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幕間 真夜中の逢瀬 二



 シェザリウスは思い切りカーテンを引っ張る。

 暗赤色の海から、真紅の焔が燃え上がるように、目前に美しい赤が広がった。

 薄色の瞳を目一杯に見開いた少女が白い身体を躍らせ、まろぶようにして飛び出てくるのをシェザリウスは己の胸で受け止めた。

 別段そのままでも構わなかったが、一応は少女が気にしていたのを考慮し、外套の前を肌蹴て包んでやる。二人きりである以上、隠す必要がどこにあるのだろうかと疑問に思いながら。

 ただ、外套を肌蹴たことにより少女の温もりが衣一枚分近くはなった。そのことには満足を覚え、シェザリウスはそっと腕を少女の身体に巻きつけた。

 腕に伝わる柔らかさはこれまでと同じ。だが、立っている状態では幾分少女の頭が低く、寝ているときにはシェザリウスの顎下あたりにあった頭が鎖骨よりもまだ下にあった。

 抱き込んだ少女は目を瞬き、不思議そうにシェザリウスを見上げてくる。

 セレスタと同じ色の瞳。

 眠る少女を眺めながらシェザリウスが毎夜思い巡らせていた瞳だった。


 初めてセレスタが少女へと変化するのを目撃してから今日に至るまで、少しずつ変化の時間は延びていた。

 いつかは朝日が昇るまでその姿を維持し、少女のまま目覚めてくれるのではないかと期待してもいた。

 しかし逆に言えば、そこまで変化の時間が延びなければ目覚めた少女とまみえることはないだろうとシェザリウスは考えていたのだ。

 何せ、セレスタの眠りはいつもとても深い。軽い悪戯や触れる程度では決して起きることはなく、健やかな寝息が乱れることもなかった。

 魔獣から少女になり、少女が魔獣へ戻るという一連の流れをずっと見守っていたからこそ、少女の目覚めまでにはまだ間があるというシェザリウスの予測は確信に近かった。


 ――それが。


 それが、シェザリウスの予想を裏切って今宵、少女は何故か目覚めている。

 いつもであればまだ目覚めぬ時間だというのに。

 常に深かった眠りが何故今日に限って浅かったのか理由はわからないが、腕に伝わる感触は魔獣のふわりとした毛皮ではなく、確かに柔らかな少女のものだ。


 ――馬を潰すほどに駆け戻ったのは間違いではなかったな。


 シェザリウスが少女を見つめたまま、帰館とともにふらついた馬の哀れな姿を思い浮かべていると、首を反らしてこちらを見上げていた少女の大きな瞳が見る間に水を湛え始めた。驚く暇も与えず、少女がさっとシェザリウスの胸に顔を埋める。

 逸らされた視線にシェザリウスは柳眉を寄せた。

 やっと見ることが叶った薄水色の瞳。人形のように眠り続けるのではなく、意思を湛えてこちらを見つめる瞳。それが逸らされてしまったことが、気に入らない。


「……顔を」


 静かに促したが、少女は肩に力を込めて縮まると小さく首を横に振った。

 そのまま押し黙る少女の旋毛つむじを見下ろすシェザリウスの脳裏に、ほんの数時間前に目にした不快な光景が過ぎる。

 恐れ、怯え、醜いものを前にしたときのように顰められる顔。それを隠すように伏せられた頭は、しかし目の前を通り過ぎれば窺うように上げられ、視界の端でシェザリウスを追う。絡みつくような視線で。

 少女もまた、同じなのだろうか。

 やはりセレスタと同じような反応を期待した己が浅はかだったのか。

 そう思うのに、いまだ望みを捨てきれない。


「……恐ろしいのか」


 問うてみて、その答えを聞くのに躊躇う自分に気づいた。

 是、と返ったときに自分がどんな行動に出るのか、シェザリウス自身にすら想像がつかない。己を恐れず温もりを与える存在は、思いの外シェザリウスの胸の奥深くに根付いてしまったようだった。

 微かな動揺により思わず少女に回した腕に力が入る。

 抱き潰せてしまいそうな細く柔い身体だ。

 いっそ、答えなど聞かずにこのまま――。

 頭を掠めていく考えは魅惑的な香りがした。


「私が、恐ろしいか」


 無邪気な毛玉の記憶に縋ってもう一度問う。


「……」


 沈黙は肯定。

 誰かがそんなことを宣っていた気がする。

 ならば少女の沈黙もまたそうであると言うのか。


 胸に広がり始めた黒い靄に突き動かされるように、シェザリウスはゆっくりと腕に力を込めようとした。

 しかしその瞬間、何かを感じ取ったかのように腕の中の少女がふるりと震え、赤い髪を揺らして顔を上げた。

 戸惑い顔の少女の答えを、聞くべきか聞かざるべきか。

 シェザリウスは腕の力を僅かに抜き、換わりに瞳に力を込める。黒い感情を押さえ込み、真意を見極めようと少女のセレスタイトの瞳を覗き込んだ。

 そこに映っていたのは、恐れでも怯えでも、まして嫌悪などでもなかった。


「――閣下は、優しいです」

「……」


 小さな桃色の唇から零れ落ちた言葉は、花のように甘い香りを纏っている気がした。


 優しいなど、生まれて此のかた言われたことなどない。もっと言えば、シェザリウス自身が誰かに対して思ったこともない言葉だった。

 優しいとは何か。どういう意味か。シェザリウスには理解できない。

 ただ少女の表情を見て、負の感情からくる言葉ではないことだけはわかった。


 澄んだセレスタイトの瞳を見つめ続けていれば、ふとそれが蜜のようにとろりと蕩けたような錯覚に囚われる。柔らかく細められた瞳に赤い陰が差す。


「閣下は温かいんです」


 そう言って、少女がぐっと身を寄せてきた。

 布越しでも柔らかな感触は伝わる。薄水色に囚われるシェザリウスの視界の端で、少女の身体が柔らかさを証明するように形を変える。まるでシェザリウスの身体に添い合わせるように。

 押し付けられた柔らかさは凝り固まったシェザリウスの心にまで到達し、温もりまでも伝えた。


 ――温かいのはお前だ……。


 じんわりとシェザリウスの胸に熱が広がる。熱を生じさせない魔法光の明かりではなく、焔の明かりが点ったように。視界までもが鮮明になった気がした。

 同時に、何故か少女が驚いたように目を瞠る。ほんの僅かに彼女の身体が震えたのも密着した部分から感じた。

 少女の表情はくるくると変わる。眠っているときには有り得なかった、眉の動き、長い睫毛を揺らして瞬くさま、弧を描く花弁のような唇。少女の心の揺らぎに合わせて上気する頬は甘い果実を思わせた。

 真紅の髪と同じ色の睫毛の端、薄い朝日に煌く雫に誘われるように、気づけばシェザリウスは唇を寄せていた。

 少女は抵抗せず、抗議の言葉も零れない。


 沈黙は肯定。

 誰かが宣っていた気がする。

 善言だ。

 少女の沈黙は肯定。


 シェザリウスがそっと舌を伸ばすと、ざらりとした睫毛の感触の隙間から甘苦い蜜が舌の上に乗る。

 記憶の彼方にある幼い日の自分が流した涙は塩辛かった気がするが、少女のそれは甘い。ミルクと蜂蜜、タリアの実しか口にしていなかった所為だろうか。

 ならば少女自身もまた甘いのか。

 シェザリウスは浮かぶ疑問に逆らわず、確かめるように唇を滑らせていく。

 逆の瞼に浮かぶ雫もまた甘かった。

 少女はまだ声を発しない。

 円い額、なだらかな鼻筋、小さな鼻の頭。

 果実に似た頬は柔らかく、どこか熱を持っている気がした。

 齧れば甘い気がする。

 しかし傷つけるのは惜しい。

 ゆっくりと唇をおろしていく。

 その先には花弁があるはずだ。

 花弁の先には蜜が付き物。


 もう少し――


「――ああああああ、あの!」

「…………」


 弱弱しい声は否定と取るべきだろうか。それとも、虫の音にも敵わぬ微かな声は沈黙と見なしても構わないだろうか。

 シェザリウスが悩んでいるうちに、唇に伝わる感触も腕の中の少女の身体もぽかぽかと熱を持ち始めた。


 ――予兆か。


 それにしてはまだ魔力の膨張は感じられないが……。


 そう思ったとき、僅かに遅れて温かな魔力が少女の身体から滲み始めた。

 いつものように断続的に収縮を繰り返す。腕の中の熱はいつもよりも高い気がした。


「かかか閣下、あの、私、セイ――」


 少女がか細い声で何かを訴えようとしたとき、フッと熱と魔力が収まる。


「キュ、キュウッ」


 腕に戻った白い毛玉が愕然としたように哀れな悲鳴を上げた。

 そこでようやっと、シェザリウスは自分の失態を悟った。


 少女が何者であるのか。何故このような不可解な変化を遂げるのか。


 何も聞くことなく、少女は魔獣に戻ってしまった。

 何かを言いかけたのも気になる。


 しかし、シェザリウスは満足していた。

 目を細め、重いはずの身体から鉛が抜け落ちたように軽い足取りでうな垂れる白い毛玉を抱き直して寝台へと向かった。

 次の夜に聞けなかったことは聞けばよい。

 そう暢気に考えながら、完全に朝日の昇るまで仮眠をとることにしたのだった。







衝動には逆らわない。それが閣下です。



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