61.ほんの少しの猜疑
それから、泣き過ぎて目が腫れてしまったマローニ様は先に休んでもらうことになった。
直ぐに晩餐の時間になるから準備を手伝うと言って渋るマローニ様だったけれど、目元を冷やさないと明日はきっと大変なことになるしね。
アリアンナ殿下のところから戻ってきたばかりなのに、お屋敷の侍女に手伝ってもらって晩餐用のドレスに着替えたセイレア様は慌ただしく晩餐の席に向かった。今頃は閣下と複数お呼ばれしているというお客様たちとお食事をしているはずだ。
――うーん、それにしても遅い。
大人しくお部屋で待っていた私だけれど、思ったよりもなかなか晩餐から戻らないセイレア様に焦れて、扉の前で待ち構えているところ。
もう外はすっかり暗くなっている。今日は早めに戻るわ、なんて言っていたのに、セイレア様ったら何をしているんだろう。いやいや、楽しんでいるのならいいんだけれど! いち侍女の為に、貴族方の食事を急がせるなんてあってはならないことだし、うん!
でもね、久しぶりの再会だし、やっとの再会だし……なんていじいじしてしまう。
それになんだか、セイレア様のお部屋とはいえ、やっぱり客室の所為か落ち着かないんだ。エイトウェイ家のセイレア様のお部屋なら落ち着かないなんてことはないだろうし、人間の姿だったならやることもたくさんあったんだけれど、今の姿じゃ何もできないから本当に手持ち無沙汰だ。
閣下のお部屋なら、もうなれてしまったから、閣下がいないときの過ごし方も覚えてきたところなんだけれどなあ。寝台の側には私が上れるように踏み台も置かれているし、先に休むことだってできちゃう。
あ、ちなみに、私の夜ご飯はこっそり鳥の巣頭さんが持ってきてくれたんだけれど、安心した所為かとてもお腹がすいていたので、あっという間に食べ終わってしまった。美味しかったです。
「……ファラ?」
物思い?に耽っていたら、やっと部屋の扉が開いて、セイレア様が顔を出した。
「キュウ!」
「まあ! 扉の前で待っていたの?」
おかえりなさい! と思わず足に飛びつくと、セイレア様が驚きの声を上げた。
抱き上げられて頭を撫でられる。嬉しくてほんわかしてしまったけれど、セイレア様のお顔を見て、あれ、と思う。何故かものすごく疲れた顔をしている。
「キュ?」
どうしたんだろう、と首を傾げる私にひとつ苦笑を零した後、セイレア様はお化粧台の前に座って私を膝の上に乗せた。すぐに結い上げた髪をご自身でほどいていく。うぅ、もふもふな手では手伝えないのがもどかしい! 私のお仕事なのに!
髪を解したセイレア様は、ふぅ、と小さく吐息を吐いた。
「なんと言えばいいのかしら……。
ここへ来てから、ずっと静まりかえった夜に賑やかな鳥の囀りを聞いているような感じだったのだけれど、今日は“凍える”夜に空気を読まない強靭な鳥の雄叫びを聞かされているようだったわ」
「キュウ。……キュ?」
なるほど。――え、つまり、どういうことでしょう? さっぱりわからないです。
このお屋敷で夜に鳥の声なんて聞こえたことあったかな? 静かな夜なら気づくと思うんだけれど。今までそんなことあったかなあ? と、さらに首を傾げてしまう。しかも雄叫びってなんだろう。鳥って雄叫びをあげるんだったかな?
比喩にしても具体的例がわからず不思議すぎる言葉に首を左右に捻る私の頭をひと撫でして、セイレア様は少しだけ表情を和らげた。あ、このもふもふ感って、結構癒しの効果を持っていますか? えへへ。
しばらく私を撫で撫でした後、セイレア様はまた、ふぅとため息をついてからにっこりと笑った。
「今日は色々あって疲れてしまったから、もう休もうかしら」
「キュウ!」
それがいいです! と本当に疲れた顔をしているセイレア様に同意する。
以前よりも随分ほっそりしてしまったセイレア様が痛々しくて、すごく心配だ。今のセイレア様は少しは元気になったように見えるとはいえ、風が吹いたら倒れてしまうんじゃないかという危うさがある。その儚げな様子も女性として一つの魅力にはなっているけれど、やっぱりセイレア様は健康的な姿の方が、太陽みたいな微笑みが似合うと思うんだ。
「キュ、キュ」
さあ寝ましょう、今寝ましょうとセイレア様のお膝から飛び降りる私。でもセイレア様はお化粧台の上をごそごそしてからこちらに振り返った。
「寝る前に湯浴みをしておくわ。緊張もしたから、汗くらいは流さないと。――ねぇ、今日の石鹸はどちらがいいと思う?」
そう言って、小さな箱を二つ目の前に掲げられる。どちらも薄紫色の小箱だけれど、描かれている小花と漏れ出てくる香りが違う。
「キュ!」
私は迷いなく、セイレア様の左手にある小箱に鼻先をくっつけた。こちらは間違いなく、スイートマジョラムの香り!
スイートマジョラムは鎮静効果や誘眠作用があるから、緊張感を引き摺りつつお疲れのセイレア様にはぴったりなはずだ。
ちなみに、セイレア様が右手に持っているのはローズマリーの香りがするんだけれど、そちらは覚醒効果があるから、眠る前にはあまり相応しくない。
「……ありがとう」
にっこり笑ってセイレア様はスイートマジョラムの香りがする石鹸を持って、湯殿に向かった。
……それにしても、二つの石鹸の香りの違いは、もちろんセイレア様も知っているはずなのに、どうして私に選ばせたんだろう、と不思議に思う。専属の侍女としてついていた頃は確かに身の回りの管理は私がしていたから、香りのお勉強もしたし、セイレア様より詳しく知っていることもあると思う。だけど、ローズマリーとスイートマジョラムくらい効果が正反対のものはセイレア様だってご存知のはずなのになあ。
あ、でも二つの外箱の色は似たような色だし、あまりにも疲れすぎてどちらかわからなくなってしまったんだろうか。
「キュ!?」
石鹸についてうむうむと考えていたら、ふと、大変なことに気づいてしまった。
――セイレア様、お着替え持っていかなかった!
気づいて思わず全身の毛が膨らんでしまう。
客室には寝室の隣に湯殿があるから、お屋敷の侍女とか他人がこの時間に入ってくることはないけれど、それにしても身体を拭く布一枚で湯殿から出てくるのは淑女として褒められたことじゃない。
私は慌ててきょろきょろと寝室内を見まわした。きっと近くに衣装箱があるはず。
――あった!
大急ぎで衣装箱に飛びついた私だけれど、さてどうやって寝間着を取り出せばよいのか。
突然訪れた試練に頭を捻るも、よしっ、と意気込んで衣装箱の蓋にもふもふな手とちょっとしっとりしている鼻先を押し付け、力一杯押し上げてみた。
ぐぐぐ、と小さな身体を全力で上へ伸ばすと、薄っすらと衣装箱の蓋が開いた。魔獣の子の身体が結構な大きさだからできた芸当だと思う。意外に力持ちで助かった!
それから開いた隙間に頭を捻じ込んで、なんとか蓋を後ろへ落とすことができた。
ざっと綺麗に畳まれた寝間着を眺めて、ちらりと見えた薄桃色のふんわりした布に目を止める。
――あれにしよう!
セイレア様のお気に入り。ちょっと気分が滅入ったときに着ると気分が浮上するって言っていたやつだ。
少し短めの袖はひらひらのフリルがついていて、裾がふわっと広がっている柔らかい生地の寝間着。肌触りもとても気持ちいいんだよね。
いそいそと手を伸ばしかけて、はたと気づく。新しい問題が浮上した、どうしよう。
――この身体だと口で引っ張り出すのが一番早いけど、涎でべとべとになっちゃうよね……。
セイレア様にべとべとの寝間着を着せるわけにはいかない。ううん、セイレア様じゃなくても、獣の涎でべとべとの寝間着を着たいと思う人は世界中探してもいないよね。
それに、湯殿までどうやって運べばいいのか……。
うまく口を使わずに引っ張り出せたとしても、湯殿まで手で持ってはいけないし、かと言ってこの身体では長距離の二足歩行は無理。
うーん、と頭を悩ませていたら、救世主様が視界に映った。
――閃いたー!
私は寝間着を引っ張り出す前に、視界に入ってきた布を引っ張り出した。
ちょっとした荷物を包む布だ。これに寝間着を包んで、布の端を引っ張っていけば……完璧!
……なんて思ったものの、実際は幼獣の身体には物凄く重労働でした。
いや、寝間着を包んだ布を引っ張ること自体はそれほど大変じゃなかったんだ。だって、軽いしね。
でも、広げた布の上に寝間着を置くのが大変だった。何せ、寝間着を口で引っ張り出すことはできないから、不器用なこのもふもふの手と頭と全身で、衣装箱の中で全力のもぞもぞを披露してしまった。
やっと衣装箱から寝間着を出せたと思っても、布の上にひとまとめにすることもこれがまた大変で。
うーん、セイレア様、しっとりしたこのお鼻も存分に使ってしまった私をどうか許してくださいね。
そんなこんなで、最近は運動不足だった私にはかなりの重労働だったけれど、侍女として、私はやり遂げた!
ずるずると布を引き摺る白い毛玉はある意味異様な光景だっただろうけれど、誰も見ていないから問題ないよね、うん。
湯殿が薄っすら開いていたことに助けられ、無事、脱衣室に寝間着を届けることができた。流石に椅子の上に引き上げることはできなくて床に放置してきてしまったけれど、布に包まれているから汚れたりはしていないはず。
一仕事終えて湯殿から出た私は、思わず衣装箱の前でうつ伏せに大の字になってしまった。箱の蓋を戻す気力はもうありません。キュウ……。
ちょっと疲れてうつ伏せたままうつらうつらとしていると、セイレア様が湯殿から出てきた。
「……寝間着を届けてくれてありがとう。――あなた本当に、ファラ、なのね」
顔を上げたら、ほっとしたような、嬉しいような、でも悲しいような、複雑な表情をしたセイレア様が目に映った。
あと一話、セイレア様とのお話。
次からやっと、ファラ、人間になる、の巻。