはなくなった。私がパートのシフトを増やしたことをきっかけに、大地は幼稚園に入り、そこで同級生の友達も出来た。私の心を巣くっていた悩みは、全ては綺麗さっぱり過ぎ去ったのである。

 けど、たまに思ってしまう。大地は今も隠れてどこかで『空想の友達』との会話を楽しんでいるのではないかーーと。

 あの日耳にした大勢の子供たちの声は、今でも岩に張り付く苔のように、ビッシリとこの耳にこびりついていて、寝る時には必ず思い出してしまうのだった。

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