「甘い囁き」①
「おっと」
自分の懐に飛び込んで来るように勢いよく駆けてきた相手を避けようと、男は大きく横に体軸をずらした。
「ごめんよー!」
まだ十にも満たないだろう、いかにも見習い風の少年が、大箱を頭に掲げて駆け抜けていく。
自分にもあんな駆け出しの頃があったことを思い出して、男の顔に苦笑が浮かんだ。
バーデンゲン商会に所属する若い商人、ディルク・スウェッダはギーツの街の河川沿いにいた。
そこには多くの積み荷が運ばれてきて、また運ばれていく。一旦の集積所だった。
周囲には箱詰めの荷がうず高く積み上げられ、それに無数の人が群がっている。
その場で開かれた箱の中身について、さっそく売買を呼びかける大声も飛び交わされていた。
たちまちに簡易の市場と化したその場の盛況さは、尋常ではなかった。
物があり、人がいればどこでも商いを始めてしまうのは商売人の性のようなものだが、最近のこの熱気ぶりは商人としてそれなりの経験を積んできたディルクにも身に覚えがない。
それはほとんど狂騒じみていた。
その狂乱をもたらした原因についても男は承知している。
全ては、二月近く前に起こった出来事のせいだった。
世界中に向けて発せられた、とある黄金竜による愛の告白(それ以外、なんと表現すればいいだろう?)と、その後にまるでそのことを祝うかのように世界各地へとばら撒かれた大量の金貨。
金貨というのは実際には正しい表現ではない。
それはどこの誰に通貨幣として認められたものでもなければ、市場に流通しているわけでもなかった。
そもそも、この“純金製の小片”ほど精巧な意匠を持ち、まったく均一の形を保持している硬貨など存在しない。
この貨幣に似た形状のものを見た者の多くは、はじめ、これこそを「竜達のあいだで使われる貨幣」なのではないかと考えたという。
そう捉えるのも無理はないだろう。ディルクは思った。
まさか、全世界に向けて堂々と告白をしてみせた若い黄金竜が、その記念になるようにとそれを作り、世界中にばら撒いただけ――などと、そんな解釈をしてみせる輩が一体どこにいるだろう。
この世界に生きていれば、竜という存在が奇行を起こすことは珍しいことではない。
なにしろ百年以上前には世界を滅ぼしかけたこともある。
精霊も歯が立たないという竜の気紛れには、それに対して諦めて受け入れること以外の選択肢は普通、存在しない。
今回の件もそうだ。
ただ、その影響がほんの少しだけ深刻で、予想もつかないというだけさ――ディルクは胸の裡で呟いた。
他人事のような台詞だが、それが許されない立場であることはディルクも自覚している。
ただ、商人として人並みの野心を持っていただけだった自分が、いつの間にかとんでもないことに巻き込まれていることを皮肉ってみたくなったのだった。
なにしろ、件の黄金竜について――その黄金竜と関わる人々と、自分は浅くない繋がりを持っている。
世界を揺るがすこの珍事にして大事件に関係者として関わっていることに、今でも時々、笑いだしたくなることがあった。
もちろんその笑いの底には、沸々とした気分も含まれている。世界的な出来事の渦中に己がいるとなれば、意欲的な商人としては当然の感情だった。
今、ディルクが街外れに向かっているのもその用向きだった。
ギーツからやや離れた距離にあるメジハという辺鄙な田舎町からの馬車が着くのは、予定では今日の午後ということになっている。
街の外に伸びた街道まで繋がる道をあえて河川沿いを選んだのも、この街の現状を改めて体感しておくことで、やってくる相手へつぶさにその報告ができるのではと思ったからだった。
「――?」
不意に、背後で人の声が沸いた。
それまで耳を賑やかしていた喧騒とは種類の異なる大声は、悲鳴のようだった。
こういう場所での喧嘩は少なくない。
売買での揉め事。あるいはその隙を狙った置き引きか、掏りの類でも出たのかとディルクは後ろを振り返って、ぎょっと目を見開いた。
いつの間にか、一台の馬車がそこには現れていた。
元々がそれほど幅のある道ではない河川沿いには、物と人とが溢れている。
そんななかを馬車が通ろうとするのは非常識にも程があった。
たちまちに立ち往生してしまうどころか、まずこの場所に入ろうとすることすら困難に違いない。
実際、少し前にディルクが通った時には、そんな馬車はそこにはなかったはずだった。
しかし、今、目の前には確かに馬車が存在していて、二頭引きの馬が大きくいなないている。
周囲には突然の馬車に驚いた人達が慌てて身をひいて、何人かは地面に尻餅をついていた。
そうした反応を見る限り、馬車は今この瞬間にその場に現れたような気配だった。
ディルクが声もなく驚いているうちに、馬車の扉が開いて、そこからゆっくりと一人の女性が降りてきた。
その相手の姿を見て、ディルクはさらに目を剥いた。
「……まったく。まさか竜の姿で抱えられて街まで運ばれるのでは、と危惧はしましたけれど。さすがにこれは予想できません」
憮然とした表情で呟く絶世の美女は、ルクレティア・イミテーゼルという人物で、ディルクの見知った相手だった。
今から迎えにいこうと思っていた客である。
立ち居振る舞いから超然とした、貴族的な雰囲気の女性だった。
あまりの美人ぶりに周囲から溜息のようなものが漏れるが、当の本人はそうした視線など慣れきっているからか、まるで気にした様子もなく、ふとこちらに涼やかな視線を向けて、
「あら、ディルクさん。お出迎えありがとうございます」
「ええ――まあ。なんと言いますか、……お早いお着きでしたね」
内心の驚きをなんとか取り繕おうと努力しながら、ディルクは言った。
金髪の女性、ルクレティアはにこりともせず、代わりに軽く目線を下げて謝意を示してみせる。
「ご迷惑をかけてすみません。たった今、着いたばかりなのですけれど。こんな場所に出てくることになるとは思いもしませんでした」
「ああ……なるほど」
まったく事情はわからなかったが、わかった風にディルクは頷いた。
馬車には他にも乗っている人物がいた。
「うわあ。ストロフライさん、こんな人が多いところに」
ルクレティアに遅れて馬車から降りてきた二人のうち、一人はディルクも知っている相手だった。
眉をひそめている、髪を短くした活発な印象の少女は、確かカーラといったはずだ。
健康的な素肌が眩しく映る、ルクレティアとは違った意味の魅力を持った人物だった。
そして、もう一人は――
その相手を見た瞬間、ディルクは背中にうすら寒いものを覚えた。
特に目立った外見の持ち主ではなかった。
一人目の女性のように誰もが目を奪われてしまう華やかな美貌ではなく、かといって二人目の少女のように、誰もが親しみを覚える類の爽やかさもない。
造作としては地味で、儚げな印象がある。
すとんと落ちた金髪。身に着けた衣服は小奇麗だが、それも含めて、人ごみに紛れればほとんど目立つことはないだろう。
だが、異様に目をひいた。
ディルクの意識を集めたのは相手の首筋だった。
いかにも高級だとわかる薄手の生地が、包帯のように巻かれている。
その丁寧な巻かれ方が、何故かひどく生々しく感じられた。まるで、今にもそこから血が溢れてきそうな程に。
「こんにちは」
女が微笑む。
少女のように老成した笑い方だ、とディルクは思った。
「はじめまして、ユスティスと言います。お名前を伺ってもよろしいかしら?」
「ああ、これは失礼いたしました。ディルク・スウェッダと申します。商人をしております」
貴人に対する態度で応えながら、ディルクは胸のうちで相手の名前を反芻していた。
ユスティスという名前には憶えがある。その名の持ち主について、ルクレティアから要請を受けてあちこちに探りを入れたのはディルク自身だった。
レスルート国の、存在しないはずの王女。いや、元王女。
その相手が今この場にいることに驚きを覚えながら、ディルクはちらとルクレティアに目をやった。
こちらの内心を読んだように、美貌の女性が小さく頷いてくる。
「ディルクさん。申し訳ありませんが、案内をお願いできますか。いつまでも馬車がこんなところにいては、周りの方々のご迷惑になってしまうでしょうから」
「確かに。その方がよさそうですね。それでは、まずは商館にご案内いたします」
「よろしくお願いします。カーラ、ユスティス、馬車に戻りましょう」
「ええ、戻ってしまわないと駄目ですか?」
ユスティスが上品に眉をひそめた。
「こんな風に人が多いところ、私、はじめてなの。お姉さま、歩いていってはいけない?」
「駄目です」
ルクレティアが言った。
不満そうに頬を膨らませるユスティスに冷ややかな一瞥を向けて、
「人が多いからこそ、危険でしょう」
「私が“変えて”しまうから? 大丈夫よ、そんなことしないわ」
「はじめてだと自分で言ったではありませんか。興奮すれば、なにが起こるかわかりません」
「信用ないのね」
「信用して欲しければ、まず行動をなさい」
冷たい視線がぶつかり合う。
二人のあいだに険悪な雰囲気が生まれ、ディルクはそこに口を挟むこともできなかった。
商人として口先で場を和ませることなど得意中の得意であるはずなのに、身体が動かない。
目の前には、それ程までに不吉な気配が渦を巻いていた。
「まあまあ。ユスティスさん、ずっと馬車にいなきゃいけないわけでもないんだから。あとで、もう少し落ち着いた場所なら街にも出られるよ。ルクレティア、そうでしょう?」
カーラが仲裁に入った。
ルクレティアがちらと視線を向けて、
「……そうですわね。勝手にうろつかれては困りますが」
「ほら。ね? ユスティスさん」
なだめられた元王女は不満そうな表情のまま、はあっとこれみよがしにため息をついた。
「わかりました」
残念そうに馬車へ戻っていく。
ルクレティアがそれに続き、最後にカーラが馬車に乗り込もうとする前に、ディルクは彼女の肩をつついて自分の近くに呼び寄せた。
「どうしました?」
不思議そうにするカーラに、顔をしかめて近づける。
「……マギさんは、いらっしゃらないのですか?」
「あ、マスターはお留守番です。ちょっと、まだ体調が戻らなくて」
「ああ。そうでしたね。まだ戻られたばかりでしたか……」
ディルクはそっと息を吐く。
この世界から昼が失われ、何日もの間、闇に閉ざされたのはまだ記憶に新しい。
それが“竜の逢瀬”がもたらした影響であることを、メジハからの連絡で知ったディルクは絶句して、そして同時に、マギという一見すると冴えない風貌でしかない男に心から尊敬の念を抱いたものだった。
竜を倒す、といえば酒場で好まれる一番の英雄譚だが、竜と寝る、というのもそれと同等以上にとんでもない話ではある。
ディルクは以前、どうしてマギという男がルクレティアを侍らせることが出来ているのか疑問に思ったが――竜に選ばれるような男であれば不思議はなかった。確かに男は英雄だった。あるいは大馬鹿かもしれない。
とはいえ、
「体調不良であれば仕方がありませんが。……怨みますよ、マギさん」
カーラが戻り、扉が閉められた馬車からは険悪な気配が立ち昇っている。
その中でどんな言葉の応酬が交わされているかなど想像したくもない気分で、ディルクは沈鬱にため息をついた。
女を何人も侍らせている男が、その女達に挟まれてどれだけ困らせられようと、自業自得でしかない。
だが、それに自分が巻き込まれるとなると笑ってはいられなかった。
とりあえず、空の御者台にのぼり、周囲の人に散るように手を振りながら、ディルクはメジハの方角を見上げる。
その町近くの洞窟に住む稀代の英雄、あるいは大馬鹿が、今も傍らに誰かを侍らせてのんびり療養しているのだろうかと頭に思い浮かべると、なにやら妙に腹立たしく思えてきて、やや乱暴に鞭を振るった。
八つ当たりに文句を言うように、馬がいななく。
周囲のひとごみをかきわけるようにして、馬車は河川沿いを進み始めた。
◇
その頃。
件の洞窟では、冴えない風貌の男がスライム達に餌をやって一人で悦に入っていた。




