05.白銀の人形様と鳥の巣青年
「昨夜、此処に来た時はぐったりしてたみたいだけど、元気そうだね」
鳥の巣のように跳ね回る栗毛を揺らしながら、その男の人は鳶色の瞳を細めて言った。
ということは、私は昨日の夜に初めてこのお屋敷に連れてこられたのかな?
前世の記憶が蘇った所為なのか、私にこの部屋で目覚める以前の幼獣としての記憶は全くない。だから、何処で如何やって生活していたのか、如何いう経緯でこのお屋敷に来たのかも、分からなかった。
でもきっと、さっきの言葉から考えれば、この鳥の巣頭の人が何処かで倒れているところを拾って助けてくれたんだろう。
「キュウ」
「アハハハ、まるで返事したみたいだ」
ありがとう、と言ったつもりだけれど、やっぱり人間の言葉は喋れなかった。鳥の巣頭さんに物凄く軽い調子で返されてしまった。
その通りなんだけど、とちょっと落ち込んでしまう。
でもこんなことで気を落としてちゃ駄目だ。
私はこれからこの姿で、人間だった頃の記憶と一緒に生きていかなくちゃいけないんだから。
私が一人自分を叱咤していると、鳥の巣頭さんが何かに気づいたように声を上げた。
「あ。君、閣下の膝の上に居たんだね」
鳥の巣頭さんは私の隣に座っている人形様を見て言った。
閣下。
人形様のことだよね?
確かに、この人形様からはそう呼ばれて可笑しくない身位の高さを感じる。高貴な気品、纏う雰囲気は静かで、威厳と格式を備えているような。
腕の良い職人にとても長い時間を掛け精緻を極めて造り上げられたんだろう。髪の一筋でさえ計算され、指の先まで丁寧に磨き上げられた、完成された美しさを持っている。
ただ、顔の大半は仮面によって隠されている。
隠されてはいるけれど、白地に銀色で細かな蔦模様が描かれ、小さな淡い色の宝石が所々に実のように付けられたそれは、決して人形様の美しさを損なったりはしていなかった。
とにかく本当に、細部まで細かく作りこまれている。
大きさも、普通の男性よりは少し身長を高く造られているようだけれど、それも等身大と言える範囲で、精緻過ぎて本当に生きているみたいだ。
私も暗闇で見たときは普通に生きている人だと思ったもの。
でも、本当の人のように精巧だからと言って、人形に呼び名を付けて部屋に飾っているなんて、鳥の巣頭さんは男の人にしては変わっている。
お人形遊びをするのはほとんどが女性じゃないかな。偏見を持つわけじゃないけれど。
変わっていると言えば、鳥の巣頭さん。こんな呼び方をしてしまっている原因でもある髪の毛、整えなくていいのかな? こんなに立派なお屋敷の人なのに。
あ、でもそう言えば、格好も何処となく質素だ。
決して粗末なわけじゃないけれど、これほどのお屋敷を持つ人なら、きっと使用人も大勢いて、身形だってもっと整えられていてもいいのに。
そう、例えば、この仮面人形様のように。
……そう考えると、鳥の巣頭さんはもしかしたらこのお屋敷の主人ではないのかな。
うーん、わからない。
疑問に思いつつ眺めていると、鳥の巣頭さんはニコニコしながら唐突に私をひょいっと抱き上げた。
急な視界の変化に慌る。
「うーん、まずは湯浴みだね。でないと閣下の服だけじゃなく、部屋中がどろどろだ! アハハハハ」
鳥の巣頭さんは軽快に笑って歩き出す。
――そうだった!
昨夜、窓に映った自分を見たとき、私の毛は所々固まっていて、なんだか薄汚れていたのを思い出した。
だから、鳥の巣頭さんは私が人形様の膝に居たってわかったんだ。きっと、身体に付いた泥とか埃が人形様の衣服に移ってしまったんだ。
ということは、ベッドの上も汚れてしまっているかもしれない。
私は何だか申し訳なくなって、鳥の巣頭さんの腕の中で身体を小さく丸めた。
ベッドを汚してしまったこともそうだけど、人形様は本当に衣の裾の皺まで綺麗だったから、それを汚してしまったかと思うと居た堪れなかった。
人間であった頃の私なら、セイレア様の寝台を整えることも衣裳を御容易するのも仕事のうちだったから、この部屋のベッドだって人形様の衣服だって綺麗に出来たけれど、今の私はそんなことはできない。
侍女には大事な手は、今や握っても開いてもあまり変わらない肉球と毛皮のついた獣の手だ。
ひっそりと項垂れていると、鳥の巣頭さんが数歩も歩かないうちにくるりと振り返った。自然と抱かれている私もぐるんと回る。
う、ちょっと目眩が。
「――あ、この子が気になって閣下のお着替えを忘れてしまいました。直ぐにお持ちしますので、お待ちくださいね」
鳥の巣頭さんは、“いやあ、閣下の侍従失格だなあ、アハハハ”なんて全く反省していない雰囲気で言って、人形様の返事を待たずに、再び方向転換し扉へと向かって歩き出した。
……ん?
何かおかしいような。
人形様は人形なんだから、返事は待たなくていいんだよね?
でも、普通に今話しかけてたよね、鳥の巣頭さん。しかも、自分のことを人形様の侍従って……。
……うーん、これは。
鳥の巣頭さんが変なのか、それとも人形様が特別なのか……。
もしかしてこのお屋敷の主人に、人形様のお世話を任されているのかな?
随分変わったお屋敷に拾われてしまったのかも、と首を捻りながら考えていると、ふいに視界が翳った。
そして。
私は鳥の巣頭さんの肩越しに、有り得ないものを見た。
「――いてて」
吃驚しすぎて、思わず鳥の巣頭さんの肩に爪を立ててしまったみたい。小さく痛みを訴える声が聞こえたけれど、そんなものに構っている場合じゃない。
私はぶるんと頭を振ってみる。
錯覚かも……?
と、直ぐに異変に気づいた鳥の巣頭さんが振り返ったので、私の視界に映っていたものは次の瞬間には見えなくなってしまった。
でもいや、――。 ……ぇえ!?
「あれ、閣下。どちらへ?」
――閣下!
「……。……私も行こう」
ああ、嘘みたいだ。
私の耳に届いたのは、低く、けれど重くは無くて、すとんと胸に落ちるような美声だった。
明らかに、軽薄な笑いを零す鳥の巣頭さんの声とは違う。
そして、その声を出せるのは、今この部屋に一人しか居ない。
「閣下も湯殿へ行くんですか? いいですけど、珍しいですねえ、閣下が昼間から湯浴みをするのは。アハハハハ。――あ、やっぱり気になります? この子」
矢継ぎ早に言いながら鳥の巣頭さんは私の両脇を手で掴むと、パッと反転させた。
鳥の巣頭さんが振り返ったお陰で背を向ける形になっていた“人”と目が合う。
「……」
「……」
暫くなんとも言えない沈黙が流れた。
鳥の巣頭さんに脇を掴まれてその“人”の目の前にでろんとぶら提げられながら、黙って二人、じっと見つめ合うこと数秒。
やっぱり嘘じゃなかったみたいだ。
もうこれ以上驚くことはないと思っていたくらい昨夜から衝撃の出来事続きだったのに、私を驚かせるものがまだあったなんて。
うん、つまり。
――人形様は、生き物でした。
いえ、生きた“人”でした。
さっきまでソファに腰掛けさせられていると思っていた人形様は、今私の目の前に自らの足で、一人で立っている。
人形だと思っていたのに。
ふら付く事もなくしっかりと地を踏みしめるその人は、やっぱり鳥の巣頭さんより頭半分ほど背が高い。
いやいやいや、でも勘違いしたのは仕方ないと思うの!
だって、昨夜も、今朝膝の上に居たときも、人形様――閣下?――は、全然動かなかったんだもの。私が見ていた限りでは瞬きすらしていなかった。
その上、こんなに完成された外貌で、人形だと思わない方がおかしい。
それにしても、窓から差し込む日の光の下、間近で見る閣下は本当にきらきらしている。
セイレア様を思い出させるきらきらしさだ。雰囲気は全然違うけれど。
仮面の奥の閣下の瞳は、薄墨に青を一滴垂らしたような、不思議な色をしていた。
肩に付かないほどの銀の髪は真っ直ぐで、柔らかそうだ。
日の下で見ると、肌は一層透き通るようで、元女の子としては羨ましい限りだった。
緩く引き結ばれた薄い唇は極淡く色づき、触るとちゃんと柔らかいだろうことが想像できた。
なんて綺麗なんだろう。
月明かりの下で見たときと同じ感想が浮かぶ。
あまりに綺麗過ぎて、まだ少し、生きているのだと信じられない気がした。
閣下とセイレア様を比べると、月と太陽みたいだ。
セイレア様は暖かさを持つ美しさだけれど、閣下のそれは幻みたいだ。
儚いわけではないのに、触れられないような気持ちにさせられる。
そんなことを思った瞬間、私の身体に衝撃が走った。
――わしっ。
ぐぇっ。
徐に手を伸ばした閣下が、私のお腹を両手で鷲掴んだのだ。
本当にもう、“鷲掴んだ”って表現そのままの感じで!
結構な力で掴まれたので、思わず潰れた悲鳴が。
うう。これでも女の子なのに。身体は獣だけど。
閣下は、全く幻ではありえない力強さで私を鳥の巣頭さんから奪い取ると、小脇に抱えなおしてさっさと部屋を後にした。
何が何だかわからないまま、閣下の小脇に“ぶら提げられて”(ここ重要)移動する。
――うぅ、苦しい。幻とか触れられないとかもう考えないので、降ろしてください……。
「アハハハハハ」
私がお腹に自分の全体重が掛かって苦しい思いをしているというのに、閣下の後ろからは、鳥の巣頭さんの軽薄な笑い声が響いてくる。
――笑ってないで助けて!!
じゃないとその頭に鳥を呼んで卵を産ませちゃうから!
心の叫びが届くはずもなく、私はそのまま閣下の手によって湯殿まで連行されたのだった――。
もうそろそろお気づきかと思いますが、ファラティアは冷静に状況判断をしているつもりで、でも結局いつも最初の直感に近い判断が一番真実に近かったりします。
ちょっと頭が固く、真面目な子です。自分では気づいてませんが。