突然の口づけ(1)
あまりにも突然の出来事でびっくりした。女子生徒にいきなり口付けされたのだから…。急に磯辺あおいの顔が近付いてきたと思ったら、唇と唇か触れた。すごく生暖かく、ほのかにいい香りが口の中に広がった。
すると、彼女は足早に社会科準備室から出て行った。一人残された教室には西日が差し込み、セミの声がうるさく響いた。すごく暑かったはずなのに、あまりにも現実離れした出来事のせいで冷汗をかいていた。去り際の彼女はなぜか泣いていた。
何が何だか全然わからなかった。私が無理矢理くちびるを奪ったなら、まだ分かる。しかし、くちびるを奪われたのは私だ。男は唇を奪われて喜ぶことはあっても、けして泣いたりはしない。
彼女の足音が旧校舎をこだましながら、だんだん聞こえなくなるのを意味もなく待ってから、職場を後にした。
一体、何だって言うんだよ…。こんな誤解されるようなことは止めて欲しいものである。こんなことで仕事を失いたくないと言うのに…。
昼間の校舎は夕方とうって変わって活気がある。夏休みだからこそ、それぞれが野球やサッカーなどの部活に打ち込んでいた。夏休みを前にして、3年生は最後の試合である中学総体を終えて引退する。
そして、それまで押さえつけられていた2年生が主導権を握る。2年生は自分たちのやりたいように練習ができるようになったことを喜んでいるかのように、のびのびと楽しそうに練習をしていた。意外だが、夏休みは新しいことが始まる季節でもある。3年生にとっては長いようで短い受験生活に突入する時期となる。
コンコンと社会科準備室のドアを叩く音がする。「どうぞ」と声をかける同時に「失礼します」と言って、親子そろって入ってくる。中3の夏休みの恒例行事、三者面談である。
クラス担任と生徒、その保護者が生徒の今後の進路をどうするかクーラーのない蒸し暑い部屋で話し合うのである。ここで第一回県下一斉テストや普段の定期テストなどの結果と照らし合わせながら、3人で生徒の志望校を絞り込んでいくのである。
と、言ってもほとんどが保護者の言いなりになっている生徒ばかりで、事実上保護者と2人で話し合っているようなものだが…。まったく、3年生のクラス担任ほど大変なものはない。
1人の生徒につき、だいたい20分ぐらいかかる。長くても30分後には次が来るので、それまでには何とか話をまとめないといけないから大変である。一学期の間、生徒に対して何回も進路希望調査を行い、どの高校へ行きたいかを保護者としっかり話し合うように言っても、それをきちんとやってくれない家庭も意外と多いのである。そうやって、多いときには十組ほどの生徒・保護者と面談することになる。気がつけば、もう夕方である。
夏休みだと言うのに3年生を受け持っているだけで仕事量がまったく違う。いつもなら、夏休みはもっとゆっくりできると言うのに…。これでは正規の授業があっているときと何も変わらない…。こなしても、こなしても仕事が次から次にやってくる。
まるで仕事が永遠に終わらないような錯覚に陥る。それですごく嫌な気持ちになった。明日も朝から三者面談があるので、もうさっさと帰ってビールでも飲んで寝ようと思ったときである。突然、ドンドンと音がしてびっくりした。誰かが準備室のドアを叩いていた。
「福井先生、磯辺です。相談したいことがあるので入ってもいいですか?」
疲れたときにあまり関わりたくない相手であった。この前のこともあるし、もう7時半でいくら夏でも暗くなり始めていた。なんで夏休みのこんな時間に学校にいるんだ? 突っ込みたいことはたくさんあったが、こんな遅い時間に彼女の相手をするのは賢明でないと思った。
「磯辺、申し訳ない。先生、今日の夜、大切な人と会う用事があるんだ。だから、もう帰らないといけないんだ。その代わり、明日の午後3時なら三者面談がないから、その時間でいいなら相談に乗れる。でも、先生なんかよりも、君のクラスの担任の田村先生に相談した方がいいんじゃないかな?」
しばらく、沈黙が続いた。ドア一枚を隔てているものの、彼女が近くにいると言うだけでも嫌だった。また、誤解されるような変なことをされたら、たまったものではない。早く帰ればいいのに…と強く思った。
「いいえ、このことは福井先生に相談しないとダメなんです」
「そうか、わかった。明日の午後3時だぞ」
「はい、わかりました」
そう言って磯辺はようやくここを去った。それにしても、彼女が去るまでのわずか3分ほどがとても長く感じられた。一組の三者面談にかかる時間よりも長く感じられたほどだ。それから彼女と出くわしませんように…と祈りつつ、そそくさと家に帰った。