57.彼女の告白
「襲われた……? そういえば、先程もそのようなことを仰っていましたね」
鳥の巣頭さんが眉を寄せながら、問い返した。
そっか、と私はそこで思い出す。
そういえば閣下たちは私が馬車で襲われたことまでは知らないんだった。閣下たちが持っている私の情報といえば、外見と名前、そしてセイレア様の侍女であったということだけだ。
セイレア様は小さい頃から私のことを知っている。それはもう、きっと自分では気づかない癖の一つまで。そんなセイレア様が私に気づいてくださったから、もうそれだけで私のことはみんなにも全て知ってもらえたような気がしていた。
万事解決! とは流石に思っていなかったけれど、私って単純だな、と呆れてしまった。
「先程『馬車で』とも仰っていたようですが、ファラティア嬢は馬車で何者かに襲われたのですか?」
鳥の巣頭さんが加えて尋ねると、途端、セイレア様の表情がくしゃりと歪んだ。
セイレア様は襲われた後の馬車の様子――御者さんや護衛の方のこととか……を知っていたようだから、もしかしたらその惨状を思い出してしまったのかもしれない。報告だけ受けたにしても、現場を思い浮かべて心を痛めているのかも……。
そう心配したけれど、思ったよりもセイレア様は気丈だった。
一度目を伏せてから顔を上げた時、セイレア様のお顔にはもう、自責の念も沈鬱な色も浮かんではいなかった。
「――はい。ふた月近く前のことです。
そして彼女が襲われたのは、――私の浅慮と我が儘が原因です」
はっきりと告げられた言葉に、鳥の巣頭さんもアリアンナ殿下も目に驚きを乗せて沈黙した。
私はすぐに否定したかった。
さっきは冗談混じりに『やっぱりセイレア様の所為かも』なんて心の中で呟いたけれど、本当の本当にはそんなこと思っていない。
大公閣下のお屋敷で危ない目に遭ったのならセイレア様を恨んだりもしたかもしれないけれど、街道の途中で馬車が襲われるなんて、決して珍しいことじゃない。中身が私でなくても襲われていた可能性はあるし、セイレア様が気に病む必要は無いんだ。
少しでもその気持ちを伝えようと身を乗り出した私だけれど、右側斜め前のソファに座るセイレア様のお顔を見て、私は言葉を失った。
セイレア様の横顔は、否定も慰めも必要とはしていなかった。
鳥の巣頭さんに促され、鳥の巣頭さん以外の全員がソファに落ち着くと、セイレア様は静かに話し始めた。
「私はふた月ほど前、彼女に一つのお願い事をしました」
「……願い事?」
「はい。
婚約者候補として私の名を挙げてくださったベルツバラム大公閣下の元へ私のふりをして伺い、様子を見てきてちょうだい、と」
「――」
鳥の巣頭さんが小さく息を呑む気配がした。
うん、鳥の巣頭さんが驚くのも無理はない。
あのときの私も必死で無理です、と訴えたくらいだもの。
今でもあのお願い事は無謀すぎだったんじゃないかと思う。途中で目的を果たせなくなったけれど、もしも大公閣下のお屋敷に行き着いていたら、いったいどんな結果になっていたんだろう、と思うとちょっと怖い。
アリアンナ殿下も無茶なお願いの内容に「まあ」と口元にたおやかな手を添えて驚きを示していた。ちょっと鳥の巣頭さんよりものんびりとした反応だ。
そんな二人の反応は理解できるものだけれど、相変わらず閣下だけは聞いているのかいないのか。時折、思い出したように私の背を撫でるから、たぶん寝てはいないと思うけれど……。
興味がなくてもできればちゃんと聞いてくださいね、とこっそり心の中で閣下に訴えていると、鳥の巣頭さんが口を開きかけ、でも躊躇うように一度閉じると、一拍あけてから言った。
「何故、大切にしていらしただろう侍女を、身を危険に晒すような場所へ向かわせたのか、伺っても?」
鳥の巣頭さんの声には非難の色が滲んでいた。
たぶん鳥の巣頭さんは、最初はもっとあからさまにセイレア様の非を指摘しようとしていたんじゃないかと思う。婉曲な表現に変えたのは、セイレア様のどんな非難も受け止める、という決意が見える表情と居住まいのせいかもしれない。
セイレア様は背筋を伸ばしたまま、顔色一つ変えずに答えた。
「大公閣下より婚約者候補としてお声を掛けて頂いたとき、私は十九を迎えたばかりでした。
あれから三年近くが経ち、私はもうすぐ二十二になります。そろそろ嫁ぎ遅れと見られる年齢です」
そう。だから、セイレア様は少し焦っていたのかもしれない。
平民での適齢期は二十~二十五歳くらいまでの間だ。でも、貴族ともなると跡継ぎのこともあるからもっと早い。
貴族のご令嬢は十六で社交界デビューを迎え、色々な経験を積みながら十八~二十三歳くらいまでの間に結婚をするのが一般的になっている。
もちろん社交界デビューのときに既に許婚がいる人もいて、そういう人はもっと早い段階で結婚することもあるんだけれど。
例外はあるとしても、これらのことを考えるとセイレア様には猶予が一年ほどしかなかったことになる。
貴族でなくても女の子なら婚期を気にするものだし、家のことも考慮しなくちゃいけないセイレア様にとっては、お相手となる大公閣下の動きを知りたいと思うのは当然のことだ。
それはあのお願い事をされたときに私も感じていた。だからこそ、無茶と知りつつ強硬には断れなかったんだ。
「もちろん、私に大公閣下からお声が掛かっているということは多くの貴族の間で周知の事実でした。何の声も掛からずに屋敷に引きこもっているわけではないだけ、ましだったのかもしれません。
ですが、それでも私は婚約者“候補”でしかなかった。候補でしかないということは、大公閣下が他のご令嬢を選べば、私には候補であったというささやかな肩書が残るだけということです」
鳥の巣頭さんは、眉を顰めながらも静かにセイレア様の言葉に耳を傾けていた。
アリアンナ殿下は何か物言いたげにしていたけれど、何故かその視線が私に向かっていることに気づいて、びっくりしながらも首を傾げた。
何だろう、何か心配なことでもあるのかな、と私が疑問に思う間もセイレア様は続ける。
「大公閣下の婚約者候補でなくなれば、私は新たに相手を探さなければなりません。でも、現状を考えると私はそのときいくつになっているのか……。
先の不安に予め手を打とうにも、大公閣下に候補として指名されている以上、公然と別の相手を探すことはできませんでした。他の貴族男性たちも、大公閣下の相手となる可能性がある者にそうそう横から手を出すことはできない、と考える方がほとんどの様子」
セイレア様は淡々と語った。
正式な婚約者となっているわけじゃなくても、貴族男性の多くにとって、相手が一度は王位にも就いたことのある大公閣下というのは無視できない事柄なのだと思う。
大公閣下を押しのけてでもセイレア様を手に入れようと頑張ってくれる気概のある男性がいなかった、と言ってしまえばそれまでだけれど、大公閣下という存在はそれだけ影響力が大きい方だとも言えた。
あくまで“候補”に留まっている以上表向きには問題ないとしても、誰だって大公閣下のご不興なんて買いたくないだろうことは、一介の侍女でしかなかった私にも理解できた。
「ですから、たとえ閣下からの音沙汰が年単位で無かろうとも、私はその状態を黙って甘受しているしかありませんでした」
「…………」
――あれ?
何故か急に空気が重くなってきたような?
確かに気分のいい話ではないけれど、そんなにみんな暗い(というか苦い?)顔をしなくても……。
閣下を見上げても凪いだ瞳と目が合うだけで、このどんよりとした空気を全然気にしていないようだ。うん、いつものこと。
じゃあ鳥の巣頭さんは、と見てみたら、鳥の巣頭さんが変な顔をしていた。
上手く言えないけれど、苦虫を噛んだような、呆れたような、責めるような……?
責めるって誰を? と鳥の巣頭さんの視線の先を追う前に、私はアリアンナ殿下の物凄く悲しげな顔に釘付けになってしまった。
憂うお顔も女神様のように美しいけれど、悲しみと痛み、申し訳なさの滲む表情に少し心配になる。
もしかしたら、殿下は大公閣下の姪御さんにあたられる方だから、責任を感じているのかもしれない。でもセイレア様と同じく、アリアンナ殿下に非があるわけじゃないから、そんなに気になさらなくてもいいのに……。セイレア様も殿下を責める気なんて全然ないと思う。
あ、でももし今日のことで殿下が少しでも心を痛めてくださるなら、何か大公閣下に働きかけてくれるかもしれないんだよね。
もしかしてこれは絶好の機会では……! とセイレア様に視線を向けたら、セイレア様はただ粛々とした態度で瞼を伏せていた。
それが、どこか周囲の反応を遮断するためのように見えたのは、私の考え過ぎだろうか。
そのまま、セイレア様は声の色味を落として続けた。
「失礼を承知で申し上げれば、“大公閣下の婚約者候補”とは聞こえがいいですが、その実、私の立場は何の保証もない危ういものだったのです」
その恨み言は当然だと思う。
婚約者候補として指名し、それが公にも広まっているというのに三年も放置しているのは、正直とっても酷い扱いだもの。
でも、私は思うんだ。
いくら嫁ぎ遅れになっても、セイレア様の美貌があれば、お相手はちゃんと見つかったんじゃないかな、って。
内実はどうあれ(ごめんなさい)、贔屓目を抜きにしてもセイレア様は本当に天使のようなお姿をしているのだ。
ハニーブロンドの髪は柔らかそうで、瞳は暖かな春の空色。陶器のように滑らかで白い頬は思わず触れたくなるほどだし、その……お胸も、男性にはとっても魅力的なんじゃないかな、と思う。
セイレア様が微笑めばふわりと周囲に花が咲くような可憐さだし、話せば春の木漏れ日を受けているように心が落ち着く。
セイレア様が寄り添ってくれれば、男の人は温かい安らぎに包まれて過ごすことができるだろうと思う。そういう女性を求める男性って、多いんだよね?
それに、爵位を継ぐことはできなくても古参の伯爵家に入ることはとても魅力的なことだと思うし、そういう面でもセイレア様は大公閣下に放り出されても大丈夫だった気がする。
ただ、美貌に惹かれて、とか爵位に魅せられて、という理由だけでは、やっぱりセイレア様のお相手として不足だったんだろうな、とも思うんだけれど……。
結局、セイレア様がとても難しい立場にいたことは否めないんだよね。
セイレア様は続ける。
「――そうして焦れた私は、ファラに大公閣下の元へ行ってほしいとお願いしたのです。
閣下が何をお考えかまではわからずとも、婚約者候補たちへの対応に向けて動きがあるのかどうか。少しでも情報を持って帰ってくれれば、と」
うん、セイレア様にそれだけの思いがあること、私もわかっていたつもりだ。
あのときの私は、どちらかというと「絶対にばれる!」という恐怖で頭がいっぱいだったけれど、たぶん大公閣下のお屋敷に着けば私も一生懸命情報を集めようとしただろうと思う。そのくらいの覚悟はしていなければ、馬車に乗り込んだりはしなかった。
「そう、ですか……。
……今更このようなことを申し上げても時間を取り戻すことはできませんが、貴女には大変申し訳ないことを致しました。配慮が足りず、心労を与えてしまったこと、心からお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
閣下も――」
「いいえ、それはもう良いのです」
鳥の巣頭さんが言い掛けた言葉を、セイレア様はゆっくり首を振りながら遮った。
困ったように眉尻を下げて、次に静かに告げられた言葉に、私はびっくりするあまり、どうして鳥の巣頭さんがこんなにも謝っているのか、深く考える余裕はなかった。
「今お話ししたのは事実であり、ファラもそう察して大公閣下の元へ行く覚悟をしてくれたのだと思います。
私を思って決断してくれたファラに鬘を被せ、胸に詰め物を入れて、私に扮してもらいました。瞳の色は同じ青系統ですから、追究されたら適当に言い訳をするように、と、もっともらしく言い聞かせて。
――私のふりをする本当の理由も目的も黙ったまま、彼女を馬車に押し込みました」
――本当の理由と目的?
セイレア様の仰っている意味がまったくわからなくて、私はポカンと口を開けたまま、セイレア様のバツの悪そうなお顔を凝視してしまった。
セイレア様の表情から、続く話が私にとってあまりいいものではないことは嫌というほど感じていた。
だけど。
全然、まったく、どうでもいいのですが、セイレア様。
胸に詰め物を入れた、というくだりは言う必要がなかったのでは……ないでしょう、か……?
うぅ。とっても恥ずかしい……。
貴族や爵位のシステムは西洋のものを参考にしつつ、都合よく解釈しているところもあるので、(そんな方はいないとは思うのですが、)ここで出てくる構造を知識として吸収したりはしないようお願い致します。