「木々の温もり」①
シィは湿気た洞窟を歩いていた。
音を立てないまま、その背中にある小振りな羽から七色の鱗粉がわずかに零れて軌跡を残している。
彼女の柔らかい銀髪の上には手のひらサイズの小人が乗っていて、背後に残る仄かな輝きにきゃっきゃと喜んでいた。
目的地の前に着き、――ノックをするかちょっと躊躇ってから、そっと扉を開ける。
その部屋は住人の個室で、洞窟の主人のものだった。雑然とした内装の奥、古びた寝台に若い男が眠っている。
シィは静かに寝台まで近寄って行った。
洞窟の主人、マギは苦悶に塗れた表情で眠りについていた。眉間には深い皺が刻まれ、びっしりと汗をかいている。薄く開かれた唇からは、喘ぐような息と共に呻き声が漏れていた。
「うーん、うーん……ドラゴン……流れるようにブリッジ――虹のような美しい曲線……、こっ、高角度――?」
――なにを言っているのかわからない。
わからないが、主人が苦しんでいることだけははっきりと理解できたので、シィは黙って男の額に手をあてた。
汗ではりついた前髪を避けて、近くの小机に置かれた洗面台の手拭きをとって、男の汗を拭っていく。
見える範囲の汗を拭きとったところで、男の表情が幾分か和らいだのを見て、シィはわずかに頬を緩めた。
若い主人がこの洞窟の近くで発見されたのは、少し前のことだった。
山頂の竜に会ってくる、という言葉を残してから十日。
その間、どれだけ待ってもまったく昼間が訪れないという異常な事態が終わり、それと共に発見された男はひどく憔悴して、なにかに怯えていた。――錯乱していた。
すぐに洞窟に連れて帰り、手当がされたが、まだ回復は十分ではない。
いったいなにがあったのだろうと不思議に思い、それを同じく主人に仕える金髪の令嬢に訊ねたところ、相手は皮肉そうな表情でこうとだけ告げた。
「ご主人様は世界をお救いになったのです」
……やはり、よくわからなかった。
けれど、きちんと戻って来てくれた。
そのことだけで十分に嬉しかったので、それ以上は訊ねなかった。
それから毎日、シィは男の看病をしている。
彼女だけではなく、この洞窟に関わる全員で代わる代わる、男の看病はなされていた。その甲斐あって、いくらか男の様子も落ち着きだしてはいたが、
「――――」
そっと吐息を漏らす。
男の病状については、シィはあまり心配してはいなかった。
男は、必ず元に戻ってくれる。なぜなら、彼は待っているからだ――自分と同じように。だから、絶対に、元に戻る。
男の頭を撫でる。
もうしばらく、相手から頭を撫でてもらっていない。そのことがひどく残念だった。
少しでも男の回復を早めるために、自分にはなにが出来るだろうかと考えて、――女王様に訊きに行こう、とシィは思った。
彼女はとても長く生きているから、なにかよい薬や魔法を知っているかもしれない。
自分の思いつきに、シィはそわそわと背中の羽を擦らせた。
男の姿勢を直し、首筋にまた浮かびつつあった汗を拭ってから、もう一度、頭を撫でる。
「……待ってて、ください」
決意を秘めた眼差しで囁き、シィはきびすを返した。
部屋を出る間際、ふと思い返して寝台まで戻る。最後にもう一回、念入りに男の頭を撫でてから部屋を出た。
◇
「――ようするに、問題は精霊ってこと?」
短髪の少女が訊ねた。
洞窟で、食卓も兼ねた居間に置かれたテーブルについた金髪の令嬢は、相手からの質問に静かに頭を頷かせて、
「それだけではありませんが、もっとも根本的な問題はそれです」
「精霊さんっすかあ」
頭から爪先に至るまで真っ白い少女が、ボサボサの頭をかきながら天井を仰ぐ。
「うちの洞窟のノーミデスさんも、悩まれてるみたいですしねえ。やっぱり、他の精霊さんとも色々あるんでしょうか」
「仕方ありませんわね」
令嬢はあっさりと頷いて、
「スラ子さんの為されたことによって、この世界は一変しました。マナと、そこから生まれる瘴気。その蓄積を可能な限りに抑えることこそが精霊の本懐であったとするなら――マナを使っても瘴気が生じなくなったという事態は、彼女達にとっての『目的』そのものを破綻させてしまいかねません。混乱するのは当然でしょう」
「でも、ルクレティア。精霊は、この世界を護るために、瘴気があんまり蓄積しないようにってしてたんでしょう? だったら、瘴気が出なくなったら喜ぶんじゃないのかな」
「目的と手段の関係だったはずが、手段の方こそが目的化してしまうことは多々あります」
ルクレティアは薄い冷笑を浮かべて、
「この世界は精霊達が創ったとされています。つまり、瘴気の発生とその蓄積も、言ってみれば“世界”の範疇に含まれていたはずです。しかし、その仕組みはスラ子さんによって破壊されました。それはつまり、この世界が精霊の支配下から外れる、ということにさえ繋がりかねません。当の精霊方がそうした不安を抱いても仕方がないでしょう」
「そりゃあつまり、“貨幣”ってことですかね?」
「端的に言えばそうです。“精霊の意図しない価値観”の波及。それによって、自分達の存在する意味が薄れてしまうこと。これこそが、精霊の方々がもっとも恐れている事態でしょう」
そもそも、と美貌の令嬢は肩をすくめて、
「マナというのはひどく恣意的です。精霊が創った世界で、その彼女達が源とされて行われる現象ですから、仕方ありませんが」
「恣意的って、たとえばどんな?」
質問に、令嬢はそっと右手を開いて、その少し先の空間に小さな灯火を生み出した。
「……『火』を生み出すのは簡単です。他にも、『光』、『水』、『土』。ごくわずかにこれらを扱うことは、さほどの腕前の魔法使いでも可能とされています。しかし、一般的に『闇』は人間には扱えず、『金』を生み出すことも不可能だとされています。少なくとも、私は『金』を湯水のように具現化できる相手を知りません、――“たった一人”以外には」
短髪の少女が大きく瞳を瞬かせて、
「属性によって出来る、出来ないを、それぞれの精霊が決めてるってこと?」
「そこまでは断定できませんわ、カーラ。しかし、精霊の在り方がマナに大きな影響を及ぼしていることは間違いないでしょう。あるいはその逆に、」
「マナの在り方が、精霊に影響を及ぼす。大元のマナの在り方が変われば、精霊さん方も変わらざるを得ないってことっすか」
「その通りです。そして、そのことが我々に影響を及ぼすことも必定です。仮に、『金』の具体化が誰にでも容易に行えるようになっただけで、我々の価値観は一変します。今、この世界に起こりつつある混乱にも、さらに拍車がかかることでしょうね」
「そんなこと、ありえるのっ?」
「わかりません。もしも、精霊の方々が自分達の“立場”を失わないようにすまいと錯乱すれば、在り得ないことではないかもしれませんが……、所詮は仮のことです。それぞれの属性を司る精霊達も、一枚岩ではないようですし。どんなに突拍子がなさそうに思える話でも、完全に否定できないのが面倒ですわね」
いずれにせよ、とルクレティアは肩をすくめた。
「その辺りについては、ヴァルトルーテさんとツェツィーリャさんのお帰りを待つしかありませんわね。賢人族、エルフは精霊の熱心な信徒ですから。彼らの反応と今後の動向で、彼らの背後にいる精霊族の意向もある程度は窺えるはず――」
そこで口をつぐみ、部屋の入り口に視線を向ける。
「どうしました、シィさん。ご主人様の容態になにか?」
三人の会話に入る込むタイミングを掴めずにいたシィは、ほっとして口を開いた。
「いえ。マスターは、眠ってます。……あの、外に出て来ても、いいですか?」
「シィちゃん、なにか用事があるの?」
カーラからの問いにこくりと頷いて、
「妖精の、泉に。女王様、マスターに効く薬とか、知ってるかもって……」
三人は顔を見合わせた。
「確かに、妖精族の女王ならなにかよい薬を知っているかもしれませんわね。けれど、一人ではなにかあった時に不安ですから、どなたかと一緒の方がよろしいでしょう」
「そんなら、あっしが行って来ますよ」
白い魔物の少女がにっこりと笑った。
「泉の近くにいる、リザードマンさん達の様子も見て来たいですし。シィさん、ご一緒してもいいですか?」
「――もちろん、です。ありがとうございます」
シィはぺこりと頭を下げる。
「いえいえ。じゃあすぐに準備するんで、ちょっくらお待ちを」
席を立ち、自室に向かおうとする相手の背中にルクレティアが声をかけた。
「スケルさん。大丈夫だとは思いますが、用心を。混乱の折、どこでなにが起こるかわかりません」
振り返ったスケルがびしっと親指を立てる。
「はいなっ。シィさんになにかあったら、ご主人やスラ姐に怒られちゃいますからね。ばっちし、護衛して来ますぜ!」
「よろしくお願いします」
二人が出て行った後、残った沈黙の意図を継ぐようにカーラがぽつりと呟いた。
「……ユスティスさん、まだ戻らないね」
「もっとも身近な問題となると、それですわね」
ルクレティアは頷いて、続けた。
「このまま戻らないつもりかもしれません」
「レスルートに戻るってこと?」
「どうでしょう。多少でも考える頭があれば、そんなことをしても悪い未来にしか繋がらないことはわかりそうなものですが――世の中には馬鹿が多いものです」
カーラは苦笑を浮かべて、
「でも、ボク達で気をつけないとね。しばらく、マスターは身動きできないだろうし」
「そうですわね」
ルクレティアは首肯した。
「……間抜けで小物なご主人様が身体を張って、今この世界はあるわけですから。あの黄金竜の方に正面から“相対”して、廃人程度の結果で済んだのならむしろ重畳でしょう。もちろん、そのうち元に戻ってもらわなければ困りますが」
相手への信頼と侮蔑が複雑に入り乱れた口調で、
「その間に、なにか小賢しいことを企む輩がいれば、それを排除するのは私達の努めです」
「うん」
頷いて、一瞬、躊躇うようにしてからカーラは訊ねた。
「……でも、もしもユスティスさんがなにか企もうとしてたら、どうするの?」
「わざわざ答える必要がありますか?」
凍てつくような美貌の令嬢は冷ややかに肩をすくめて、
「――無論、この私が殺しますわ」
まったく冷淡に彼女は言った。