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常世封じ道術士 風守カオル  作者: 坂崎文明
第一章 柊の木の呪い

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10/26

あとがき

 何とか「常世封じ道術士 風守カオル 第一章 柊の木の呪い編」が完結しました。


 第九章 「顔闇」を追加して、何となく尻切れトンボになっていた前半の話にオチをつけてみました。


 というか、全くオチになっていませんが。


 前半と後半が全く違う話のようになってしまったので、ちょっと後日談の蛇足を加えて、バランスを取るつもりが、話が終わらないホラーのようになってしまいました。


 一応、このお話、最後はホラーということで終わったようです。



 話は変わりますが、モモソ姫の箸墓伝説はいろいろと解釈がありますが、↓こちらの説が正しいのではないかと思います。



日本神話で「ほと」を突いて死ぬ女が何人かいましたが、 古代には本当にそんな死...

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095321700



ベストアンサーに選ばれた回答

akatamayorihimeさん


「ホトを箸で突いて死んだ」という伝承はまったくの誤情報です。この謎を解くには、箸墓古墳の主が存命だった頃の、纏向遺跡の地域の信仰形態を正しく見極めることがまず必要でしょう。


纏向型祭祀について研究なさっている方々は、高句麗国の東盟祭と共通性が高い、隧穴信仰だったことを明らかにしてきました。土坑の中に祭祀に用いられたものをそのまま捨て置く風習があったので、どのような祭祀が行われていたか、推理しやすいのです。分かってきたのは、現在の新嘗祭の原型となるものだった、ということです。高句麗国から伝来した日の巫女の王(斎王)の神道と姫姓を受け継ぐ当家では、今も東盟祭を非公開神事として行っています。私達社家の者の視点からも、纏向型祭祀は東盟祭と同じタイプのものだったと感じます。


一つ、絶対に見落としてはならないのは、丸木橋も丸い木の棒だから、昔は箸と呼ばれていたことです。食事のときに使う箸でホトを突いたと、現代人の常識感覚で判断するのは、間違いのモトです。高句麗でも大和の地でも、隧穴を豊穣を司る大地母神(現在の豊受大神)のホトに見立てて、これを隧神の男性のシンボルを象徴する箸(丸い木の棒)で突く神事が行われていました。ところが時代が下ってくると、しだいに現代の新嘗祭に近い豊穣祭の姿に移り変わって行ったため、「ホトを箸で突く」のが、翌年の多産(五穀豊穣)を祈願して行う神事だったことが、分からなくなっていってしまったらしいのです。昔の皇室神道は、巫女が託宣することを中心とした、女性継承の巫女神道でした。ところが、中国の影響で男性上位の発想が生まれた結果、男性が神前で神を敬う所作を行う祭祀が中心の神道へと変化していき、かろうじて斎宮制度は残ったものの、他の巫女達は祭祀の中心から排除されていったのです。その過程で、ホトを突く神事の意味も見失われていったと思われます。特に大きな意味を持っていたのは、宮中から天照大神と倭大国魂神の二柱の神が追い出されて、伊勢神宮の内宮と外宮に落ち着くまでのかなり長い間、各地をたらい回しにされた一件に象徴される、一大宗教改革です。これによって、宮中の祭祀の形態が大きく変わってしまったようなのです。


当家の故老の話では、本来は「この墓の主は、ホトを箸で突く神事を担当していた日の巫女の王だった」と言い伝えられていました。ところが、神事の実態を見失った男性神官達は、「ホトを箸で突く」という話は、古墳の主の死因を伝えたものに違いないと、身勝手な男性特有の空想を巡らして、捩じれた解釈の作文をやってしまったらしいのです。アカルヒメ(後の神功皇后&天照大神)の母親が、池のほとりで仮眠を取っているときに、水面で太陽の光が反射してホトを突き、太陽神(天照大神・男神)の子を身籠った、といった神話とのニアミスもあったようです(この話もじつは不正確に伝わっています。本当はホトを露わにして寝たりなどしません)。アカルヒメ(皇祖神・天照大神・若魂の日女神)が誕生したことを祝う非公開神事も当家では伝承しています。日矛鏡を沈めた池(鏡池)の上を巫女がポンと飛んで、ホトに日矛の光(太陽神の男性のシンボル)を当てて懐妊する過程を再現します。男衆の神官達は、巫女神道の神事に参加できないものだから、こういう話を又聞きすると、すぐに男性特有の空想を好き勝手膨らませて、あれこれ作文してしまう悪癖を持っているようです。天岩戸開きでも、巫女が桶の上で裸踊りをした、なんて破廉恥な作文をしてますからね。どこまでも困ったものです。


東盟祭の隧穴は、トンカラリン遺跡を見れば分かると思いますが、高句麗式の石組みで作られていて、人が入れるサイズの穴です。天岩戸開きの神事も行いますからね。隧穴がない地域では、井戸を代用するケースも多々あったらしく、井戸の底からも祭祀に用いた物が出てきます。したがって、大地母神のホトを突く箸のサイズも、それに合わせてかなりの大きさがあるのです。そんな大きなものが、人間のホトに刺さることは物理的にあり得ません。それが死因に繋がることは考えられないのです。したがって、ほぼ100%誤情報です。

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 纏向で行われていた祭祀は、高句麗などの東盟祭の隧穴信仰だと言われています。


 横穴式石室はその名残かもしれません。


 実は大阪湾の古地図に、新羅州、百済州という島の存在が記されています。

 渡来人が集落を作っていたようです。


「『前方後円墳』その起源を解明する」(藤田友治編著、ミネルヴァ書房)にそういう写真が載っていました。

http://www.amazon.co.jp/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%82%92%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%8E%A2%E6%B1%82-%E8%97%A4%E7%94%B0-%E5%8F%8B%E6%B2%BB/dp/4623031705


 それから考えると、高句麗の祭祀が新羅や百済経由で日本に来てるのは十分考えられます。


 隧穴がない地域では、井戸を代用とも言われています。

 井戸は地下世界、黄泉の国への入口だとも言われてますしね。


 九州の熊本のトンカラリンという遺跡にも大学の旅行で行ったことがありますが、隧穴信仰の遺跡だと言われています。


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高句麗王室の血を引くとされる、多氏の巫女神道の家では、

現在も、九州のトンカラリン遺跡の石組みと同じ系統の、地下神殿(隧穴)を用いて、

紀州の山中で古式の新嘗祭を行っているらしい。

非公開神事なので、直接列席して見学できないものの、

以前、セカンドライフと呼ばれるメタバース上のバーチャル神社で、

東盟際の詳細な内容に関する講義が、伝承されてきた所作などを交えて行われた。

残念だが、高句麗語の祝詞などはヒアリングが困難だったが、

新嘗祭へと変化していく流れを、発掘された遺物のレプリカを用いて、

順に辿っていく作業は、丁寧で見事だった。


http://ameblo.jp/314416tg/entry-11805565858.html

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この多氏(おおうじ/し)が纏向遺跡の祭祀に関わっていたことは確からしく、鏡作坐天照御魂神社というのがあったりします。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c05/


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太安万侶を輩出した多氏の故郷へ(記紀ルート02)



古くから稲作が栄えた“田原本”界隈は、

古代の有力氏族・多氏や鏡作氏の拠点だった。

『古事記』の撰録者とされる太安万侶は、その多氏の一員。

一時は“古事記偽書”説がささやかれ、

安万侶の存在を疑問視する見解もあったが、

名が刻まれた墓誌の発見により、実在論はほぼ決定的となった。

東に三輪山、西に二上山、南に畝傍山をのぞむ贅沢なパノラマの中で、

『古事記』を片手に、偉人の故郷に親しもう。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_kiki/k02/


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多氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B0%8F


皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明。神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人とする説もある[1]。

古族多氏の子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。

多氏の後裔でもっとも有名なのは阿蘇国造の後裔という肥後の阿蘇氏だが、阿蘇氏の多氏子孫説には多くの疑問があるとされる。阿蘇氏の祖神は健磐龍命であり、多氏とは別系統だが系譜を接合したともされる。筑後国の蒲池氏にもまた多氏の流れを汲むという説があるが、もとより伝承の域を出ない。

多氏の一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富郷に住む。甲斐国、信濃国の飫富氏は、その一族とされ、科野国造家もまた多氏の後裔というが、いずれも伝承以上のものではない。

また、関東の大族とされる桓武平氏を称する千葉氏は、多氏の部曲の多部おおべの後裔であるともされる。

戦国時代の丹羽氏も多氏の後裔と指摘されている。

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纒向遺跡とは? その調査と研究成果が示す全体像

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-10/2014_03_25.htm



鍵を握る氏族 多氏


多氏のなかでも最も有名なのが古事記の筆記者をつとめた太安萬侶おおのやすまろでしょう。しかし,なぜ太安萬侶が筆記者に選ばれたのでしょうか?その理由は「多氏古事記」という「古事記」が存在していて,「多氏古事記」が古事記のネタ本になったようなのです。「多氏古事記」の存在はほぼ確かです。なぜなら「土佐国風土記」逸文にも、「釈日本紀」にも「多氏古事記」について記載されているからです。それぞれ記載している内容が違いますが,いずれも、「多氏古事記」からの引用とあります。 これが本当なら多氏は日本の由緒正しい,古代からの氏族と言えると思います。一族の史書が国の史書になるというのは大変なことです。さらに古事記の出自を考えるとさらに恐ろしいことになります。古事記というのは天皇家の史書です。その天皇家の史書が多氏の史書となると天皇家=多氏,あるいは多氏が天皇家の親戚筋ということになります。まあ,事実古事記にはそのように記してあるわけですが。


 話は脱線しますが,「土佐風土記」に非常に興味深い記述があります。「世訓神字為三輪者,多氏古事紀曰」書き下し文「世に神の字を訓みて三輪と為すは,多氏古事記の曰すなり。」書き下し分にはあまり自信がありませんが意味はあっていると思います。つまり神氏=三輪氏だった訳です。そして三輪氏=賀茂氏です。三輪氏と賀茂氏は同族以上の関係です。古代からの賀茂氏集落を調べるとほとんどといっていいほど三輪氏の集落が隣接しているのです。つまり,賀茂氏=神氏だった訳です。そして賀茂氏を神氏と呼んでいたのは多氏だった。つまり,多氏にとって賀茂氏はまさに特別な存在であったことが分かります。


 さらにとんでもない発見がありました。籠神社の宮司である海部氏の系図,勘中系図がありますが,勘中系図をよくみるととんでもないことが書いてあるのです。 天村雲命-倭宿禰命-笠水彦命-笠津彦命-建田勢命-建諸隅命-日本得魂命-日本得魂命-意富那比命


意富那比命の意富はオフであり,多氏である可能性があります。つまり,海部氏は多氏だったのです。事実海部氏は自らを国津神ではなく,天津神に連なると宣言しています。さらに多氏系図と勘中系図を並べると

初代 神武天皇  天村雲命

二代 神八井耳命 倭宿禰命

三代 武宇都彦命 笠水彦命

四代 武速前命  笠津彦命

五代 武恵賀前  建田勢命

六代 武諸木命  建諸隅命

ここで六代に注目したいのですが武諸木命タケモロギノミコト建諸隅命タケモロズミノミコトの名前が酷似しています。この2人を同一人物だと考えると,初代から六代までがみな同一人物である可能性が出てきます。さらに籠神社の極秘伝によると天村雲命=神武天皇ということなので,初代から六代までがみな同一人物だということがほぼ確定されると思います。やはり海部氏は多氏だったのです。


さらに多の意味を韓国語で表すと「パタ」。多氏はパタ氏だったと考えられます。多氏は歴史のある時点で改名し,秦氏となったのではないでしょうか。「秦」を漢字破読法で読み解けば,三人ノ木。木とは柱と考えられますので三人ノ柱。古来,柱は神を数える単位に使われました。1柱の神,2柱の神というように。そう考えれば三人ノ柱は三人の神。多氏が秦氏になったのには三人の神への信仰が関係するかもしれません。つまり,彼らは新しい文化を受け入れて改名したのではないでしょうか。古代においては文化を運ぶのは人しかいませんでした。つまり,多氏の中に何者かが流入したということです。多氏が秦氏になったと考えると秦とかいて「ハタ」と読むこの歴史上の一つの謎が解き明かされたことになります。


http://melma.com/backnumber_190273_5199518/

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