44.変化が齎す変化
――王妹殿下!!?
国王様の妹君がどうして!?
私は驚きのあまり固まってしまった。
だって、国王様の妹君だよ!?
確か、神殿に入って、神子として国と民のための祈りを捧げていると聞く。殿下は実は陛下よりも魔力が強いと言われている。しかも、とても清浄で澄んだ魔力なんだって。そのため神事に携わることになって、幼い頃からあまり社交の場に現れることはなかった。
髪は癖のない真っ直ぐな黒。艶めく漆黒は夜よりも暗い色なのに、暖かく包み込む闇のようだと噂される。立ち姿はまさに女神のように神聖で、浮世離れした美貌だと聞いたことがある。
国の頂点に立つ方の妹君でらっしゃるということは、見た目だけじゃなく当然身分だって伯爵家とはいえただの侍女であった私からすれば、雲の上の人もいいところだ。
直にお会いできる機会なんて一生訪れないと思っていた。
あ、違う。
このお屋敷にいらっしゃるからといって、私が会えるとは限らないよね。
でもそんな方の来館を受けるなんて……。
閣下は、もしかして私が想像していたよりもずっと身分のある方なんだろうか?
それとも、王妹殿下がいらっしゃるような特別な理由が……?
胸にざわりと押し寄せる不安。
身分が高くて、しかも神殿に仕えている女性。各地に建てられた小さな神殿を巡ることはあっても、それ以外で個人的に誰かの――男性のお屋敷を訪問することなんてあるのかな。
……一つだけ、その理由として当て嵌まりそうなことがある。
神々に端整込めて創り上げられたかのような閣下の隣に立つ、黒髪の女神の姿をしたアリアンナ王妹殿下。
二人の寄り添う姿を想像したとき、私の胸には薄暗い靄が浮き上がるようで、私は慌てて頭を振って想像を霧散させた。それは考えたらいけない類のものだと気づいた。
王妹殿下のお名前に驚愕を隠せないでいた私だけど、閣下も鳥の巣頭さんも特に詳しい説明を私にしてくれるわけでもなく、朝食兼昼食が再開されてしまった。
魔獣にわざわざ説明するなんてしなくて当然なんだけれど、一人状況を把握できなくて少し悲しかった。はっきりさせるのは怖い。でも王妹殿下が来館される理由を聞いてみたいと思うのも嘘じゃなかった。
だけどどうしたらいいかと迷う間にもお腹は正直なもので。
閣下のいなかった昨日一日、食欲がわかなくてあまり食べていなかった所為で、ミルクを前にしたら急にくうくうとお腹が鳴り出して、私はその音に催促されるようにミルクをがぶ飲みした。
全然、のけ者にされたことへの八つ当たりなんかじゃないからね、全然っ。
勢い込んで飲みすぎた所為か、飲み終わったときにケプッて小さく喉が鳴ってしまって、物凄く恥ずかしかった。昨日から私、恥ずかしい姿ばかり見せている気がする。
笑いを堪えている鳥の巣頭さんは無視して、閣下には呆れられてたりしないだろうかと思ってチラッと様子を窺ったら、閣下は特に何の反応も見せずに静かに昼食を口にしていた。だけど――、
――あれ?
何か違和感。
すごくゆっくりな動作は、けれどとっても優雅で、いつもの閣下とそう変わりない気がする。
でも、うーん。どこかぎこちないというか……。
普段は閣下が食事をするような時間じゃない、朝とも昼ともつかない微妙な時間の所為か、閣下の前に並べられたものはいつものお昼ご飯よりも内容は簡素なもので、閣下の胃を考慮して硬いものも出ていない。
そうだ、もちろん固形物はあるけれど、それも柔らかいものばかり。それなのに閣下はどこか嚥下しづらそうにしている。一度の咀嚼時間も随分長いように感じた。
それがすごく気になって、じっと閣下を見つめていたら、不意に閣下の動きが止まった。
――コトンッ
フォークが絨毯の長い毛足に吸い込まれるようにして落ちた。
「キュッ!?」
慌てて閣下のもとへ駆け寄る。
閣下はフォークを持ち上げた体勢のまま、緩やかな瞬きを繰り返していた。
まるで螺子の壊れたからくり人形みたいで、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
こんな閣下は初めてだ。
どうしたんだろう、どこか具合でも悪いのかな?
私もだけれど、昨日は閣下もあまり寝ていないはずだ。寝不足の所為だけならいいけれど、他に原因があるなら大変。
閣下の座るソファによじ登り、膝元から閣下の顔を仰ぎ見る。
閣下の顔は半分以上が仮面に隠れてしまっているから、少しだけ見えている左の頬下あたりを見て判断するしかないけれど、もともと白い面だから顔色が悪いのかどうかはわからなかった。
「――お疲れのようですね」
おろおろするだけの私の後ろから、鳥の巣頭さんの落ち着いた声が聞こえた。
さり気なく落ちたフォークを拾い上げ、にっこりと笑う。
「食事中に眠りかけるのは感心しませんよ、閣下。食事はまだ続けられますか?」
「……。いや」
眠りかけた……?
でも、目はそんなに眠そうではなかった気がするけれど……。
ああでも、鳥の巣頭さんの方が閣下と過ごしている時間はずっと長いのだし、私が気づかない閣下の反応を拾ったのかもしれない。
一人納得して、反面ちょっとだけ寂しくなった。セイレア様のもとで働いていた時間は大切なものだけれど、鳥の巣頭さんは私の知らない閣下をずっとよく知って理解しているんだと思ったら、少しだけ悔しい気がした。
「もともと昨日の用事が長引けば、お帰りは本日の夕方くらいになるだろうと踏んでいたので、よろしければもう少し休まれてはいかがですか?」
てきぱきとテーブルの上の食事を片付けながら、鳥の巣頭さんが言う。軽薄そうな笑い声もない。
なんだかすごく、鳥の巣頭さんが侍従っぽい……。いや侍従なんだけれど。真面目な鳥の巣頭さんなんて、お客様の前以外では珍しいかもしれない。
妙な感動を覚えながらも閣下を見上げると、閣下は逡巡してからゆるく首を振った。
「いい。仕事を片付ける」
「――かしこまりました。気分のすっきりするハーブティをお持ちしましょう。執務はお飲みになってからでもかまいませんね?」
「……ああ」
礼をして鳥の巣頭さんが退室して、閣下はいつかのようにソファへだらりと横になった。長い衣がソファに広がる。
閣下は膝にいた私を引き上げて、そのまま瞼を閉じてしまった。
本当に疲れているのかもしれない。
帰って来た直後はそんな様子はなかったと思ったけれど、夜通し駆けてきたなら仕方の無いことだ。
閣下の微睡みを邪魔しないように、私も静かに瞼を閉じた。
◆◆◆◆◆
あっという間に二日が過ぎてしまった。
あれから一度も人間の姿に戻ることは出来なかった。
何を切っ掛けにしてファラティアに戻れたのか皆目見当がつかなくて、二日を無為に過ごしてしまった気がする。
ああでも、努力はしてみたんだよ? 精神統一みたいなことをしてみたり、寝て起きたら戻ってるかもしれないと思ってお昼寝時間を増やしたりもしてみた。だけど結果は惨敗で、目の前にはやっぱり毛むくじゃらのふくふくした手。
がっかりしたのは本当だけれど、でも一度戻れたことで希望が持てていた。
もしかしたら、時間が経てばファラティアの姿を取り戻せるかもしれない。焦る必要はないんじゃないか、って思えた。
それに、もう一度だけでも元の姿に戻れれば、今度は同じ間違いを犯さず、まずはセイレア様に会わせてもらって事情を説明して、心配を掛けてごめんなさい、って言おう。そんなことを決意したら、随分気が楽になった。
そうして二日。
閣下が側にいてくれることで、夜もぐっすり眠れた。
ほんの一晩のことが嘘みたいに日常が帰って来ていた。
そう実感して、ふと、今の生活を“日常”として受け入れている自分に驚いたりもした。
閣下に拾われてから一月も経っていないのに、これが日常だと思えている自分。閣下や鳥の巣頭さんにとっても、私の存在が当たり前になってくれていたらいいと思った。
もちろん、セイレア様のことだって忘れていない。
体調を崩されていたセイレア様の様子を鳥の巣頭さんに身振りで伝えて聞けば、回復に向かっているとのことだった。
悪い方に進んでいなくてホッと胸を撫で下ろしたけれど、まだ面会は駄目だと先手を打たれてしまったのでセイレア様の様子を直接見ることは出来ず心配は募った。
一方で、こちらも体調が悪いように見えた閣下。だけど、閣下の方は何事もなく執務とお客様との予定をこなしている。本当に、ただ疲れていただけなのかもしれない。
閣下はときどきジーッと視線を送ってきたり、夜は眠ろうとする私を何故か揺り起こしてきたりしたから眠気を我慢して閣下と遊んだりしたけれど、結局深夜になると耐え切れずに深く眠った。一日離れて過ごした影響は、閣下にも現れたのかもしれない。私を必要としてくれているように感じたのは嬉しかった。
いつも通りの風景を取り戻して三日目、お屋敷はいつかと同じようにざわついていた。
朝、お昼過ぎに王妹殿下がいらっしゃると鳥の巣頭さんが閣下に報告して、私はそこで思い出した。
そういえば殿下がいらっしゃること、閣下の様子が気になったりしてすっかり有耶無耶になってしまっていた。
到着直後はお休みいただいて、夕方あたりに閣下と顔を合わせることになったらしい。そしてそのまま夕食を共にするという話だった。
それを聞いた途端、ものすごく胸がもやもやして、一日中落ち着かない気持ちになった。
できれば夕方なんて来て欲しくない。
どうしてかわからないけどそんなことも思った。
だけどそういうときに限って時間は早く進む。
夕方はあっという間に訪れてしまった。
閣下が鳥の巣頭さんに補助されながらいつもよりも少し上等の衣装に着替え、王妹殿下にお会いするための準備は着々と整っていく。お会いする相手は王妹殿下だから、セイレア様たちと接するよりも身形に気を遣っている。当然なのに、それも何だか私の胸を締め付けた。
着替え終わると、衣装に無駄な皺を作らないためにソファに座ることもなく、一呼吸後には閣下が歩き始めた。
落ち着きなく扉の前を塞ぐようにして遠くから閣下と鳥の巣頭さんを眺めていた私は、うな垂れたまま扉の前から横にずれた。本当は退きたくなかったけれど、足止めなんてさせるわけにはいかない。
できれば早く帰って来て欲しいな、と思いながら、閣下と鳥の巣頭さんを見送った。
ううん、見送ろうとした、んだけれど。気がつくと何故か鳥の巣頭さんに抱き上げられてしまっていた。
「キュ、キュウ?」
――え、何で?
魔獣である私、貴重種だけれど魔獣は魔獣。王妹殿下のところへ一緒になどいけないはずで。
ということは、ただ外に連れて行ってくれるだけなんだろうか。
首を傾げる私を鳥の巣頭さんが見て、アハハと笑った。
「よくわかってるなあ。普通なら君を殿下に会わせることなんて出来ないけれど、閣下が連れて行くと言うからね。俺も何故かは知らされてないけど」
「キュウ?」
――鳥の巣頭さんも……?
確かめようと思って前を行く閣下を仰ぎ見たけれど、視線を受けた閣下は私の顎下をするりと撫でるだけで何も言ってはくれなかった。
――どういうことなんだろう?
無自覚に動揺するセレスタ。
ところどころ勘違いしている部分もあります。