温羅と百襲媛
「カオル殿、大丈夫か?」
野太い声がカオルの意識を目覚めさせた。
「……温羅?」
「カオル殿に死なれたら、わしも化けて出れないので困りまする」
その角がふたつついた漆黒の鬼の面をつけた男は口元に笑みを浮かべていた。
黒のくさび帷子に、赤いマントのようなものを羽織っている。
ちょっと変わった忍者のような出で立ちである。
吉備津神社の「温羅伝承」によれば、鬼神「温羅」といえば化け物のようなイメージなのだが、実物は意外に小柄であった。
「あなた、私が口寄せしてもいないのに、どうして出てこれたの?」
当然の疑問である。
今は、風守カオルの式神として使役されてる身分であるから、単独で行動出来るのはおかしな話であった。
「いや、そこはいろいろと裏技と申しますか…………」
温羅は言葉を濁しつつ、言い訳をはじめた。
「昨今の吉備の国の『うらじゃ祭り』の盛り上がりによる霊力の上昇、それと、近くにある御崎八幡宮によるねっとわーく効果と言いますか、大地の龍脈のえねるぎーの素晴らしさ!なんではないかと思いまする」
何か訳の分からないことを語る鬼仮面の男が少しかわゆく見えてきた。
「カオル殿! だまされてはいけません! これはこの男のいつもの手です」
倭迹迹日百襲媛命と呼ばれ、卑弥呼にも匹敵する巫女として活躍していた天の羽衣をまとった可憐な姫神は、いつもながら、温羅に対しては手厳しかった。
「百襲媛さま、失礼ながら、あなたさまこそ、こんなに簡単に現世に降臨されては困ります。霊的均衡が崩れて自然災害の元です。神さまなのだから、少しは自重していただかないと」
カオルは百襲媛に対しては幾分、丁寧だった。
「残念ながら、カオル殿、ここは『常世』であるから心配無用である」
どや顔で、百襲媛は言い放った。
「その通り! 」
と温羅も賛同した。
「温羅殿、そなたは地域限定アイドル…………じゃなかった。地霊なのだから『常世』には来れないはずでは?」
さすがに、天才的洞察力で大和朝廷への謀反を見抜いたり、何度も危機を救った挙句に、三輪山の大物主という蛇神と神婚したがいいが、箸でほとを突いて死んだというとんでもない疑惑をかけられた百襲媛であった。残念な自己紹介になったが、いつも指摘が鋭い。
「いや、わしもそう思う。そのはずだが、いつのまにか来てしまった。何という主人思いの式神であろうかのう」
温羅は巧みに話をずらして、日本人の弱点である人情に訴えてきた。
いや、いつもながら、このおとぼけにはころっと騙されてしまってはいけないだろ!とカオルは思った。
「いや、それより、あそこにいる蛇神さまを何とかしないといけないとわしは思いまする」
温羅は流れるような弁舌で、さらに一同の注意を逸らせた。
彼の視線の先には、洞窟のようなものが続いていて、少し明るくなっている場所に、カオルを「常世」に落とした半透明でいて闇色の蛇神がとぐろを巻いていた。
三輪山の大物主の本体は蛇神だと言われていて、それはかつて、百襲媛が見抜いた通りであった。
隧穴信仰と呼ばれ、大地をほとに見立て神木の棒で突き、作物の豊穣を願うという信仰だという。神社の鳥居もその名残りで、大地に神木の柱を立てて、そこに木の棒を横に渡したのが今の形ですが、かつては雌雄のしめ縄が渡されていた。
それは隧穴の神である蛇の交尾を象徴していると言われている。
「確かに、その指摘は正しいわ」
と百襲媛は頷いた。さすがに温羅との間に三つ子を生んだ我がご先祖様の姫神は冷静である。
「とりあえず、意見が揃ったところで、いつものやつで攻めるわね」
カオルは背中の闇凪の剣を鞘走らせて両手で正中に構えた。
「温羅、私たちは突っ込むわよ。バックはモモソ姫さま、お願いします」
百襲媛は天の羽衣をひらひらさせて、まるで無重力の空間にいるように後ろにふわふわと跳んだ。いつもの後衛の位置につき、両手で印を結んで祝詞を唱え始めた。
温羅は洞窟の地面から駆け上がった壁を素早く走り抜けて、すでに蛇神に肉薄している。
温羅の背中の赤いマントから漆黒の金棒が出現し、蛇神の鎌首に一撃を見舞った。
当然、これぐらいではビクともしない。
が、その瞬間に注意を逸らされた蛇神の死角から、闇凪の剣が天井に向けて一閃した。
蛇神の鎌首は見事に両断された。
「火竜昇炎!」
百襲媛は祝詞の記された札を、祝と共に放ち、炎で洞窟の天井を焼き落とした。
その穴から地上へ向かって上昇していく。
カオルと温羅もそれに続いた。
突如、広大な空間がカオルたちの前に開けた。
だが、その地下世界には、ありえない生物が君臨していた。
翼のある蛇、九つ、正確には、今は八つの頭をもつ蛇神がこちらを睨んでいた。