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狼花’s memory

ラストラン

作者: 狼花

 

 

 

 柔軟運動は念入りに。関節を和らげ、腱を伸ばす。ふかふかの芝生の上で身体を伸ばすと、ちくちくと足が痛痒い。


 シューズからスパイクに履き替えて、もう一度ピンを締め直す。履き古した相棒はすっかり足に馴染んで、固く紐を結べばもう脱げない。


 乾いた口の中を湿らすために、ペットボトルから水を含む。日照りのせいか、生ぬるい。


 髪を束ね直し、特注で造ったハチマキを頭に巻く。ユニフォームと同じ色調のそれ。刺繍された学校名を、おでこの真ん中に。


 ああ、吐きそう。でも、慣れた違和感。緊張と興奮が相まって、それがこみ上げてくる。大丈夫、すぐにこれも消える。


 招集が始まった。周りで待機していた他校生(ライバル)が一斉に立ち上がる。それを見て、着ていた体操服を脱いだ。そうすればユニフォーム姿だ。恥ずかしい? 何を今さら。これほど走りやすく、また誇らしい姿は他にない。だって、学校を背負っているのだ。仲間を背負っている。それにスパッツ着用なので、ご安心を。


 胸元と背中につけたナンバーカードをチェックしてもらう。許可をもらって、芝の地面からゴム製のレーンの上に入った。スパイクでここを歩く感触は、なんだか好きだ。


 テイクオーバーゾーン――バトン受け渡しをする二十メートル――の入り口に立って、そこから逆走する形で歩数を測る。これが私と彼女のベストな距離。

 測ったその場所に、テーピングテープを貼りつける。そこには直前に、仲間たちが書いてくれたメッセージがある。一度の競技会で使い捨ててしまうただの目印のテープではあるが、大事な思い出だ。丸めて捨てるなんてしない。


 所定地に戻ると、他の選手たちはそれぞれ走り出すタイミングをシミュレーションしている。が、あまり余分な体力は使いたくないのでやらない。


 脱力。腕をぷらぷらと揺らし、ただ行く先だけを見つめる。



 リレーの三走といえば――正直言って、あまり目立たないだろう。アンカーはいわずもがな、スターティングブロックを使って走り出す一走目や、エース区間と呼ばれる直線の二走。それに比べれば、三走はカーブであるという以外に言い様がないだろう。

 だが、三走は大事なポジションだ。エースから受け取ったバトンを、アンカーに繋げる。それだけでなく、三走はカーブゆえに技術が必要で、少々距離も短い。爆発的な瞬発力と技術が必要になる、なかなか難しい場所なのだ。


 私にとっては、自分が一年生のころから務めてきた大切な場所。私だけの場所。持久力のない自分にとって最高のポジション。ここですべての敵を抜き去り、アンカーに繋げる。それが私の役目だった。


 視線を斜め前へ向ければ、アンカーの彼女がそこにいる。真後ろを振り返れば、エースの彼女がいる。決められたこのレーンを、四人で駆け抜ける。なんて素敵だろう。個人競技だらけの陸上競技の中の、数少ない団体種目だ。



 競技場に、競技開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。身が引き締まる、耳に慣れたこの音楽――ああ、気持ち悪い。

 内側の一レーンから、学校名と選手名がアナウンスされた。呼ばれた学校の選手たちは、それぞれ手を挙げ、一礼。どこへ向かって一礼するのかは人それぞれだ――スタンド席や本部に向けて一礼する人、自校の生徒たちに一礼する人、審判のおじさんに一礼する人。

 私は、目の前にあるレーンに一礼する。神聖なこの競技場のレーン。過去に多くの大会記録や日本記録を叩きだしたこのレーンに、敬意を込めて。私も今からここを走ると、頭を下げる。


 我が校の名が読み上げられて、すぐ横の芝生席から盛大な拍手が聞こえた。私がいつも出発する三走というのは、実はいつも学校のテントの真ん前だった。移動も楽で、応援の声も一番よく聞こえる。この場所が好きだった。




 さあ、始まる――。



 (On)置について( your mark)


 遠くに見える、一走者たちが動く。一礼して、スターティングブロックに足をかけて身を低くする。クラウチングスタートだ。正直私は、バトンを持ったままあのポーズを取ることができない。持ち方は人それぞれだが、親指と人差し指だけでバトンを持ち、残りの三本で身体を支える――どう考えても、指が攣る。



 ようい(Set)


 腰を上げ、飛び出すポーズを取る。何百人何千人といる観客たちが、いっせいに静まり返った。この静寂が、大好きだ。すべての者が、注目している世界。



 号砲。


 運動会のピストルなんか生ぬるい、それが鳴った。瞬間、一走者たちがブロックを蹴って飛び出した。一瞬の間をあけて、大歓声が競技場を包み込んだ。

 一走もカーブゾーンだ。すぐに二走者へバトンは渡る。そもそも、リレー自体が四十秒から五十秒近くで終了してしまう一瞬の競技なのだ。目を他の場所へやる余裕などない。



 二走者。直線だからこそ後半の粘りと競る強さが必要な区間。大体、ここにエースを置くチームが多い。我が校も、そうだ。

 百メートル向こうにいた彼女の姿が、みるみる近くなっていく。ああ、これはなんだろう――そう、猛スピードの車が自分に向けて突っ込んでくるかのような恐怖。逃げることは許されず、待ち構えなければいけない。足が、震えた。


 他校の選手たちがそれぞれ構えを取る。が――別に私に構えなどない。せいぜい、身を低くして待つ。身体の向きは自陣の方向。右手でバトンを受け取るから、右手が二走方向、左手が四走方向だ。


 近づく。近づく。ぐんぐん近づく。

 彼女が、最初に貼ったテープを踏んだら走り出す手筈。あともう少し――というところで、私はふっと彼女ではなく、私が走るレーンの先へ目を向けた。



 彼女からすれば恐ろしいことだろう。

 もうあと数秒でバトンを渡す相手が、急に自分ではなく前方へ目を向けてしまったのだから。分かってはいるのだが、先を見ずにはいられない。何せ、走りだしから三走はカーブゾーンなのだ。直線の場所などない。うっかり真っ直ぐ走って、隣のレーンに入れば即失格。バトンの受け渡しから、カーブに沿って走らなければいけない。自分の道は、しっかり確認する必要があった。


 ようやく私は目線を彼女へと戻す。同じユニフォーム、同じハチマキ。仲間の彼女。



 彼女の足がテープに触れた。

 私は地面を蹴って走り出す。もう――あの吐き気は消えていた。



 加速。相手を見ながらバトンをもらうなんてことはしない。ひたすら前を見据えて加速。走り出した私に、全速力の相手がテイクオーバーゾーン内で追いついてくれる、そのための歩数。

「はいッ」と、息切れの混じった必死な声が聞こえる。今このとき、競技場は応援の声に包まれ、あちこちで同じようにバトンパスをする合図の「はい」という言葉が飛び交っていたが、不思議と他の声は聞こえない。もう二年近くバトンを繋いできた彼女の声だけ、鮮明だ。


 合図に応じて右腕を思い切り上へ跳ね上げる。いつもの場所に、彼女はバトンを差し出してくれていた。これぞバトンパスというべき、オーバーハンドパス。息のぴったり合った私たちのバトンパスは、おそらくこのときどのチームよりスムーズだ。

 私がバトンを奪い取る。彼女が私の手にバトンを押し込む。バチンと痛い音がした。心地良い痛さだ。


 バトンを受け取って、トップスピードに乗る。後ろから二走の彼女の「ファイト」という叫び声が聞こえた。自陣から部活の仲間たちが名前を連呼してくれる。それに背中を押されて、きついカーブを全力で駆け抜ける。


 前に選手がふたり。後ろから聞こえる別の誰かの駆ける足音。バトンパスのスムーズさでタイムロスも少なく、そのどさくさで一気に前の選手を抜く。後ろの足音も遠ざかった。

 最高だ。最高だ。思い切り走るのが、嬉しくて楽しい。



 アンカーの彼女が見えてきた。小学校からの親友だ。小学生のころは足の速さで運動会のチームを分けていたものだから、一度も彼女と同じチームになることはなかった。いつか一緒にリレーを組みたい、それが私たちの夢だった。それがいま、こうして叶っている。紆余曲折はあったが、大切な友人だ。そして今は、頼れる部長で我らがアンカー。


 私に向けて手を挙げていた彼女が、一気に走り出した。追いつけ、食らいつけ。バトンが彼女の手に届く位置まで来たところで、私もみなと同じように「はいっ」と合図の声を出す。跳ね上がった彼女の手が私の手からバトンをひったくり、私はバトンを手放した。その時私は、自分が握っていたバトンの色が赤だと気付いた。競技会によっては一走がバトンの色を選べるときがある。赤は勝利の赤だと言って、やたら赤いバトンにこだわっていた一走の彼女らしいチョイスだ。


 失速した私から、ぐんと彼女が遠ざかる。その背中へ向けて、名前を叫ぶ。百メートル走りきった息切れの中で、声は掠れていた。

 走り終えた走者が、次の走者へ叫ぶ。最初にやり始めたのは二個上の先輩だった。私が一年だった時、最後の夏の大会で。三年の先輩が私に向けて名前を呼んでくれた、ファイトと励ましてくれた。それが何より嬉しかった。一年の時から二、三年生と混じってリレーに出場していたというのは、誇らしくある半面でプレッシャーもあった。失敗してはいけない、勝たねばならない。その中で、先輩は私にバトンを託してくれた。確かあの時、先輩の引退が悲しくて泣いた覚えがある。


 だから私も、先輩と同じように。行け、と叫んだ。後半に伸びるタイプの我らが部長は、最後の最後でひとりを抜いた。それを見て、私はほっと息を吐く。


 日に焼けた頬が、ちりちりと熱い。日は傾きつつあって、少し薄暗かった。それでも競技場のレーンの上の熱気は強くて、陽炎の向こうにゆらゆらと景色が揺れている。

 レーンを少し戻って、テイクオーバーゾーンの入り口へ。そこには私と同じように、デコレーションされたテーピングが貼られていた。彼女が私とのバトンパスの目印に貼った印。それを剥がしたとき、ぽたりと額から汗が落ちて、地面に黒い痕が残った。


 テープを左手の甲に貼って、レーンから外へ出る。そこで応援してくれていた部の仲間が、お疲れさまと声をかけてくれる。笑って答えながら、私は三走のスタート地点へ歩いて戻った。

 向こうから、すでに走り終えていた一走と二走の彼女が笑顔で走ってきた。それを見れば、結果は明らかだ。勝ったのだ。私たちは、誰よりも速かったのだ。


 あとでみんなで、アンカーの部長を迎えに行こう。涙脆い彼女のこと、大泣きするに決まっている。


 顔を空へ向けると、昼間は感じなかったちょっぴり冷たい風が通り過ぎた。それが気持ち良くて、目を閉じる。走る前の緊張も興奮もすっかり沈静化して、気持ちは穏やかだった。やりきったという達成感と、ちょっとした虚無感。たった五十秒の中に、どれだけの思いが詰まっているのだろう。私の三年間のリレーに、どれだけの嬉しさと悔しさがあっただろう。

 けれどもう、終わりだ。


 私の夏は、これで終わったの(ゴール)だ。










★☆










 束の間閉じていた目を開けると、目の前に広がっていたのは、ゴムの地面ではなく砂っぽいグラウンドだった。


 コースを作っている白線は石灰の粉で、手作りらしい不恰好さがある。地面のでこぼこは、朝早くから運動部の人たちが頑張って埋めていたが、それでも完全ではない。スパイクを履くこともできず、テイクオーバーゾーンだって適当だ。セパレートレーンなのは最初だけで、すぐにインコースに入って良しのルール。男女ごちゃ混ぜに走る、――高校の体育祭のリレー。


 中学を最後に陸上から手を引いたのは――あまりに、中学の部活の印象が綺麗だったためだ。綺麗でないこともたくさんあった。顧問に怒られることも、部内で喧嘩したことも、結果が出せずに挫折を味わったこともあった。全部ひっくるめて、私はそれを「綺麗」と呼びたい。陸上強豪校ではなかった。県大会出場も毎回怪しかった。それでも私が大好きだった部活はあの中学の陸上部で、あの仲間たちだ。先輩たちだ。

 だから私は、もう今更新しい仲間も先輩も作りたくなかった。――そんな後ろ向きな考えで、私はスパイクを脱いだのだ。


 でも、それでも。リレーだけは譲りたくなかった。物心つく前から、毎年走ってきた体育祭の選抜リレー。もう陸上部ではない私は、実力で選抜されなければならない。

 衰えただろう。以前のようにはとても走れない。けれども、この高校の中で競うのだったら、負けない。意地と執念で、高校でもリレーは出場してきた。



 そして、今日この日。

 高校三年生、最後の体育祭。



 あの時は、中学三年生。最後の夏の大会。私の、選手としてのラストラン。

 今日は、高校三年生。最後の体育祭。私の、――そう、正真正銘の、ラストラン。



 高校卒業後、体育祭でリレーを走る機会なんてあるだろうか。そう考えれば、これが最後のリレーだった。

 うちの高校は、運動部が少ないせいか――学校全体として、あまり体育祭に乗り気でないのが現状だ。正直、外に出たくないという人が大半だろう。でも元々私は体育祭が好きだったし、リレーは見るより走る方が断然好きだった。というか、走れないのならリレーなんて見たくないほどだ。


 体育祭のトリである選抜リレーに、私ほどの想いを抱えてスタートラインに立つ者がいるだろうか。きっと、いない。体育祭のリレーに何をそこまで、というほうが多いだろう。実際に、「走ることの何が楽しいの?」「リレーってそんなに出たいの?」と面と向かって聞かれた。それを聞いて、少々腹立たしい気持ちになったのだ。


 好きなものに、いちいち理由をつけねばならないのか。理路整然と自分がそれを好きな理由を述べられるようなものが、本当に好きなのか。私にとって好きなものは、言葉では説明しがたい、形のないものだ。それを説明しろなんて無理がある。どきどきする。ぞわぞわする。鳥肌が立って、心臓の鼓動が痛いくらいに速い。イメージするだけで、これだ。毎回自分でもよく無事でいられると思う。

 価値観の違いは、仕方がない。だから口を出すな。見れば分かるだろう、私はリレーに命を懸けてきたんだ。文字通り、選手としての命を懸けて。ライバルを蹴落とし、メンバーを組む顧問に必死にアピールして。それを、何も知らない人間に――つべこべ言われたくない。


 もうここに、走るのが好きだった部活の仲間はいない。気のいい先輩たちはいない。あの頃異端ではなかった私の考えは、ここでは異端だ。でも別に、それでいいじゃないか。

 冷めた雰囲気のこの高校の体育祭で、ひとりぐらい、私のようにリレーに燃えていたって。






 いつものように、気持ち悪い。三年前は毎週のように味わっていたこの気分も、最近では一年に一度しか感じない。が、私はまだこの感覚を覚えている。緊張と興奮が、湧き上がってくる感覚。大好きだった、あの感覚。

 とんとん、と拳で喉のあたりを叩いた。そんなことをして治るわけではないが、気休めに。


 前走者が走り出したのを見送って、私はレーンに入る。吐き気――つまり緊張はピークだった。ああ、始まる。ああ、終わってしまう。


 足の腱を伸ばす。柔軟運動は昼休みの間に済ませておいた。靴は、現役時代に履いていたランニングシューズ。この日のために、おろしてきた。


 拳を握る。午前中の綱引きで力を入れ過ぎたのか、あまり握力がない。でも、離さない。死んでもバトンを離すものか。


 あまり乗り気でなかった同級生たちも、さすがにリレーを前にすれば盛り上がるようだ。観客席で、みんな立ち上がって応援している。大好きな光景だ。

 私のチームは、どうも他のチームより遅れている。言葉を飾っても仕方がないが、最下位のようだ。まあ――いい。順位なんて、そんなに重要じゃない。いま私が求めているのは、そんなものじゃない。チームのためではなく、自己満足で走りたいのだから。


 男子は一周二百メートル、女子は半周百メートル。男子にはご愁傷様と言う他にない。ぐだぐだになりながら、他チームの選手が最終コーナーを曲がって直線に入った。隣にいる次の走者たちが次々とテイクオーバーゾーンを走り出し、バトンを繋いでいく。

 私のチームの選手も、少し遅れてそこに入ってきた。

 その姿を見て――吐き気と、身体の震えが止まった。


 ハアッ、と息を吐き出した。腰を低く落とす。腕をあげて身構える。そんな構えを取る人間、体育祭の場にいなかった。やるつもりはなかったのに、自然と構えを取ってしまったのだ。これも癖、か。

 いつかのように、自分が進むレーンの先を見る。確認して、また走ってくる選手に視線を戻す。


 バトンパスのへったくれもありはしない。直前に、「俺左手で渡すからね」と言われただけだ。相手は私に合わせてくれるようだが――私はどんなパスだろうと奪い取る。バトンは渡すものではなく、奪うもの。それが現役からの私のポリシーだった。


 適当なところで走り出す。やはり加速はつかないが、丁度いい。さすがに本格的にはできないから、後ろを見ながらバトンを引っ掴んだ。


 バトンが渡された瞬間。次走者が走り出す瞬間。その時、観客はわっと盛り上がる。それが、大好きだった。世界が私に注目している、そんな錯覚にさえ陥る。

 

 加速する。その感覚は、身体が覚えていた。速い、という声がどこかで聞こえた気がした。

 でこぼこな地面は私の大敵だ。一瞬、足が地面を踏み損ねてふわりと身体が浮きかける。必死に堪えて、先に進む。

 前を行く敵チームの姿は遠い。随分と大差つけられたものだ。百メートル程度じゃ追い抜かせないし、多分――順位がひっくり返ることもなかろう。


 左に曲がるカーブは、懐かしい。身体を傾けながら、走り抜ける。そこに次の走者が待っていた。


 走れ、と思った瞬間にチームメイトは駆けだした。ナイスタイミングだ。はい、と声をかけて相手の手にバトンを叩きこむ。ステンレス製だから痛かったかもしれない、申し訳ない。


 急には止まれない。大体の選手は渡したその場で止まるが、私はだいぶ先まで止まれずに進んでしまった。やっと向きを変えて、滑るように足を止める。


 やはり衰えたか。たったあれだけのことで、震えが収まっていたはずの膝はがくがく震えていて、息切れもひどい。けれども、そこにあったのはいつかと同じ達成感と、虚無感。

 終わった。


 顔を空に向ける。もう夕方だ。体育祭は、あともう少しで終わる。一足先に、私のひとつの物語が終わりを告げた。


 すっかり砂っぽくなったグラウンドを見る。

 中学の時の仲間たちは、それぞれの道へ進んだ。ある者は高校でも陸上を続け、ある者は途中で怪我をしてマネージャーへ転向した。ある者は陸上以外の部に入り、ある者はバイトに勤しんでいる。そしてまたある者は、中卒で社会人をやっている。

 陸上を続けなかった私も、また自分らしく、終止符を打つ。










 終わったよ、私の汗だくの青春。

 たくさんの夢と、希望と。

 涙と笑顔を、ありがとう。






※語釈※



・競技場

 陸上競技場。周回走路のトラックと、その内側で投擲や跳躍競技を行うフィールドがある。トラックの一周は四百メートル。



・スパイク

 陸上用スパイクシューズ。ピンは足の平に集中し、踵部分にはない。なぜかって、短距離を走るときは踵は使わないから。ピンの数は七つほど。



・ナンバーカード

 学校であらかじめ決められた番号。白い布に番号が書かれており、それをユニフォームの胸元と背中にそれぞれ安全ピンで留める。この番号で選手を登録し、プログラムにも記載されるので忘れると大変。感覚的にはサッカーのユニフォームの背番号と同じ。が、ちなみに作者の学校では毎回顧問が番号を変えていたので、あんまり愛着のある数字はない。



・テイクオーバーゾーン

 いわゆるバトンゾーン。バトンの受け渡しをするための二十メートルの区間。この間でバトンパスをしなければ失格となる。ちなみにこれより手前の位置で前走者を待つこともできる(=ブルーライン)が、バトンの受け渡しはあくまでもテイクオーバーゾーン内でなければならない。



・テーピングテープ

 一般的には関節などに巻き付け、負傷を予防、または悪化の予防をするもの。作者の学校ではリレーでバトンパスをする際の目印としてレーンに貼っていた。どうでもいいが、これを指でちぎるのを失敗するとそれは悲惨なことになる。走り終えたらちゃんとテーピングをはがして戻らないと、運営の人に怒られます。



・歩数

 歩く歩幅のことではない。靴のサイズを「一歩」として連続で数えていく。リレー以外でも、たとえば高跳びの選手が一番飛びやすい場所を示すために測る。まあ、普通に大股一歩で測る選手もいますが。



・4×100メートルリレー

 散々「リレー」と連呼してきたものの正体。「4継(=よんけい)」と呼ぶことも。ひとり百メートル、四人でバトンを繋ぐ。ちなみに男子世界記録はロンドン五輪でのジャマイカ・36秒84とのこと。



・スターティングブロック

 通称「スタブロ」。クラウチングスタートをする際に用いる道具。真ん中の直線状の部分にいくつか溝があり、選手は自分の構えにフィットする場所にブロックを装着し、そこに足をかける。ブロックの角度も調節できる。ちなみに、金属なので真夏は触るだけで熱い。レーンも熱い。指と膝両方火傷の危機。



・クラウチングスタート

 陸上短距離のスタートと言えばこれ。利き足(=最初に踏み出す方の足)を後ろに引き膝をつく。逆の膝は立てる。その位置にスターティングブロックをセットする。指はスタートラインすれすれの場所につく。一般的には親指と人差し指、中指などで全体重を支える。「位置について」でこの態勢で静止し、動いてしまえばやり直し。「ようい」の合図で腰をあげる。地味にこの態勢がキツい。動けばやり直し、もしくはフライングで即失格となる。ちなみに作者は号砲と同時に腕が限界で前に滑って転んだことがある。死にたい。



・オーバーハンドパス

 対義語はアンダーハンドパス。次走者が掌を上にして水平に腕を後ろにあげ、そこに前走者がバトンを押し込む。失敗が少ない分バトンパスでのタイムロスがある。逆にアンダーハンドパスは、次走者が掌を下にバトンを掴むような形で腰付近で腕を制止させ、そこに前走者がバトンを下から差し込む。難しいので国際大会などでは失敗がみられる。が、日本は昔からこれですね。ちなみに作者も現役時代、かっこつけてアンダーでしばらくバトンパスしていました。



・セパレートレーン

 対義語はオープンレーン。走るレーンが最初から最後まで決まっているのがセパレートレーンであるのに対して、オープンレーンは速いものから順々にインコースに入っていき、長距離走などでよく見られるのがこれである。


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― 新着の感想 ―
[良い点] たった五十秒を臨場感たっぷりに書ききってある前半、そしてクラスリレーの後半。 独特のぞくぞくするような高揚感が見事に表されていて、読んでいて引き込まれました。 [一言] 青春万歳!!!!!…
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