42.真夜中の逢瀬 二
気づけば私は閣下の腕の中。
閣下はカーテンに隠れていた私を引っ張り出し、直後に羽織っていた薄めの外套の前を空けてその中に私を包むようにして抱き込んでくれたみたいだった。
これだったら裸でも見えないから大丈夫だね。
……うん?
大丈夫なの?
内心首を傾げながらも、あっという間のことで、私は閣下を見上げたまま目を瞬くくらいしか反応できなかった。
一日ぶりにしっかりと見た閣下の白磁の美貌は、白む朝日に浮かび上がり、いっそう冴え冴えとして見える。間近で見てもやっぱり閣下は無表情で、何の感慨も浮かんでいないように見えた。
今の私を見て、どうして驚かないんだろう……?
冷静に見える閣下。その動かない表情は、全身が白で統一された姿と相俟って、どこか冷たい印象を与える。
だけど私はその腕の中がとても温かいことを知っている。背に回された腕の優しさも。
だから今も、こんな状況なのに勝手に身体から力が抜けていってしまう。閣下に会えない一日の緊張感と不安が、一気に解けていくみたいに。
慣れた温もりに包まれた安心感で、思わず泣きそうになった。
――閣下だ……。本当に閣下だ……!
どうして今の私をセレスタと呼んだのか、
どこへ行っていたのか、
どうして閉じ込めたりしたのか、
……どうして、独りにしたのか……。
自分勝手な思いも含めて聞きたいことはたくさんあるのに、急激に込み上げてきた嬉しさに押し流されてしまう。
閣下の声、
閣下の腕、
閣下の瞳、
閣下の体温、
閣下の、匂い。
どれも私の緊張を無防備なまでに解いていってしまう。
――私、どうしちゃったんだろう……。
一人で泣きそうになって、きっとすごく変だと思われてる。
それがわかっていても、次から次へと胸に込み上げてくるのはよくわからない熱で、対処の仕方が全然わからない。
私はそれ以上閣下の顔をまともに見ていられなくて、慌てて俯いた。
顔が熱い。
胸に込み上げた熱が全身に回って、特に顔に集中したみたい。今の私はきっと、髪と同じくらいに顔が真っ赤だ。
一日離れていた閣下に会えて、こんな状態なのが恥ずかしいけど嬉しくて、嬉しいけれど恥ずかしい。
私は閣下の胸に思い切り抱きついて頬を摺り寄せたいのを必死で我慢していた。セレスタのときは感覚が魔獣のものだったから遠慮なくそうすることが出来たけれど、今の私には到底出来ないことだった。
それでも胸に顔を埋める形になっているから、閣下の爽やかで少し甘い香りが胸いっぱいに広がる。
――会いたかった
不意にそんな言葉が胸に転がった。
離れていたのはたった一日なのに、胸が苦しくなるくらい寂しかったんだと、たったいま自覚した。
でもこれはきっと心が弱っていた所為だ。魔獣の身体のこと、セイレア様のこと、色々考えなくちゃいけないことがあって、混乱していた。それなのに突然一人にされて不安だった。だから閣下の帰りが泣くほど嬉しいんだ。……きっとそう。
言い聞かせている私の内心には気づかないように、閣下の静かな声が降って来た。
「……顔を」
……顔?
上げろって意味、かな……?
でも今は無理だ……。嬉しくて泣きそうだし、……服が無いから恥ずかしいし、それから、……セレスタだってわかってくれたことも嬉しくて、でも何故か苦しい――。
小さく首を振って黙っていたら、私の背に回る閣下の腕に少しだけ力が入った。
「……恐ろしいのか」
――え?
今度はどういう意味だろう。
恐ろしいって、何が?
急に人に戻って、という意味なら、恐ろしいというよりも落ち着かない。嬉しいと思う反面、何故か不安も拭えなくて、単純に喜べない自分に戸惑っている。
だけど恐ろしいなんてことは無いと思う。だって、この姿が本当の私だから。そういう点では生活していくのに恐怖は覚えない。
……そういう意味じゃ、ないのかな?
私が返事に困っているのに気づいたのか、閣下が静かに続けた。
「私が、恐ろしいか」
「?」
――閣下が? そんなわけないよ!
私は慌てて首を振り、頑なに俯けていた顔を思わず上げてしまった。
どうしてそんなこと言い出すんだろう? 私はずっと閣下に助けられていて、支えられていて、今だって閣下に包まれてすごく安心している。恐ろしいとは正反対の気持ちだ。
見上げた先には何故だか揺らぎながら、それでも強く射抜くような閣下の瞳があった。
灰青に囚われる。
私と似ているようで、違う色の瞳。
いつもは湖面のように静かなその瞳が、今は波立ち強い感情を滲み出させているみたいに見える。でもその感情が何なのかまではわからなかった。
ただ、私は見入られたようにしてその瞳から目を逸らせなくて、胸に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。
「――閣下は、優しいです」
「……」
唐突な私の言葉にも閣下は真意を確かめるようにじっとこちらを見下ろしたまま、何も言わない。でも今度の沈黙は苦しくなかった。だって閣下の瞳には、私を不審者だと疑う色はなくて、まして咎める風でもない。セレスタのときとそれほど変わらない険の無い瞳だったから。
「閣下は温かいんです」
「……」
そう言って、拒まれないのをいいことに、ほんのちょっと、ほんの気持ちだけ、身を寄せる。怖がってなんかいない、っていうことをわかってもらいたくて。
後で考えれば恥ずかしすぎる行動だったけれど、このときの私にはそんなことを考える余裕がなかった。現実感がなかったのかもしれない。
閣下は暫く黙っていた。
そんな閣下をずっと見上げていて、流石にちょっと首が……、と思って少しだけ俯こうとしたら、閣下がふっと灰青の瞳を細めたかたと思うと、小さく唇を引き上げて、
――笑った。
閣下の笑顔は一度だけ見たことがある。
だけど今度のそれは以前のときよりもずっと優しい微笑みだった。
私の身体は今は毛に覆われていないはずなのに、全身の毛がふわっと浮き立つような、足の先から頭のてっぺんまでを喜びが包んでいく。
――閣下が笑ってる……!
そう何度も心の中で繰り返した。
もしも私がいまセレスタの姿だったら、きっと閣下の胸にぐりぐりと頭を擦りつけていると思う。閣下の腕に抱かれていなかったら、ぴょんぴょんと絨毯の上を転げ回っていたかもしれない。
それくらい、嬉しかった。
バルコニーの前で初めて閣下の微笑みを見たときには驚きの方が勝っていたのに、今はずっと喜びの方が大きくて、おかしいくらいに鼓動が高鳴っていた。それは少し息苦しいと思うほどに。
「…………」
滅多に見られない閣下の微笑みを少しでも長く見ていたくて、首の痛みも忘れて見つめる。どうして笑ってくれたのかなんて考える余裕は欠片もなかった。
今までも閣下は精巧に作られた人形のようだと思ったことはある。太陽の光を弾く姿も、月に照らされて浮かび上がる姿も、どちらもいつでも綺麗だった。
だけど、今見せてくれている微笑が、どんな閣下よりもずっと綺麗で優しくて、暖かいと感じる。
こんな無防備な微笑みを見せてくれたことが、嬉しくてたまらなかった。
そうやって閣下に見惚れていた私は気づくのが遅れた。
あれ、と思ったときには閣下の白く綺麗な顔が間近に迫っていた。
その近さに動けないでいるうちに、触れ合うほどの位置にまで降りて来た閣下は、また一瞬ふっと吐息みたいな微笑を零して、そのまま私の瞼に唇を寄せた。
「!!」
驚きのあまりビシッと固まった私にお構い無しに、閣下の唇は次々と進む。
反対の瞼、額、鼻筋、鼻の頭……
――かかかかか、かっかっか!
あれ、“か”が一つ多い?
じゃなくって!
内心悲鳴を上げているのに全然動けない!
閣下ってばまた何か魔法をっ?って思ったけれど、そんな様子は微塵もなかった。
――こ、これは一体どうしたらいいの……!?
混乱している間にも閣下の唇は進んでいく。
しっとりとしていて、見た目とは違う暖かい感触。
瞼を過ぎる瞬間に、ちろりと滲んだ涙を掬い取られたような気がしたけど、きっと気のせいだ。過ぎていったあとにひんやりと濡れた感じがしたなんて、考えちゃ駄目!
閣下の唇はこめかみを通って、ゆっくりと頬を滑っていく。
「――ああああああ、あの!」
私は震える声を振り絞った。
――だって! このままじゃ唇にくっついちゃう……!
「…………」
私の掠れた声に閣下はぴたりと動きを止めた。
――あ、危なかったよ……!? 閣下、目は開いてる……!?
あとほんの少し声を掛けるのが遅かったら、唇に触れちゃいそうだった。
閣下の美貌が近くて、一度開けた目もぎゅっと閉じる。
さっきの比じゃないくらいに全身が熱い。燃えてしまいそう!
ああもう、これは絶対現実だ!
だって心臓が……、心臓が壊れそう……っ!
人間の姿に戻ったときから、閣下に抱きしめられて瞳を見つめているときまでずっと、目の前のことの全てがどこか現実味に欠けていた。足元がふわふわしているような感覚。
それがおかしなことに、意匠によって端整込めて作られたような美貌を持つ閣下の、薄く綺麗な唇が顔中に降ってくるという嘘みたいな状況になって、初めて私は現実に立ち戻ったようだった。
――そ、そうだ! セ、セイレア様のことを……!
唇のぎりぎり端で止まったままの閣下。耳に息遣いまで届く、零の距離。
そんな状態での沈黙が耐えられず、私は半分叫ぶように声を発した。口をあまり動かせないから、虫の声よりずっと頼りない声しか出なかったけれど。
「かかか閣下、あの、私、セイ――」
そう言いかけたとき。
唐突に身体がぽかぽかとしてくるような感覚に襲われ、言葉を詰まらせる。疑問に思う暇もなくて、断続的に高まった熱は、フッと力が抜けるような感覚と共に呆気なくおさまった。
「キュ、キュウッ」
やっぱり夢だったの……?
気づけば私の身体は白い毛皮に覆われた魔獣のそれに変わっていた――。
閣下寸止め。もしくはお預け。
もっと会話させるつもりが、閣下の暴走にあい断念orz