06.目を瞑れば極楽、耳を澄ますと驚愕
衝撃の真実を知ってから、閣下の小脇で揺れること少し。
広いお屋敷ではあるけれど、幸いなことに湯殿はあの部屋から近い場所にあったようで、到着までそう時間は掛からなかった。
もっと離れていたら、確実に何かが込み上げていた。お腹から。
近くてよかった。
心なしか、閣下の私に対する扱いは雑な気がする……。
湯殿に着くと、閣下はすぐに私を台の上に降ろした。
気のせいではなく、“降ろす”と言うよりも“落とす”ような感じだったのが気になるけれど、獣姿な私は着地のための足が四本もあるので、問題なかったから気にしないことにした。
多少胆を冷やしつつ、私は辺りを見渡してみる。
ここは脱衣のための部屋だ。
私が降ろされたのはその中に置いてある、人が一人ゆったりと寝そべることの出来る大きさの台で、たぶん、香油を塗り込んだりマッサージを受けたりするための場所だ。
セイレア様のお屋敷以外の湯殿を見たのは初めてだけど、とても広い。
この脱衣のための部屋だけでも、侍女の部屋が三つ分はありそうだ。
まあ、脱衣のためとは言っても、湯上りのほてりを冷ますための椅子があったり、今私が乗っているマッサージを受けたりするための空間もあるのだけれど、それでも有り余る広さだった。
壁には燭台が並んでいて、そのどれもに細かい飾り細工が施されている。
きっと、夜の暗闇の中でこの燭台に火を灯したら、さぞ幻想的な光景になるんだろう。
鼻を掠めるのは香油の香りだ。
ほんの少しだけ甘さのある落ち着いた香りは、沈静効果もあるのか、緊張続きだった気持ちがほろりと解けていくようで。
私は完全に油断していた。
心地いい香りに狭めていた視界に陰が差して、何気なく顔を上げてしまったのがいけなかった。
昨夜、気絶してそのまま眠りに就いたけれど、疲れが溜まっていたから、当然湯殿では警戒するべきことを怠ってしまった私が悪いんだけど――。
「! キュゥゥゥウウウッ!!」
湯殿には、幼い獣の悲痛な叫びが木霊した――。
結論を言うと、日の差し込む明るい室内で、正面から“閣下”を直視してしまいました……。
もうお嫁に行けない……。
そんな事件から少しの後、私は今、閣下に鷲掴まれたまま、ぐったりと湯船に浸かっている。
しっかりと両脇を掴まれているのでちょっと苦しいけれど、抵抗する気力がなかった。
あまりの衝撃に気力以外にも、色々失ってしまった気がする。
脱衣所での光景が瞼裏にちらついて、……。
……駄目だ。忘れよう。
到底忘れられそうにないけど、忘れる努力をする!
あまりに堂々と無防備な身体を晒す閣下を恨めしく思ってしまったけれど、閣下は何も悪くない。
今の私は閣下にとって、あくまでも幼い獣だ。性別なんてもの意識しない、そういう存在。
油断した私が悪かったんだ。
私は固く目を瞑りながら、自分に言い聞かせた。私を掴んでいる閣下は今も当然裸なので、目を開けると視界に映ってしまうのだ。
たとえ人間味の薄い、美しい身体だったとしても、直視はできない。
芸術作品といわれるものでも、裸体の彫像や絵画を見るのはどことなく後ろめたさを伴うのと一緒だと思う。
でもこれって、私が純粋な心で見ることが出来ていないってことなのかな?
普通は芸術ならば、何の躊躇いもなく眺められるもの……?
ところで私、そんな芸術作品のような閣下と一緒に、湯船に浸かってていいのかな?
だって私、湯殿に連れて来られてからまだ身体を流しただけで、汚れは落としていないのだ。
そう、閣下は浴室に入るなり、私に頭上から滝のようにお湯を被せただけ(あれには本当に驚いた。何せ、脱衣所の一件があったので目を瞑ったまま浴室に連れて行かれた直後だったから不意打ちで、衝撃が凄かった。でも目は死にそうでも開けなかったけどね)で、あとは今のように閣下が私の脇を鷲掴んで湯に浸かっているのだ。
小さい身体の私でも湯船に沈む恐れがないのはいいんだけれど、相変わらず扱いが雑だ。というよりも、閣下は力加減をわかっていないような気がする。
ちなみに、“閣下”目撃直後にも私は、わしっと掴まれて、ぐぇっとなった。
此処へ来てから、何度乙女らしくない悲鳴を上げればいいんだろう。
ちょっと悲しくなってしまった。
――それにしても、お湯、汚れてるんじゃないのかなあ?
さっきも言ったけれど、私はまだ汚れを落としたわけじゃなくて、お湯を頭から掛けられただけなんだ。
だから、きっと毛にこびり付いて固まった泥は完全には落ちていないし、毛の奥に入った埃やなんかも綺麗になっていない。
目を開けられないので確認は出来ないけれど、そんな私の汚れが滲み出してしまっているだろう湯船に一緒に浸かっていて、閣下は気持ち悪くないんだろうか?
疑問に思うけど、閣下からは特に居心地の悪そうな気配は感じない。
というか、動く気配も感じられない……。
閣下、生きてる……よね?
いやいや、脇を掴む手は一向に緩まないから、生きてはいるんだとおもうけれどね?
――ああ、それにしても、ちょっと逆上せそうかも……。
瞼裏の映像から意識を逸らすために色々と頭で考えていたのがいけないのか、人が浸かるのに丁度いい温度は獣には高すぎるのか、どちらかわからないけれど、ちょっと頭がぼうっとしてきた。
でも、閣下には動く気配はなく、当然放してくれそうにもない。私の両脇には未だ大きな手がしっかり巻き付いている。
どうしようか考えながら、流石にこれ以上は我慢できそうになくなってきて、もう湯船からあがりたいことを訴えるべく、目を瞑ったままちょっとだけ藻掻いてみたときだった。
――ザブンッ! ブクブクブクゥ――ッ。
…………。
――ザバンッ!
「ゲェッホッ、ゲェッホ! ――ゲホッ」
私は何がなんだかわからないまま、激しく咳き込んだ。
汚れ混じりのお湯を大量に飲んでしまって、苦しい。咳き込みすぎで喉が痛い。
――いったい何が……?
少し咳が落ち着いた頃に、あれだけ開けまいと我慢した瞼を開くと、目の前には私を掲げて、ほんの少し、心持ち、微妙に、首を傾げる閣下が居た。
――あれ。仮面着けたままだ……。お風呂なのに。
……。
じゃなくてっ!!
――明らかに今の衝撃は、閣下が突然私を湯船に沈めたのだ。
一瞬何が起きたのか分からなかったけど、思い切り閣下の手によって湯船の中へ引きずり込まれた感覚が、身体に残っている。
私は先ほどまで絶対に忘れられないだろうと思っていた瞼裏の映像もすっかり忘れ、閣下の顔を凝視した。
目の前の閣下はゆっくりと瞬きをしている。
仮面の下で長い睫毛が静かに数度上下するのを見て、――私は。
ガブゥッ!
……。
……。
カッとなってやりました。
でも後悔はしてません。
いくら温厚な私でも、動物虐待は許せない!
私は身体を捩って、私の脇を掴む閣下の左手に噛み付いたまま、フーフーと威嚇の鼻息をもらしつつ閣下を睨みつけてやった。
いきなり陸上の生き物を水中に沈めるなんて!
どんなに綺麗な容貌をしていても、やっていいことと悪いことがあるのよ!
今までの少し扱いが乱暴だな、程度なら我慢できたけれど、流石にこれは我慢できなかった。
私は死にそうな思いをしたというのに、閣下が全く悪びれない顔で黙していることに、余計に腹が立った。
「……」
「グルゥ」
獣初心者の私でも、本能的に呻ることはできる。
私は抗議の気持ちを目一杯込めて、じっとこちらを見つめている閣下に向かい、喉を低く震わせた。
「――アハハハハ! 今のは閣下がいけないですねえ!」
私が一生懸命閣下を睨みつけていると、突然湯殿に軽薄な笑い声が響いて、驚いて閣下の手を噛んでいた顎が緩んでしまった。
鳥の巣頭さんの声だ。
閣下も驚いたのかどうなのか、全く表情が動かないのでわからないけれど、ほんの少しだけ私を掴む手が緩んだ。その隙に、鳥の巣頭さんは私を閣下の手から救い出す。
“閣下”目撃事件の所為で反射的に目を瞑りそうになったけれど、鳥の巣頭さんはちゃんと服を着ていたので、胸を撫で下ろした。
よく考えてみれば、主の湯浴みに一緒に裸で入る侍従はいないんだけど、どこか冷静さを欠いている私は咄嗟にその判断ができなかったのだ。
でも、侍従なのに主の許しもなく湯殿に入ってくるのはどうなの? このお屋敷では許される行為なの?
益々、このお屋敷の人は変わっていると思う。
それとも、閣下と鳥の巣頭さんの関係が、それほど気安いものだという証明なのかな。
「閣下、この子は生き物なので、急にお湯に沈めては息が出来なくて死んでしまいますよ」
「……」
「いえいえ、わかっています。閣下のことですから、お湯で流すだけでは汚れが落ちなかったので、湯船で濯いでみようと考えたんですよね? アハハハハハ」
「……。……落ちないな」
「アハハハハ、濯いでも汚れが落ちないのは当然です! 泥汚れですし、人と違い全身が毛で覆われていますから、石鹸を使わないと」
「キュゥ!」
「……」
ほとんど、鳥の巣頭さんが喋っていたけれど、会話は成り立っているみたいだ。
本当に変わった人たちだと思いながらも、私は鳥の巣頭さんに賛同するよう声を上げた。
お湯を勢い良く被せたって、湯船にぶち込んだって、汚れは落ちないんですよ!
それより、私が生き物だってこと、もっと自覚して欲しい。
閣下からは沈黙が返って来た上に、閣下の居る方は見ないようにしているので何を考えているかはわからないけれど、急にお湯に沈めたこと、ちゃんと反省してください。
「石鹸を持ってきましたので、私が洗いますよ」
鳥の巣頭さんはそう言うと、私を床に降ろした。
ちなみに、閣下のように落とされたりしなかった。濡れた石床の上に落とされたら滑って転んでいたかもしれないので、これが閣下ではなくて本当によかったと思った。
鳥の巣頭さんは、声の調子から物凄く適当そうな人だと思っていたけれど、認識を改めた。
床に降ろされた私が、本能的にぶるりと身体を振って水気を切っていると、直ぐに桶にお湯を汲んで来た鳥の巣頭さんが、私の隣に膝をついた。
桶のお湯を手に掬ってそっと身体に掛けてくれる。
それから手で石鹸を泡立てて、毛の奥にまで行き渡らせるように撫で付ける。
思いの外、鳥の巣頭さんの手つきは丁寧だった。
大きな手で地肌を揉む様に洗われるのは、気持ちがいい。
今の私は人間であった頃の私の膝ほどの大きさで、鳥の巣頭さんや閣下と比べれば膝にすら満たないから、頭などは手にすっぽりと隠れてしまいそうだ。
包み込まれるようで、安心感のようなものがじんわりと広がった。
男の人に身体を撫で回されている状態だけれど、全然嫌な感じはしない。
たぶん、身体の感覚が人間のそれとは違うからだと思う。
人であるときは脇を触られるとどこか擽ったかったけれど、この姿で散々脇を掴まれても何も感じなかったのが、いい例だ。
気持ち的には多少の羞恥心も違和感も湧いているけれど、全身に少し長めの毛が生えているから素肌を触られているような感じもしなくて、人に髪を洗ってもらっているときの感覚に近かった。
だから、私は何も考えずに気持ちよさに身を委ねることができた。
――これは……、極楽かも。
「アハハハ、気持ち良さそうだねえ」
鳥の巣頭さんは、私の顔を覗き込んで言った。
うん、とっても気持ちいいです。
たぶん、鳥の巣頭さんは私よりも身分が高いんだろうけれど、今は獣だし、心の声だから、気安く返事をしておく。
でも感謝の気持ちも忘れてないです。
ありがとう。
鳥の巣頭さんが来てくれて、本当によかった。でなければ、私は湯船で二度目の死を経験するところだったと思う。
「へぇ。――閣下、見てください、この子の本当の毛色は真っ白だったみたいですよ」
洗う前は汚い毛玉にしか見えなかったので驚きですねぇ、アハハハハ、なんていう、鳥の巣頭さんの失礼発言と気持ちが篭もっているのか疑わしい軽い笑い声も、今は全然気にならない。
少しごわごわしていた体毛が解けていく感じがして、私は鳥の巣頭さんの声に耳を傾けながら、目を閉じてまったりしていた。
生まれ変わった私の毛って、白いんだ。
ファラティアの頃は紅色だったのに、全然違う。生まれ変わった身体なんだから当然なんだけれど。
なんだか不思議な気持ちだった。
――だから、油断は禁物だと、私はいつ学習するのか。
次に聞こえた鳥の巣頭さんの軽い口調に、私はまどろみかけていた瞼をぱっちりと開いた。
「――ああ、君は“男の子”だったんだねぇ」
―― オ ト コ ノ コ ……?
閣下の見せ場がありませんorz
あ、あった。“閣下”の披露シーンが……!←