出会いの夜
戦国小説の連作。時間的には斎藤道三の娘帰蝶が、織田家へ嫁いだ日の夜です。
……婚儀などという面倒なものはいらぬ。
美濃の斎藤道三の娘、帰蝶の婿となる織田上総介信秀の長男である信長は、婚儀について傅役の平手政秀に持ちかけられたときにそう答えたという。
「若様と来たら奥方を迎えるご自覚もなく、濃姫様におかれましては全く申し訳ない事で……」
もちろん、信長の発言について平手政秀が自分から進んで帰蝶に伝えた訳ではない。城下の噂は一通り集めさせることにしている。城下で噂になるほどだ、恐らく信長は平手政秀だけでなく、他の近侍の者たちにも同じように告げているのだろう。信長本人は美濃からやってきた正室の事など全く眼中にない様子で、相変わらず城下を走り回っているようだ。
帰蝶は特別気にしてはいなかった。他人の意見に耳を貸すような人間でない事くらい、容易に想像はつく。
だから、
「構いませぬ。平手殿が信長殿に何事か申し上げても、聞き入れて下さる方とは到底思えませぬ故」
と思ったままを言っただけなのだが、平手政秀は幾重にも帰蝶に詫びて帰って行った。寒い季節であるにも関わらず、彼の額はうっすらと汗ばんでいた。恐らく冷や汗の類であろうと帰蝶は分析した。特別感慨はない。平手政秀が退出するのを確かめてから、帰蝶は美濃から持ってきた碁盤を出させ、碁石を丁寧に並べていった。頭を真っ白にし、冷静になるのにはやはり囲碁がいちばん有効である。
美濃の姫を信長の正室に、と強く推したのは平手政秀と聞いてはいるが、一体どこを気に入って推してくれたのかは謎である。……最も、政略結婚が当たり前である昨今、帰蝶の人間性を見込んで婚儀の話が進んだとは思えない。尾張が望んだのは“斎藤道三の姫”ひいては“美濃との同盟関係”であり、“帰蝶”という姫個人ではない。
話が婚儀の事に戻るが、帰蝶を尾張に送ってきた父道三も、信長の父信秀の末娘(信長とは腹違いの、信秀の側室が生んだ姫だ)を帰蝶の兄義龍の正室として貰い受け、慌ただしく美濃へ引き上げていった。婚儀という形式などどうでもいいと考えているところは、道三も信長も似ていると感じる。
別れの挨拶の時間すら惜しんで自国へ帰っていく父の行列を見送りながら、まるで人浚いのようだと帰蝶は思った。父にとっては娘の婚儀よりも自国の情勢の方が心配というわけだ。当然だろう、帰蝶が父の立場であってもそのように動く。娘は人質、自分はいずれ父が尾張一国を手に入れるための駒に過ぎぬと帰蝶自身も自覚している。
父は既に美濃へ帰った以上、帰蝶にとっても形式なぞ最早どうでもよかった。。しかし尾張一国を治め織田家の嫡男たるもの、美濃一国の姫を正室として娶る一大事を盛大に行わない訳に行かぬ、天下にも尾張と美濃は縁戚にあると知らしめねばならぬ、そのように周囲に説得されて婚儀に臨んだ信長だった。帰蝶は彼の横顔を白無垢の影に見つめていた。彼は酷く面倒臭そうな顔で金屏風の前に座り、家臣たちの祝いの挨拶を受けていた。つまり帰蝶の夫とはそういう男であった。
帰蝶とて、100人が100人“政略だ”と断言するであろう今回の婚儀に殊更夢を持っていた訳ではない。斎藤が勝つかそれとも織田か、それは今のところ帰蝶の手一つにかかっていた。父の器量が上か、それとも新夫が勝るか、さすがの帰蝶も今はまだ計りかねる。
「……名は」
婚儀が終わった、俗に言う“初夜”と言われるこの日の晩。信長が生まれて初めて帰蝶に向けて発した一言がこれであった。
信長は昼間の茶筅髷をやめ、髪を下ろして褥の上に胡坐をかいていた。行灯が燃える音が僅かに響く。小さな灯りだが、彼の容姿を浮かび上がらせるには十分だった。白の単姿だ。わざと身分の低い者たちと同じような格好をしていた時とは打って変わって、豊かに流れ落ちる髪、鼻筋の通った美しい横顔が静かに照らされている。元より美男子であると、帰蝶は初対面のときから感じていた。
目の前に座っているこの男が、今日から自分の仕える夫だ。帰蝶は柄にもなく緊張しながら、
「はい、帰蝶と申します」
と返し、両手をついて平伏した。帰蝶とは本名であり、那古野城に来た今は“濃姫”と呼ばれる事の方が多い。美濃から来た姫、の意味で濃姫。美濃の御方様、と呼ぶ侍女もいた。いずれは後半に統一されていくのだろう。
信長は返事もせず、帰蝶に対する不遜な態度を崩さずに言った。
「そなたは当然預かり知らぬ事であろうが、儂は婚儀にそれなりに夢があってな」
婚儀など面倒だと言い切った信長が言うにはあまりにも信じられない一言である。帰蝶は平伏していた顔を上げた。
「蝮と天下に聞こえた斎藤家の姫だと言うからのう、どのような人間が来るのか考えておった。奥向きの姫か、それすら務まらぬ、何の役にも立たぬ者か、それとも」
そこで信長の瞳は獣を狩り取る険しい光を湛えた。視線の先は勿論、今宵正式に自らの正室になった帰蝶に向けられている。
「儂の寝首を掻きに来た間者か、という夢じゃ」
信長の想像は恐らく正しかった。帰蝶は文字通り、刺客であったかもしれない。美濃のためにならずば刺す。それは帰蝶が自ら父に申し出た事であったのだ。しかし今の帰蝶には――ひとまず今は、ということであるが――その意識はない。
「恐れながらそれは皆、楽しき夢であるとは申しあげかねまする」
打てば響く太鼓のように、しかし涼やかな声音で帰蝶は返した。
「なんじゃと?」
案の定、信長は語尾を上げた。帰蝶は微かな怒りをまともに受け取ることはない。彼がどこまで本意で言っているのかがわからぬ以上、これ以上怒りを煽る事もあるまいと考えたからだ。ひとまず従順に頷いておくに限る。手打ちにされては敵わない。言いたい事は言わせて貰うが。
「確かに仰りたい事は承りました。しかしわたくしとて、政略である婚儀とはいえ、夢がなかった訳ではございませぬ」
帰蝶が返すと、信長は湧き上がってきた怒りをひとまずおさめるつもりになったらしい。瞳に狡猾な光を浮かべながら、
「ほほう、そなたの持っている夢とはなんじゃ?」
と帰蝶に尋ねた。帰蝶は兄、斉藤義龍と同じように新夫に答えた。
「わたくしの夫となる方が天下を手にできる器量をお持ちの方なのか、そうではないのか、見極めるために美濃より参りました」
帰蝶の答えが気に入ったのか、信長は瞳をさらに輝かせた。狡猾さは少し薄れている。純粋な興味と言ったところのようだった。
「ほほう。して、そなたの目から見て儂の器量はなんと見る?」
「まだわかりませぬ。わたくしとて尾張に来て幾日も経ちませぬ。お会いしたのもお話したのも今宵が初めて、すぐに見極められるものではございませぬ」
ふーむ、と信長は頷く。一応帰蝶の説明に納得したという事なのだろうか。
「ではお濃」
お濃、と呼ばれて帰蝶ははっとした。さきほど帰蝶と名乗ったにも関わらず彼が呼んだのは、帰蝶がやって来た土地の一文字をとった呼称。あくまで自分とは馴れ合わぬとの意思表示であろうか。帰蝶はなぜか、肩を落としたい気持ちになった。
帰蝶とてひとりの姫だ。政略とはいえ、夫と仲睦まじく暮らせれば、と考えたことも一度や二度ではない。しかし……帰蝶は心中にて密かに思案した。自分は今日敵国から嫁いできたばかりの正室であることを失念していた。
美濃の蝮、帰蝶の父である斎藤道三は尾張一国の統一をようやく為し遂げた信秀にとっても信長にとっても脅威になるはずだった。だからこそ帰蝶を娶った。言わば自分は人質。わかっていたはずの事にもう一度帰蝶は打ちのめされる事となった。
信長は帰蝶の気分が落ち込んだのにも全く頓着せず、
「まだまだ先は長い。存分に儂の器量を見るが良いぞ。今宵は遅い。儂は寝む」
と早々に横になり、帰蝶に背を向けた。夫婦の初夜であればそれ相応の事はあろうが、信長はそんな事に全く頓着していなかった。恐らく明日も彼は野駆けに出る事だろう。正室を娶る前と同じように。
帰蝶は心の中にもどかしさを感じた。そこで背を向けた彼を呼ぼうとしたが、なんと呼んでよいのかわからない。しばらく思案した結果、
「……殿」
と、他に呼び方を見つけることができずに仕方なくそう呼んだ。またそう呼ばれた事もない信長は一度では気づかない。
「殿」
帰蝶がもう一度呼びかけると、信長は面倒臭そうに帰蝶の方に横たわっている体を向けた。儂の事であったな、などと言いながら。既に頭の中身は明日の事へ飛んでいるのだろう。
「わたくしの名は、帰蝶、と申します」
この事を伝えたかったのでは、恐らく帰蝶はなかった。今宵が初夜である事、まだ夫となった信長の事を何も知らない事、言いたい事は山のようにあったに違いないが、何故か彼女の口から飛び出したのは再びの名乗りだった。
「それがどうした」
帰蝶の逡巡を読んだかのように信長は言った。確かにそう言われても仕方のない事柄ではあった。帰蝶は自分の中から必死に言葉を探し、紡いでみた。
「“濃姫”と呼ばれる事にも、“お濃”と呼ばれる事にも慣れておりませぬ」
「じゃがそなたは美濃から来た姫。皆“濃姫様”とか“美濃の御方様”とか呼んでおるであろう」
信長が淀みなく答えたので、帰蝶は少なからず驚いた。婚儀で顔を合わせるまでは自分の事など何一つ知らないと思っていたのに、城内での呼び名も全て把握しているとは思わなかったからだ。
「ですが、わたくしの名は、帰蝶、と申します」
帰蝶は落ち着いた口調でもう一度繰り返した。自分でも理解できない程確信的な口調だった。聞いた信長はフン、と鼻を鳴らすと再び帰蝶に背を向けた。
帰蝶、と呼ばれる事に格別拘っていた訳ではない。帰蝶とは娘時代の名、今日より大名の嫡男の正室である。通常、正室は名など呼ばれない。名前すら残っていない正室を帰蝶は何人も知っている。しかし何故か、帰蝶は拘りたい気持ちになった。先ほど自分が名乗った“帰蝶”という名を信長が無視して“お濃”と呼んだ事に怒りを感じたのかもしれない。それとも今まで自分の事など省みずにいた癖に、婚儀などと面倒な事はいらぬなどと言っていた癖に、婚儀に夢があってな、などと言われた事も心の箍となったのかもしれない。
「そなたも寝むが良い。…………………………帰蝶」
夫が躊躇いがちに呼んだのはそれこそ彼女の望む呼び名で、帰蝶は軽く微笑むと――既に横たわっている夫には見えないとわかっているのに――、行灯の明かりを消して、夫となった男の隣に横たわった。彼に背を向けて。
帰蝶の胸にしまわれた懐剣の事は、未だ信長の預かり知らぬ事である。しかしともかく、これが織田信長とその正室の出会いの夜の出来事の一部始終である。