08.煌きによる閃き
なんだか頭が真っ白になってしまった。
此処に来て、やっと直面した問題の大きさを自覚した気がする。
なんとなく前世の記憶は邪魔なんじゃないかと思った、それはまさに正しかったんだ。
ただただ、前世の記憶が現世の邪魔をしてる。
でも、思い出してしまった経緯もわからないのに、忘れる術もない。
「あれぇ? 急にどうしたんだ?」
一気に脱力して、四肢を投げ出し湯殿の床にぺったりとうつ伏せて寝そべった私を見て、鳥の巣頭さんが間延びした声を上げた。
もうなんか、ちょっと投げやりな気分だ。
立ち直りの早さが取り得だったのに、今は立ち直る気力が湧いてこない。
というか、こんなの、どうやって立ち直ったらいいのか。
隣では、やっぱり昨日の今日で急に湯殿は不味かったかなあ、なんて鳥の巣頭さんが心配しているようなしていないような声の調子で呟いているけれど、もうそれを気にする気力さえない。
何とでも解釈して欲しい。
目を閉じて、何も見ず、何も考えない。
そんな風に思った私の耳に、唐突にザパーッと水を蹴散らすような音が聞こえた。
きっと閣下だろうけれど、もちろん目は開けない。
私はいっそもうこのまま、寝てしまおうかと思っていた。
眠っているのはただ気持ちよくて、何も考えなくて済むから。
眠ることは、人も魔獣もきっと変わらない。
でも、そんな私の意識を繋ぎとめるように再度、水音が響く。今度はまるで、湯殿のお湯を全部ぶちまけたんじゃないかというほどの音で、飛沫が私の身体にも飛んできて吃驚する。
――何ごと……?
「あーっ! 閣下、いきなり何をするんです! 驚くじゃありませんかっ」
鳥の巣頭さんの叫び声が耳をついて、一体閣下は何をしたんだろうと思ったけれど、それでも目を開けなかったのは、よくわからない私の意地だ。
でも流石に次の瞬間に起こったことには、私も目を開かざるをえなかった。
急に全身の毛がふわっと浮く様な感覚がして、水でびっしょり濡れて重くなっていた身体が軽くなった。
ちょっと甘い香りのする温かい風に、全身が包まれた感じだった。
不思議に思っていると次の瞬間、身体には慣れ始めてしまった、あの衝撃が。
――わしっ。
ぐぇっ。
……うん、なんか、なんだろう。
……私の真剣な物思いの雰囲気が、台無しな気がするのは……気のせい?
例の如く、私は閣下に鷲掴みにされてしまった。
脱力していたお腹に走った衝撃は結構なもので、ぐぇっ、という心の悲鳴では済まず、実際に“ギュッ”とか本当、何かが潰れるような声が口から出てしまった。
え、お腹の中のものとか、潰れてないよね?
持ち上げられ、反転させられて見えたのは、私の苦痛の声もなんのその、相変わらず仮面を着けた寸分違わない美貌の閣下のご尊顔だった。
――今度は何処に連れて行く気ですか……?
“わしっ”で“ぐぇっ”は、閣下が私を連れて何処かに移動する前触れなので、私はそう思った。
何処でもいいし、私の両脇を鷲掴む扱いの粗さももう諦めたけれど、小脇にぶら提げて運ぶのはやめて欲しいな、と思う。あれはお腹が圧迫されて、本当に苦しいから。
これは切実なので、一応じっと閣下を見つめて目で訴えておく。伝わらないだろうけれど。
心持ち恨めしさも込めて見つめていたけれど、閣下の表情はやっぱり全然変わらない。
仮面の奥の瞼が瞬くだけで、唇の端さえぴくりとも動かないのは、一種の特技だと思う。
何も解決していないのに、閣下の静かな瞳を見つめていると、不思議と気持ちが凪いで行く。
暗く沈んだ気持ちは完全には払拭されないけれど、少し離れた場所に追いやられたような気分だった。
空いた空間に、ちょっとだけ光が差したような。
不思議な気持ちで閣下の綺麗な色の瞳を見つめていると、閣下はスッと視線を上げて、そのまますたすたと湯殿を後にした。
湯殿を出る間際、私の視界にはどことなく項垂れる鳥の巣頭さんの姿が見えた。
よくは見えなかったけれど、頭から足の先まで全身びしょ濡れだった気がする。
一方で、閣下は何故か既に服を着ていた上に、髪の毛の先すらさらさらに乾いていた。
閣下のきらきらしさを助長するほんのり湯上りで色づいた肌と唇、そして石鹸の甘く爽やかな香りだけが、閣下が確かに湯浴みをしていた証拠で。
――閣下、本当に一体何をしたの……?
閣下の目的地は、湯殿へ移動する前に居たあの広い一室だった。
移動している間、小脇に抱えなおされることはなくて一先ず安心していたけれど、閣下は部屋に入って奥へ進むと、そこでパッと私を掴む手を離した。
当然私は重力に従って落下するから凄く慌てた。
閣下は普通の男性より少し背が高い。今の私が後ろ足で立ったときの姿と比べれば、4倍以上は上だから、そんなところから落下したら大変なことになる、と思ったけれど、直ぐに質のいい弾力に受け止められて、少し跳ねた後心地いい生地に埋もれた。
あ、これ、きっと寝台だ。
今朝のシーツより少し色が濃いのは、使用人の人が取り替えたのかな?
私が汚してしまっただろうから少し気になっていたんだ。
私は仄かに花のような香りのするシーツの上でもぞもぞと体勢を立て直し、閣下を見上げた。
閣下はどうして私を寝台まで連れて来たんだろう?
もしかして、湯殿で私が目を瞑っていたから、眠くなったと思って寝かせようとしてくれているのかな?
確かに不貞寝する気満々だったんだけど、こんなに広くて質のいい寝台では眠れる気がしない。
だって、この寝台はきっと閣下のもので、他人の寝台では落ち着かないというのもだけど、前世は侍女で現世は身分もなにもない獣の私では、相応しくないと思う。
そんなことを考えながら、窓から差しこむ日差しできらきらしている閣下を見ると、閣下は私を見下ろしながら直立不動で言った。
「……此れは此処に置く」
……。
……意味がわからないよ。
もしかして、私を家具とか玩具とかと勘違いしてたりするんじゃ……。
ううん、もしかして枕だと思ってるのかも! 寝台の上だし!
だから、私は生き物ですよ、って言いたい。
それに、今のは明らかに……。
「閣下、それは“置く”ではなく“落とす”と言うんですよ。アハハハハ」
そうそう、……て、鳥の巣頭さん、いつの間に……?
振り返ると鳥の巣頭さんは給仕のカートを手にして、扉の前に立っていた。栗色の髪の毛はまだ湿っていて、無造作だった髪型は落ち着きを取り戻していた。
そっか、いきなり何を言い出すのかと思ったけれど、閣下は鳥の巣頭さんに気づいていて、鳥の巣頭さんにさっきの宣言(?)をしたのかな?
それよりも。
……やっぱりあれって寝癖だったの?
寝癖のままで主に対していたとか、そんなのでいいの? と疑問に思いながら見ていると、私は鳥の巣頭さんの服が乾いていることに気づいた。着替えたみたいだ。
え、でも、私たちにそれほど遅れないで現れたのに、鳥の巣頭さんは着替えて、給仕カートを手にこの部屋まで来た、ってことだよね。どんな魔法を使ったんだろう。早すぎない?
謎だらけな鳥の巣頭さんを凝視している私に気づかず、鳥の巣頭さんは給仕カートの上でお茶の準備を始めた。
「閣下、一先ずお茶にしませんか。閣下もその子も朝から何も口にしていないでしょう?」
言う間にも、紅茶の温かい香りがこちらまで届いてくる。
驚くことばかりで忘れていたけれど、私はおいしそうな香りにお腹の中が空っぽだったことに気づいた。
誘われるままにふらりと立ち上がった私は、次の瞬間あっという間にソファのところまで移動する。
……うん、“わしっ”で“ぐぇっ”の結果です。
ソファの前の机にいつも通り、ぼてっと“落とされた”私の前には薄っすらと湯気を立てるミルクが置かれた。
忘れそうになるけれど、私はまだ幼い獣の姿だ。たぶん、まだしっかりとした固形物は食べられないだろうから、ミルクだけというのは正しい判断だと思う。ちょっと味気ないけれど、ミルクは好きだから全然大丈夫!
甘い香りにお腹がくぅくぅと鳴り出した。
でも、私はまだ目の前のミルクには手(口…?)を付けずに、鳥の巣頭さんの給仕が終わるのを待った。
どう考えても、ここで一番身分の高いのは閣下だから、閣下が何か口にするまで待とうと思ったんだ。
机の上に乗っているのも落ち着かないし行儀が悪いと思うけれど、私をそこに置いたのは閣下だし、鳥の巣頭さんも特に何も言わないので、これは諦めることにした。
閣下の前には切り分けられた果物と焼き菓子のお皿、それから温かい湯気を立てる紅茶が置かれる。
閣下はゆっくりと紅茶のカップを手にして、口をつけた。
鳥の巣頭さんもそれを待っていたのか、閣下が紅茶を一口嚥下するのを確認して口を開く。
「それで、先ほどの“此処に置く”というのは?」
どう考えても傾けて飲むわけにはいかないミルクのお皿を見つめて、やっぱり直接舐めて飲むべきなんだろうなあ、と思いつつも迷っていたところへ、そんな言葉が聞こえて、私は顔を上げた。
「それは湯殿での私の質問の答えと受け止めてよろしいですか?」
え、と思う。
湯殿での質問って、何だったっけ……?
転生した私は男の子だったとか、貴重な魔獣のイェオラだったという驚きの事実が次々と出てきた所為で、何のことか咄嗟に思い出せなかった。
質問……、そういえば、湯殿で鳥の巣頭さんは、これから私をどうするか、というようなことを閣下に聞いていたのを思い出す。
それが切っ掛けで、私は自分の今後を考えたのだった。
私が閣下を見上げると、鳥の巣頭さんの言葉に本当に小さくだけど首を縦に振ったのがわかった。
「……。……彼はイェオラです。貴重なイェオラを此処に置くということがどういうことかは?」
何気ない“彼”という単語に少し肩が重くなったけれど、それよりも後半の言葉に私は意識を持っていかれた。
貴重なイェオラというのは間違いなく私のことで、此処に置くということは、このお屋敷で飼われるということだ。それは野生に放されることはないということを意味する。
それに、施設へ預けるのではなく此処に置くということは、成獣となって直ぐに繁殖の管理をされることはない、ということだ。
イェオラは誇り高く、寛容で、繊細でもある。急な環境の変化や、同属とはいえ目にしたことのないものに対しては強い警戒心を持つ。
つまり、施設で他の仲間と暮らしていたイェオラならばともかく、個人の屋敷で一頭のみで飼われていた場合、繁殖させるには長い時間を掛けて、相手と馴らす必要があるのだ。
――ああ、どうしてそれを思いつかなかったんだろう!
個人でイェオラを飼うのは危険ばかりが伴うから、絶対にこの人たちもその選択肢を選んでくれるとは思わなくて、頭から完全に失念してしまっていた。
けれど、閣下は此処に置くと言ってくれた。
閣下がそれを選んでくれるなら。
このお屋敷の主である閣下がその判断をしてくれたら、私は一先ず、この現実を受け入れていく猶予を与えられることになる。
「いくら閣下でも、色々と問題が……」
真剣な声で言う鳥の巣頭さんに、私は慌てた。
閣下や鳥の巣頭さんにはとても迷惑を掛けてしまうとしても、この選択を覆されてしまうのは本当に本当に困る。
私は目の前に置かれたミルクのお皿も蹴散らす勢いで、閣下の膝に跳び移った。
ちょっと脚力が足りなくて、閣下の膝までちゃんと届かずにずり落ちそうになったけれど、なんとかよじ登る。閣下はそんな私を手助けすることもなく眺めているだけだったけれど、気にしない。
軽薄な笑いを納めている鳥の巣頭さんを見上げ、直ぐに閣下に向き直って、お腹辺りにしがみ付いた。
此処から離れないぞ、という意味を込めて閣下を見上げていると、閣下はちらりと鳥の巣頭さんに視線を向けた。
それだけで、話は纏まったみたい。
鳥の巣頭さんからは小さな小さな溜息が聞こえた。
「……問題はありません」
よかった……!
ファラティアは忍耐強い子。