幕間 真夜中の逢瀬 一
シェザリウスは無為な宴を辞すと共に、用意された客間に足を向けることなく帰路を急いだ。
宴はとにかく辟易し、疲れが鉛のように身体に溜まるだけのくだらないものだった。質だけはいい酒に逃げた結果、身体も重く余計にだるくなるという悪循環を引き起こした。
しかし、いくら身体が重くなろうと城で休む気にはなれなかったのだ。否、疲れたからこそ、己の屋敷に帰りたいと思ったのかもしれない。
「お帰りなさいませ、閣下」
馬を飛ばし屋敷に帰り着くと、夜明けが近いにも関わらず侍従に出迎えられた。当然のように他の使用人は休んでいるようだが、セネジオだけが慇懃に玄関先で腰を折る。
帰りは早くても日の昇りきった頃だと言ってあったにも関わらず、予定調和のように姿を見せる侍従に流石のシェザリウスも驚く。
セネジオは顔を上げ、微妙に動きの止まった主を見て苦笑した。
「帰っていらっしゃると思いましたよ。――私室にあのような魔法まで掛けて」
「……」
セレスタが驚いていましたよ、と続ける侍従は呆れ顔だ。
しかしシェザリウスにとっては当然の措置でしかない。セレスタの身の安全を図ったのだから、誰にも咎められるようなことではないだろう。……あくまでもセレスタのためだ。
何も間違ったことをしたとは思っていないシェザリウスは、呆れ返るセネジオに何の反応も返さなかった。
できた侍従は慣れたようにシェザリウスのそんな態度にも構わず手を差し出した。
「閣下、外套をお預かりします」
いつもならここで外套を受け取り、夜着の準備などをするために私室までセネジオが供をする。
しかし今夜ばかりはその動きをシェザリウスは片手を上げて制した。
「いい」
首を傾げる侍従を一瞥して、抑揚のない声で言う。
「ご苦労だった。もう休め」
「……。はい」
滅多に掛からぬ気遣いの言葉にセネジオはこちらも滅多に見せぬ柔らかい表情で応え、真っ直ぐに自室へ向かう主の背を見送った。
◆◆◆◆◆
シェザリウスの私室に向かう廊下に差し掛かると、点された明かりが炎ではなく魔法光に取って代わる。シェザリウスが進む数歩先に橙の薄明かりが点り、足を引くそばから消えていく。まるでシェザリウス自身が発光しているかのように、シェザリウスの周りだけを照らしていた。
気持ちが逸るとはこのことを言うのだろうか。
一刻も早く暖かい毛玉を腹に乗せて休みたい。
シェザリウスの歩調は自然といつになく速くなる。
城での出来事は思った以上に精神的な疲労を蓄積させているようだった。長く晒されることの無かった不快な視線に晒された所為だろうか。宴とて同じで、少なからず羽目を外して騒ぐはずの賑やかな場はどこか余所余所しさが漂い、それを覆い隠すように陽気な声が満ちて、違和感に胸が悪くなった。そのうえ時折窺うような視線がそこかしこから降り注げば、楽しめるはずもない。
うんざりする情景を頭から振り払い、シェザリウスは目の前に現れた扉に手をかけた。
――ガチャリ
寝ているであろうセレスタを起こさぬよう、静かに扉を開ける。
足場を作って行ったから、セレスタは寝台で眠れているはずだ。そう思い、真っ先に寝台へと視線を走らせようとしたが、シェザリウスの目はある一点に釘付けになっていた。
「……」
うねる真紅の髪が翻り、振り返った少女の薄色の瞳が真っ直ぐとシェザリウスのそれと重なる。
「――か、閣下……?」
零れそうに見開かれた少女の瞳は、毎夜想像していた通りどこまでも澄んだ色をしていた。
――セレスタ……
「……あっ!」
心の内で呼びかけたのが聞こえたように、少女は短い悲鳴を上げ、赤い残像を残して跳ねるようにカーテンの後ろへと消えた。小動物のような動きは本能的に追いかけたい衝動を掻き立てる。しかし、シェザリウスは一歩も動けないままでいた。
少女の髪よりも暗い色のカーテンが彼女の身体をすっぽりと覆い隠し、嘘のような静寂が辺りを満たす。
今目にしたものは錯覚だろうか。
――いや、そんなはずはない。
耳だとて涼やかな音を拾ったはず。
シェザリウスは静かにゆっくりと窓辺へ足を進めた。
もっと見たい。
あの澄んだ瞳を。
「あ、あの……! わ、わた、わたし、違うんですっ!」
幻でない証拠に、膨らむカーテンから再びか細い声が聞こえた。捕食して欲しいとでも言っているような弱弱しい声だった。
何が違うと言うのか。
わからなかったが、シェザリウスにとってはどうでもいいことだった。
早くその姿が見たい。人形のようにただ眠っている姿ではなく、その目を開き己を見て、桃色の唇が震える様を。
「……。こちらへ来い」
声を掛けると、カーテン越しに少女の肩が震えた。まるで怯えるように。
さらにカーテンの中で少女が身を縮める気配を感じ、シェザリウスは柳眉を顰めた。
返答もなくカーテンから姿を現さないのは、シェザリウスに恐怖を感じているからか。
セレスタと同じように少女もまた己を恐れず、抵抗なく側に寄ってくると思っていたのは間違いだったのか。
シェザリウスの胸に言い知れぬ不穏なものがじわりと滲み出した頃、意を決したような声がカーテンの奥から届いた。
「わ、私、私あの、勝手に入ってごめんなさいっ!」
――勝手に……?
勝手に入ったも何も、この部屋からは出られなかったはずだ。そうしたのはもちろんシェザリウスで、だからセレスタと同じ存在である彼女がこの部屋にいない方がおかしい。
そう考えたとき、シェザリウスは少女が何を考えているかを理解した。
つまり、魔獣の姿とは違うために不審者と思われているだろうと思い、捕らえられるのではないかと怯えているのか。少女はシェザリウスが毎夜、彼女の姿を目にしていることを知らないのだ。
「で、でもっ」
「わかっている。――セレスタ」
少女の震える声を遮るようにして名を呼べば、ひゅっと小さく息を呑む音が聞こえた。
これで彼女の不安は拭えたはずだ。そして、シェザリウスの胸に広がり掛けていた得体のしれない不穏な何かもまた、形を潜める。
だがそれでも少女は姿を現さず、シェザリウスは焦れたようにもう一度呼ぶ。
「――来い」
同時にカーテンが再び揺れ、少女が肩を震わせたのがわかる。シェザリウスの声は聞こえているはずだった。
では頑なに出てこないのは何故なのか。いっそ邪魔なカーテンなど塵に変えてしまえばいいかと物騒な思いが頭を過ぎったとき、少女が戸惑うように声を発した。
「え、っと……。駄目です、私いま、あの、は、裸で……」
――だから何だ……?
咄嗟に浮かんだ言葉はそれだった。
少女が何も身につけていないのは、重々承知だ。何せシェザリウスは毎晩その肌を素肌の胸に感じている。あまつさえ背を撫でてもいるのだ。その滑らかさも柔らかさも知らないわけがない。さらに言えば、先ほどだとて彼女の身体は薄く白む光の下、既に目にしている。
少女が何を躊躇うのか、シェザリウスには理解できなかった。
暫く黙っていたが、少女からそれ以上の言葉も理由も零れることはなく、痺れを切らしたシェザリウスはおもむろにカーテンへと手を伸ばした。