突然の口づけ(3)
「いや、だから田村先生、真面目に聞いて下さい。磯辺の担任はあなたですよ。私はあんな小娘のために職を失う気はまったくないですからね」
「まあまあ、福井君落ち着いて。あの年頃の子は先生に恋をするものなんだから…。私も若い頃は男子生徒からよくラブレターをもらったものよ」
「いやいや、先生の若い頃と今は違うのですよ。今は保護者やマスコミがやかましいんですよ。それに変なことをする教員も増えた。さらに教員採用試験や管理職昇任試験での汚職ですよ。ちょっとでもやらかしたら、もうこの世界では食っていけません。それに男子と女子ではまったく扱いが違いますからね」
ここでやっとビールが来た。2人は乾いた喉にそれを流し込んだ。真夏のビールの味は格別である。さすがにあのままではやばいと考えて、磯辺の担任である田村先生に相談を持ちかけたのである。
初老とは思えない豪傑ぶりに、彼女にいろいろ相談を持ちかける人が多い。頼れる姉御は体育の先生であり、また生徒指導部長として男性教員顔負けの指導をする。その先生にラブレターとは命知らずもいたものだと思い、危うく吹き出しそうになった。
「確かに女子生徒からキスをされたとしても、周りから見れば、先生が力づくでキスしたように思われるよね。私もそう思うぐらいだから。これが男子生徒と女教師ならありえるんだろうけどね」
「ちょっと先生、冗談はよしてくださいよ。もし、私がそんなことをしていたら、こうやって先生に相談するはずないじゃないですか? そりゃ、ただの馬鹿ですよ」
先生は笑いながら、ゴメンと言った。そして、やっと来た刺身やたこわさびなどを私は先生に差し出した。先生はそれをつまみながら、ビールを流し込んだ。それから後を追って私も、刺身とたこわさびをつまんで、ビールで流し込んだ。
「あの娘は少し変わった所があって、三島由紀夫や夏目漱石の小説をよく読んでいたかな…。あと、絵が大好きで中学総文前まで美術部にいたのよ。それにあそこの家、夫婦の中があまりよくないらしいのよね。娘さんがたまに言うのよ。また、二人がケンカして、昨日はよく眠れなかったとね…」
今度は真面目に考えてくれているようだったので、少し安心した。いつの間にか肉じゃがと鶏の唐揚げが来ていたので、それを先生に勧めてから、口に入れた。
中学生に三島由紀夫や夏目漱石は難しいし、内容的にまだ早いと思うが、それを普通に読めるとは大した奴だ。私がそれらを普通に読めるようになったのは大学生になってからだったが…。
「体育のときの彼女はどうですか?」
「どうって? 特に目立った所もないからね…。強いて言えばコツコツ積み上げていくタイプかな?」
各学年4クラスしかないので、クラス替えは毎年あるものの、先生はほとんどもち上がりである。だから、基本的に3年間は同じ先生が同じ教科を教えることになる。
「そう言えば、福井君は去年この学校に移ってきたんだよね」
「はい、そうですが…」
「例えばさ、去年あの娘と何かあったりとかした?」
確か、去年の秋からだったと思う。彼女が質問しに社会科準備室に訪ねるようになったのは…。そう言えば、あの頃、雨の日に傘が盗まれる事件が頻発していて、磯辺のその被害にあったんだっけ…。
傘がなくて困っている彼女と偶然出くわしたから、傘を貸してあげたような気がする。ああ、きっと、これがきっかけだろう。このことを田村先生に話した。
「それだよ! それ! それがきっかけであの娘は君に好意を抱くようになったんだよ」
「いくら中学生でも、そんなに単純に好意を抱くものですか?」
「そんなもんだよ。特に中学生ぐらいの子は…」
いつの間にか中ジョッキビール2杯を飲み干していた。時計を見るともう10時を回っていたので、今日の所はこの辺で切り上げることとなった。一応、先生から磯辺に「もっと勉強に集中するように」と注意してもらうようにお願いしておいた。
お盆になって、やっと一週間ほど休みが取れた。久々に実家に帰ろうと思ったが、帰っても親とケンカするだけだと思い、帰省をするのはやめた。かわりに少し遅めのお中元を実家に贈っておいた。そして、電話で仕事が混んでいるから正月に帰ると告げておいた。
田村先生がうまくやってくれたおかげで、ここ何日か磯辺は大人しかった。何でも先生が「夏を制するものは、受験を制する」と磯辺に最もらしく話してくれたらしい。
家でゴロゴロしていると、いつもなら忙しさにかまけて考えないようにしていることも、暇に任せて考えてしまう。ずっと記憶の底に沈めて、意識しないようにしていることまでが浮かんでくる。特にあのことは絶対に思い出したくなかったのに…。磯辺のせいだ。
彼女が変なことさえしなければ、15年前のことを思い出すこともなかったのに…。いろんなことがいっぺんにおきた中学3年の夏の出来事…。