48.転移の魔法
私の中でもう一つ、魔獣の子の命が生きている。
それはもう目を逸らすことなんて出来ない純然たる事実だと、私は確信していた。
閣下に拾われてから私の身体が魔獣となってしまったと知って、それから雄であることにも気づかされて。これから先どうやって生きていけばいいのかすごく悩んでいたときのことを思い出す。
問題を先送りにしながら、でもいつかは貴重種の成獣としての務めを果たさなければいけないかもしれないと考えていた。簡単じゃなくても、少しずつ覚悟を決めなくちゃいけないんだろうとも……。
――だけど、本当はこの身体は私のものじゃなかったんだ。
二つの命と身体が混ざり合うなか、私は今あの子の身体を使わせてもらっている状態。
どこかホッとした気持ちと、それとは別に押し寄せる不安があった。
心許無くて無意識に閣下の胸に擦り寄っていた私の背を、閣下が宥めるようにポンポンと叩いてくれる。
もう何度も私を支えてくれた温もりに、嫌な音を立てる鼓動が少し落ち着きを取り戻した。
「……日を改めますか?」
気遣わしげな王妹殿下の声にハッとする。
いくら受け止めるべき事実が重いものでも、ここで逃げ帰るなんてできない。
せっかくこうして解決の糸口を引き寄せてくれた閣下にも申し訳ないもの。
私は慌ててアリアンナ殿下を振り返り、頭を振って一声鳴いてみせた。
続けて欲しい、という意思が伝わったのか、殿下は少しだけ首を傾げて私の様子を観察した後、ゆっくりと頷いて話し始めた。
「――そもそも、転移という魔法は我らの国では本当に差し迫られた理由がなければ使われない術です。暗眼のように高い技術が求められる所為もありますが、何より生物に使うことは危険が大きいためです」
魔法の知識があまりない私には難しい話になりそうだったけど、なんとかついていこうと必死に耳を澄ませる。
閣下も鳥の巣頭さんも真剣な表情でアリアンナ殿下の声に耳を傾けていた。
「何故危険視されているかはお二方はご存知のことと思いますが……」
そこで静かに殿下の瞳が私に向けられ、ああここから先は私のための説明なんだな、と思った私は、閣下の腕の中で姿勢を正した。
真っ直ぐにアリアンナ殿下を見つめると、閣下に良く似た灰青が少し柔らかくなった気がした。
「――転移魔法が危険視されるのは、一瞬の移動を可能にするため対象を一度“分解”するからです。
転移魔法を掛けられ一時的に微粒子となったその一つ一つには強い魔力によって状態維持の力と吸引力が働いていますから、転移先で再構築されることに然程問題はありません。目に見えないほどにまで分解された対象は、転移魔法の陣と術者の意識が作り出す不可視の道に乗り、術者の意識の届く範囲に送り出されます。
大きな魔力と精緻な陣を描き出す技量、そして着地点まで意識を途切れさせない集中力が必要になる、極めて煩瑣な術、それが転移魔法です。
ですから、下手な術者が行なえば陣自体が正常に稼動しませんし、たとえ成功したとしても到達点に誤差が生じたり、最悪では対象の完全な再生ができなくなる可能性もあります」
ごめんなさい、一生懸命聞いていたけれど、正直あまり理解できなかったかも……。
徐々に垂れていく私の耳をぐいぐい戻しながら、閣下が冷たい声で言った。
「つまり転移を使った術者の腕の悪さが招いたと……?」
あまりに冷え冷えとした声に閣下を見れば、いつも無表情な灰青の瞳が酷薄に細まっていた。
「愚かな」という呟きが聞こえてきそうなほどとても低い声で、ぞわりと背筋が冷えた気がする。
ああ閣下、アリアンナ殿下まで怖がらせるなんて不敬罪になっちゃうよ……!
視線を戻した私の目に飛び込んで来たアリアンナ殿下の顔色が悪くなっていて、心配になる。
だけどアリアンナ殿下は流石王族というか、声を震わせることはなく淡々と閣下の言葉を受けて答えた。
「その可能性は十分にあります」
「…………」
「閣下、落ち着いてください。
……つまり、下級の術者が無理に転移を行なった所為で、転移先で一人と一匹が融合してしまったということでしょうか?」
今まで黙っていた鳥の巣頭さんが眉を潜めて零した。
術者のことはわからないけれど、少なくともファラティアと魔獣が融合してしまったという仮説が正しいだろうということは、誰より私が理解している。
けれど、一体どうして私がそんなことに巻き込まれてしまったのか……。
「セレスタさんと仰ったかしら?」
突然アリアンナ殿下に呼びかけられ、ビクリと肩を揺らしてしまった。
何を言われるのだろうとちょっと不安になる。
でも無視するなんて失礼ができるわけもなくて、私はそっとアリアンナ殿下を見上げた。
「人の言葉を理解するということは意識はひとの――少女のものよね。
……貴女が転移を掛けられたとき、近くにイェオラの姿はあって?」
最初の言葉は自分自身への確認のようだった。
私は殿下の後半の言葉に一度首を振ったけれど、思い直して首を捻って見せた。
私が賊に襲われたとき、外に出たのは一瞬で何もわからなかった。
賊の姿はほんの少しだけ見たけれど、それ以外に周囲を観察している余裕なんてなかったから、イェオラがいたかどうかなんて全然わからない。
私の様子を注意深く見ていたアリアンナ殿下は考えるようにして視線を下ろした後、閣下と鳥の巣頭さんに向き直った。
「……転移の術が二種見つかった以上、少女とイェオラに転移の魔法を掛けたのが異なる術者だというのは間違いないと思います。そして、それを踏まえて考えたとき、少女とイェオラの転移開始地点も別であった可能性が高い。さらに言ってしまえば、術者同士には繋がりがなかっただろうと考えられます」
「そのご推察には何か根拠がおありで……?」
「ええ。状況を整理すれば、自ずと出てくる結論です。
まず、術者同士の接点について考えてみてください。
もしも二人の術者が示し合わせて魔獣と少女の転移を行なう手はずであったなら、二つの術の間には相応の時間差を作るはずです。
同一の場所に向けて同じ時間に転移を行なった場合、今回のように混ざり合うなどということは予想できずとも、転移先で対象者が衝突してしまう可能性があることは簡単に予測できますし、何より術者の間では常識のはず。
転移先での衝突が起きれば、対象者が怪我をしたり悪くすれば命を落とす可能性もありますから、転移を行使できるような高い技術と魔力を持った術者同士であれば、態々同一地点に向けて同一時間に転移を実行するとは思えないのです」
「――成る程。それならば術者同士が知らずに同じ時間、同じ場所に向けて転移を行なったと考えるのが妥当ですね」
「はい。
転移の開始地点が異なるということも、術者同士に接点が無いと考えれば当然のことです。
転移の魔法には多少の誤差が生じることもありますから、二人の術者が想定していた転移先がともにあの森であったかどうかはわかりませんが、どちらにしろ偶然にも二つの転移先が同一地点に完全に重なってしまい、その上術の対象である少女とイェオラが同時に転移先へ到達してしまったために、微粒子化された少女とイェオラが再構築される際に混ざり合ってしまったと考えて間違いないかと……」
そこまでアリアンナ殿下が話し終えた後、室内には重苦しい沈黙が落ちた。
アリアンナ殿下も鳥の巣頭さんも、そして閣下も次の言葉が見つからないみたいだった。
それはそうだ。人と魔獣が混ざり合ってしまうなんて、信じ難い事実だろうと思う。身体の内に魔獣の子がいると実感した私でさえ、まだ少し他人事のように考えてしまっている部分があるもの。
私と魔獣が融合してしまったこと自体には術者の二人に悪意がなかったとしても、じゃあ仕方ないか、なんて思えることじゃない。
そもそも生き物を対象にした場合、本人かそれに準ずる人の同意もなく危険な術を掛けたことは刑罰の対象になる。二人とも、今後は魔法行使における規約の違反者として捜査の手が伸びるだろうし、魔獣を転移させた術者は貴重種であるイェオラを危険に晒したとして、私の方の術者より重い罪に問われるかもしれない。
罪であることは明らかだけど、彼らが罰則を受けたからと言って私と魔獣の子が混ざり合ってしまっていることが帳消しになるわけじゃないんだよね。
ただ、身体の半分が魔獣で半分が人間、なんていう混合魔獣のような恐ろしい事態にならなかったことだけは救いだったと、そんなことを考えて気を紛らわせるしか私にはできなかった。