幕間 影で動く者
「それにしても、縁とは不思議なものですね」
シェザリウスの前に温かい紅茶が差し出される。
芳しく立ち上る湯気が鼻腔を擽り、琥珀に薔薇の滴を垂らしたような美しい色が目を楽しませる。主の好みを熟知したセネジオが出す紅茶は風味も温度も適格で、非の打ち所などないだろうことは実際に飲まずとも知れた。
しかし、シェザリウスはカップを手に取ることはなく、ひたすらにそれを見つめている。
「閣下が生き物を拾って帰ること自体が万に一つと言える確率だというのに」
「…………」
喉が渇くほど喋っていない所為もあるが、常ならば機械的にでも飲んでいたはずだ。
水分は摂取するのに負担にならない。
だからシェザリウスは出された飲み物には必ずと言っていいほど口をつける。
だが、どうにも目の前の紅茶を飲む気にはなれなかった。
粗悪品を出されたわけでもなく、見るからに熱そうなわけでも温そうなわけでもない。香りも申し分なく、シェザリウスが最も気に入っている銘柄だとわかっているというのに。
――最も気に入りの銘柄……。
そうだ、そこが引っかかっていたのだ、とシェザリウスは得心した。
シェザリウスの嗜好に一番合っていた銘柄はそれなりの値が張るものだ。頻繁に購入することはできないとセネジオからも釘を刺されているほどのものである。
普段から散財しているわけではなくとも、切り詰められるなら切り詰める。大公位にありながら実に堅実な生活を送っていると言えるシェザリウスは、優秀な侍従によって紅茶でさえも制限が加えられているのである。
優秀な侍従曰く、どうせ高い買い物をするなら「もっと身になるもの」に使うべき、だそうだ。
ある意味、真理ではあるのだろうが、しかしその実、セネジオが件の紅茶を入れたがらない理由が他にもあることをシェザリウスは知っている。
シェザリウスの好む紅茶は、入れ方に相当の気を遣う必要がある繊細な品なのだ。湯の温度、蒸らし加減、注ぎ方からカップの温度に至るまで、いやそれ以前に茶葉の保存の仕方にも厳重を期する必要がある。一つでも扱いを疎かにすれば、途端に紅茶の風味は失われ、あるいは渋みが増してしまうため、取扱いに神経を削るのだ。
要するに、優秀なはずの侍従はそれらを単に面倒がっているということだ。
「閣下が珍しくも拾って帰った魔獣の中には実は人間の少女がいて、その少女が閣下の婚約者候補である方と深い関わりがあった、とは……」
「…………」
シェザリウスは目で飲み干そうとでも言うように紅茶を見つめた。
値段が張り、手間が掛かるため滅多に出されることのない紅茶が今、シェザリウスの目の前にある。
これはつまり。
――機嫌取りのつもりか。
「世間は狭いとは、良く言ったものです。……。今回のことが単なる偶然であれば、の話ですが」
「…………」
セネジオが横槍を入れたことで、セレスタはあの元主だとかいう令嬢に奪われてしまった。セネジオが余計なことを言わねば、セレスタの行方は現主であるシェザリウスの思う通りになったはずだというのに。
ただでさえヒトへの変化が制限され、赤髪の少女と見える機会が引き延ばされて気に入らぬ思いだったというのに、そこへ来て白い毛玉を手元にすら置いておけないとは。
考えるだに、全ては余計な口出しをしたセネジオの所為ではないかと思えてくる。
シェザリウスは碌にセネジオの話も聞かず、眉宇を顰めた。
目の前の紅茶は温かな湯気を上げているが、こちらの膝は妙にひんやりしている。
たとえ一等気に入りの銘柄だとしても、紅茶如きではセレスタの代わりになどなるはずもないのだ。
「閣下、聞いていますか? ……何故先程より機嫌が悪くなっているんです? これから重要なお話をしようというところなんですが」
「……あれを此方へ戻すという話ならば聞こう」
「違います」
被り気味に否定され、シェザリウスは優秀な“はずの”侍従を睥睨した。
「睨まれても現状は変わりませんよ。今更『やっぱり返せ』とも言えないでしょう」
「言える」
「物理的な話ではありません、体裁の話です。大公位に就く者が、そう簡単に判断を覆すことは良くありません」
「問題ない」
「大いにあります!」
「……」
「大体、セレスタだってあちらへ行くことを了承したのですから、閣下お一人が駄々を捏ねるものではありませんよ」
「…………」
無言の抗議を続けるシェザリウスに、セネジオは「諦めてください」と涼しい顔で言ってのけた。
さらにしつこく恨みの念を込めた睨みを利かせるも、セネジオはあっさりとかわして「高い紅茶なんですから、飲むまで片づけませんよ」などと釘を刺してくる。
結局、シェザリウスはむっつりと押し黙ったまま、すっかり冷めたカップを手にしたのだった。
「本題ですが」
風味の失われた温い紅茶を半分ほど喉に流し込んだ頃、セネジオが急くように切り出した。
シェザリウスとて、問題が山積していることくらいは自覚している。
セレスタのことは、二人(一人と一匹)が無事に元の姿に戻れることが確定した以外は解決していない。少しずつ紐解かれ始めてはいるのだろうが、いまだ見えないものが多すぎる。
先ほどは少々不満が重なり、大人げない態度を取った自覚もあったシェザリウスが黙ってカップをソーサーに戻せすと、背筋を心持伸ばして聞く態勢を取った。
それをみとめてセネジオは僅かに声を潜めるようにして言う。
「私には、今回のことが偶然であるのか、それとも仕組まれたことなのか判断がつきません。セレスタ自身に後ろ暗いところが無さそうなのは見ていればわかりますが、エイトウェイ嬢に関しては、長い付き合いがあるわけではありませんので……」
ジスダロワ伯の令嬢が登場したことに、誰より驚いていたのはセレスタだ。
それを考えれば、あの登場が二人の間で計画されていたものではない、という可能性の方が高い。
しかし、たとえセレスタが何も知らずとも、こちらの深くまで侵入を果たしているセレスタを利用してセイレアが己を同じ位置に捻じ込もうとした可能性は捨てきれないのだ。
「ジスダロワ伯の奥方が亡くなられたのは事実のようですし、エイトウェイ嬢のご様子を見ると、失踪した侍女を心配していたことに嘘偽りがあるようには見えませんでしたが……。貴族の間で流れる噂にも、嫉妬ややっかみからくる中傷紛いのものを除いてしまえば、エイトウェイ嬢は貴族社会には珍しく気安く、しかし決して品位に欠けるわけではない、芯の強い女性だ、というような肯定的な噂が多いようです」
多少の情報操作を考慮に入れても、セイレアの人となりに著しい欠陥はない。
シェザリウスの婚約者候補として隣立つに相応しい者を選んだのだから当たり前と言えば当たり前だ。だが、大公位の妻を務める者として流石に人物像だけで候補者を選ぶわけにもいかなかった事実がある。
条件が多岐に渡り、全ての候補者が精査できていたとは言い難いのだ。もちろん、セイレアも含めて。
しかも正直に言えば、シェザリウスが伴侶を持つことへの意識が限りなく薄かったことからも、候補者は体面的に決められたと言って差支えない程だった。
周囲の上位貴族たちや高官たちからの、魔力の高い者の血を残すべきだという声が高くなり、拒み切れなかった結果でもある。
己の理解を超えた力を恐れる癖に、それでも権威のために欲を掻くのだから見上げたものだとシェザリウスは冷めた気持ちで彼らを眺めていたのだが。
「エイトウェイ嬢は身分についてや生活において必要以上のものを求めるような性質ではないようです。爵位に対しても守る以上の執着があるわけではなく、己が持ち得るものではないことも理解しているようで、平民への差別意識もない様子。――事実、セレスタの中にいるファラティア嬢は孤児であったようですが、そんな彼女を拾って帰るなんてことをしでかすくらいですしね」
「しかし生き物を拾って帰って自分のものにしてしまうあたり、どこかの誰かと似ていますね?」などと続けて呟かれた言葉は、都合のいいことにシェザリウスの耳には届かなかった。
シェザリウスは思案するようにゆっくりと瞬きを繰り返した後、静かに口を開く。
「……お前はジスダロワ伯の令嬢が今回のことには直接的な関わりがないと思うか」
「そう、ですね……。今回のことで、エイトウェイ嬢に利点があることが思い当たらないので。あえて言うのであれば。
王妹殿下のところであの方がお話しくださったことが真実であれば、閣下との繋がりを深めようと考えていたわけではないようですし――と言うよりも、断ち切ろうとしていたようですからね。エイトウェイ嬢もまた、巻き込まれた側である可能性が高いのかもしれません」
確かに、今回のことでセイレアにはセレスタを通してシェザリウスとの関係に繋がりができ、また伯爵の娘程度では見えることなど滅多にできない、普段は神殿に仕えるアリアンナとも顔見知りとなった。
権力者との繋がりができることは悪いことでは無い。しかし、セイレアはシェザリウスの気に入りの魔獣を一晩とは言え寄越せと言ったのだ。シェザリウスの不興を買う行為である。
セレスタからこれまでのシェザリウスやアリアンナについて情報を引き出したいにしても、もっと穏便なやり方はいくらでもあったはず。それをあえてあのように強硬な態度を取ったのだから、少なくとも目的はシェザリウスやアリアンナに近づくことではなかったと考えるのが妥当なのかもしれない。
「それに、馬車が襲われたこともまた事実ならば、エイトウェイ嬢自身が何者かに狙われていた可能性もあります。ファラティア嬢はエイトウェイ嬢の格好をしていたようですから、エイトウェイ嬢自身を見たことのない者が間違えて馬車を襲った可能性があります」
セイレアの特徴と言えば、一番に目を惹くのが蜂蜜色の真っ直ぐな髪だ。上手く鬘でそれを装えていたのなら――。あとは目の色など、セイレア自身が言ったように同系統の色ということで勘違いを呼んだかもしれない。
目標者を間違えるということは、馬車を襲った者はもしかすると腕の無い暗殺者か、あるいは暗殺者ですらない可能性もある。
優れた影の者は目標の調査であっても手を抜かないし、人違いなど有り得ないからだ。
馬車を襲い、ファラティアに何かの魔法を掛けた。
その魔法も、どうやら完璧ではなかったようだ。
「馬車が襲われた場所は調査させます。街道ですから交通量が少ないとは言え、屋敷の裏の森ほどには現場は保全されていないでしょうが、何か手がかりが掴めるかもしれません」
少しでも情報が入れば、ファラティアを襲った者へと繋がる手がかりとなる。
上手くすれば、目的も掴めるかもしれない。
シェザリウスはセネジオへと頷きで返した。
「――ですが、先ほども申し上げた通り、現段階ではエイトウェイ嬢が何も関与していないとは断定できません。あの方を警戒の対象から外すほどの情報が揃っていませんので……」
確かにまだ何も確かなことが無い以上、断定することはとても危険なことだ。
これが小さな村に住む青年の周囲で起きたことなら、あるいはそれほど警戒せずに済んだのかもしれない。だが、シェザリウスは村人ではない。一度は国を背負ったことのある男だ。
そんな男のもとで予想もつかないことが起きているのだから、安全そうに見えるものからも目を逸らすわけにはいかなかった。
「エイトウェイ嬢には申し訳ありませんが、監視を付けさせていただこうと思います」
知られれば面倒なことになりそうだが、致し方ない処置だ。
主の様子を窺う侍従に、シェザリウスはちらりと視線を投げて簡潔に応えた。
「許可する」
セネジオは一度姿勢を正すと、黙って深く頭を下げて見せた。
上げた顔には、忙しくなりそうだ、と気を引き締めるような表情が浮かんでいた。
「――殿下の滞在なさっている客間にて、エイトウェイ嬢についていた影も気になります。こちらが気づいたことを悟って姿を隠したようですが、閣下の様子を探りに来たのか、殿下を探りに来たのか。もしくはエイトウェイ嬢についていたのか……セレスタのことがどこかから漏れていないとも言いきれませんね」
どれもあり得ることで、影の目的が誰なのか絞りきれない。
面倒だとは思うが、もしかすると今回のことに係わりのある者かもしれない。そう考えると、いい機会でもあるとシェザリウスには思えた。
「それについても調べさせろ。目的が何かは知らんが、事を成したわけでもないのなら必ずまた動くはずだ」
「御意」
優秀な侍従が早速行動を起こそうと茶器を片づけ、扉へと向かう。
その背に向かい、シェザリウスは先程よりも重く低い声で付け加えた。
「――お前の使う影に、ジスダロワの娘があれを連れて逃げぬよう目を光らせろ、とも伝えろ」
何より重要な命令だとでも言いたげな声の重さに、セネジオはゆっくり振り返ると丁寧に頭を下げた。
「――相畏まりました」
慇懃過ぎるほどの返事をした後、しかしセネジオは上体を起こした瞬間、ひょいと肩を竦めた。呆れかえって物も言えないようだ。それは少々シェザリウスの癇に障ったが、優秀な侍従は素早く扉の隙間に身を滑らせて消えた。