幕間 疾駆
「閣下、お気をつけて」
セネジオの見送りに小さく頷いて、まだ空が白んでもいないうちから屋敷を後にする。怯える馬を宥め透かし、馬首を王都へ向けた。
ベルツバラム領は王都の隣に位置する、それなりに大きな領地だった。もっと辺境へ飛ばしてくれることを望んだが、シェザリウスの立場上、また抱える問題のためには仕方の無いことだとも理解している。だからこそ、この数年間は甘んじて領を任されてきた。
だがこれも無駄ではなかったようだ。今は王都に程近い地に居てよかったと思う己がいる。
ベルツバラム領から王都まで馬車ならば半日かかるとしても、馬を飛ばし、さらに風魔法を駆使すればかなりの時間短縮になる。数時間で王都に入ることができた。
登城要請に応じて出立したが、長居をするつもりは毛頭ない。無駄な気遣いにより引き止められる可能性もあるが、それでも翌日の朝、遅くとも夕方のうちには屋敷へ戻るつもりだ。
部屋に残して来たセレスタのことが気になった。
シェザリウスの脳裏に、出立前に見た寝台の上の白い塊が浮かぶ。
セレスタは昨晩どこか様子がおかしかった。必死に平気な振りをしようとしていたようだが、明らかに不自然。見逃せるはずもない。
そのうえ普段ならば、眠るときに腹の上に乗せればそのまま大人しく数瞬で夢路へ旅立つというのに、昨日は違ったのだ。まるで寒さに震え温もりを求めるように背中を押し付け、密着して眠ろうとしていた。お陰で赤い髪の少女も背を向けており、あまり表情を窺うことが出来なかったのだ。
いつもと違う体勢に困惑しながらもそっと覗き込むようにして見た少女の眉間には薄く皺が出来ており、魔獣の姿のときよりも心境が如実に伝わる。その表情を見れば、己の知らぬところで何かあったのかもしれない、という疑念は確証に変わった。
昨日のセレスタは、確か昼間に令嬢の一人と面会していたはずだ。名前は忘れたが、確か蜂蜜色の髪をした人物だったか。
その令嬢との面会で何かあったのか。
セネジオに聞いてみたところ、見張りにつけた侍女長が席を外していた間に令嬢が体調を崩したという。変わったことはそれだけだったと言うが、果たしてそれだけのことでセレスタが気に病むだろうか。しかし他に思い当たる節が無い以上、その場で何かあったのは間違いないだろう。
――やはり外に出すのは危険だ。
シェザリウスはそう思った。
部屋の外へ出る度に、セレスタの身に何かが起きる。それも、自分の与り知らぬところで。守ってやりたくとも、いつも一歩出遅れる。内庭での出来事でそれを実感していたというのに、令嬢との面会を無理にでも止めなかった己に、シェザリウスは臍を噛んだ。
守ってやりたいと思うこと自体、シェザリウスにとっては今まで経験したことのない感情だ。何をすれば守ったことになるのか、そもそも守るとはどういうことなのか。理解が及ばず、悩んだ末に出した結果が、扉に掛けた魔法だった。
セレスタの身に何か起きれば感知できる、という範囲に自分がいるときはいいが、今日のようにそうでないときは部屋から出さないことに決めたのだ。
セレスタが部屋の外へ出られないのなら、外で傷ついて帰って来るようなことは起こらないだろう。閉じ込める形にはなるが、そもそも長く側を離れるつもりもないのだから少しの間ならば問題ないはず。
それだけでなく、不埒な輩はもちろん扉からも窓からも侵入できないような魔法にしてある。貴重種であるイェオラの存在は既に蜂蜜色の髪をした令嬢に知られており、セネジオに注意を払うようには言ってあったが、万に一つもどこかから情報が洩れ、醜行を企む者が現れてもセレスタに触れるどころか部屋にすら入れないということだ。
扉を自由に通り抜けられるのはシェザリウスとセネジオだけである。
セネジオはあれでなかなかセレスタを気に入っている。動きが面白いとかいうよくわからない理由のようだが、もしも夜に自分の元へ引っ張り込むようなことがあったら……。
――……気に入らん。
シェザリウスは嫌な想像に柳眉を薄く顰め、鼻を鳴らした。
セネジオにはセレスタの世話もしてもらわねばならないが、だからといって己がいないところで宜しくされるのは不快だった。
だが、掛けてきた魔法ならばその点でも安心だ。
セネジオ一人ならば出入りが出来るが、セレスタだけは通り抜けられないようになっている。セネジオも多事に追われているだろうから、眠るとき以外は長くセレスタに構ってはいられないはずだ。そして、時間の取れる夜にセレスタを側に置こうと思っても、セレスタは部屋から出られないだろう。セネジオはどんなに慇懃無礼に見えても分を弁えているいるため、主の部屋で一晩過ごそうなどとは考えまい。
これで、二人が夜を共に過ごすなどということは起こらないはずだ。
セレスタには窮屈を強いることになるが、仕方が無い。精神衛生のためだ。――シェザリウスの。
◆◆◆◆
昼前には予定通り、城に上がることが出来た。
後は円滑に謁見が終了すれば、あるいは今日中に帰館できるか。
そうシェザリウスは検討を付けながら、勝手知ったるとばかりに場内を闊歩し、用意されている客間へと急いだ。
場内に居並ぶ輩からの視線が鬱陶しい。此処は相変わらずのようだ。
通り過ぎる度に向けられるのは、まるで人外を見る目。むしろ魔獣を眺めるときの方が余程愛情深い目をしているかもしれない。皆一様に通り過ぎるシェザリウスから視線を反らし、出来る限り距離を取ろうと後ずさる。それでいて視界の端から様子を窺っているのだから、何がしたいのか全くわからなかった。
セネジオがセレスタと二人きりだと思うよりも数段不快だ。
だが、これもセレスタのためと思い耐えるしかあるまい。
シェザリウスは意識を周囲から反らし、セレスタのことだけを考えるよう努めた。
セレスタのために仮面を外せば、必ず城からの呼び出しが掛かることは目に見えていたことだ。セレスタの先を思うと、これも必要なことだった。
そう自分に言い聞かせても、どうしても不快が拭えぬのも仕方がない。セレスタと出会い、この不快感はいや増した気がする。己を受け入れてくれる存在が、拒絶する存在を余計に浮き彫りにしているのかもしれなかった。
シェザリウスは屋敷では見せぬ冷たい光を灰青に湛え、周囲の視線を振り払うように前だけを見据えて客間へと滑り込んだ。
謁見の許可は取ってあったはずだが、思いのほか時間が掛かった。気づけば日が傾き始めている。
時間潰しにセレスタの様子を窺おうかと思ったが、仮面を装着したまま遠く離れた気配を探るのは容易でなかった。
仕方なく何をすることなくソファに横になっていたのだが、窓から橙色の光が差し込む頃、やっと案内役が訪れた。
シェザリウスは扉の手前で萎縮し怯える女官に一瞥をくれることもなく脇を擦り抜け、謁見の間へと向かった。重厚な扉の両脇を固める甲冑姿の騎士でさえシェザリウスの姿を目にして一歩扉から距離を取ったが、それも無視して躊躇うことなく真紅の絨毯を踏みしめた。
「良くぞ参りました。――面を」
膝をつき、垂れていた頭を声に応じて僅かに上げる。
遠く、豪奢な玉座に座するのはシェザリウスよりも年若く見える黄金髪の王だった。
シェザリウスが記憶しているよりも幾分精悍さを増した気がする。カンラン石の瞳を眇める様は威厳を漂わせ、王という仕事が板についてきたように見えた。――だからといって感慨が湧くほどのものでもないのだが。
それにしても、いくら王の気位を備えても敬語はどうやっても直らないらしい。既に立場はシェザリウスの方が下だというのに。
「此度の登城に於いては足労を掛けました」
労いの言葉に、シェザリウスは静かに小さく頭を下げる。出来ればさっさと本題に入って欲しかった。
その気持ちが伝わったのか、あるいは同じ場に居ることに苦痛を感じ始めているのか。王は短い沈黙の後、おもむろに口火を切った。
「侍従からその故聞いていると思います」
「……是」
短い応えに頷き、王は続ける。
「貴方が仮面を外したこと、私も肌で感じました。顛末を報告して頂けますか」
シェザリウスはまた一つ頭を下げると、そのままの体勢で奏上し始めた。
「屋敷の裏の森でイェオラを拾ったことはご報告申し上げた通り。イェオラ自体貴重な種であるが、それ以上にあれには不可思議な点が見受けられた。生息地でない場にいたことではなく、あれ独自のものです。――真偽を確かめるのに力の解放を」
「不可思議な点、ですか」
「……あれは人語を解します」
「人語を……?」
「元は人。人間の少女かと」
広間内がざわりと小さくどよめいた。シェザリウスは気にすることなく続ける。
「しかし魔獣の姿の性は雄。……何かの魔法が掛かっている可能性が」
「人を魔獣にする魔法など聞いたことがありませんが……。可能性、と言うからには、貴方の力を解放してもその魔法がどのようなものかまでは判明しなかったと?」
「是」
長時間に渡って戒めである仮面を外すことは、身に秘める膨大な魔力のために己だけでなく周囲へも影響が出る。その所為で短時間しか力を解放できず、セレスタに掛かった魔法が何であるかまではわからなかったのだ。ただ森での魔力の痕跡と同じように、いくつかの魔力が折り重なっているように感じただけだ。
「……珍しいですね。貴方が鎖を解いてまで何かに関わるとは。しかも、正確に把握できるとも限らない原因を探るために。
その仮面は貴方にとって鎖であり盾であり命綱でもあること、誰よりも貴方が理解しているのでしょう? ……解放すれば貴方の命を削ることになる」
「…………」
シェザリウスは無言だった。
本来、最高権威である王にそのような態度を取れば不敬として牢に放り込まれてもおかしくないが、シェザリウスは色々な意味でその対象の枠からは外れていた。それを承知で、話したくないもの、話すべきでないものは平気で口にしないのがシェザリウスだ。口に乗せる敬語でさえ、意識の底に僅かに残る“建前”として使っているに過ぎない。
「理解していて尚、確かめずにはいられなかったというわけですか」
「……。私と、その周辺で起こったことは国と民に影響のない限りは不干渉だと」
妙に絡んでくる王の言葉に、気づかれない程度に吐息を零してそう宣えば、金の眉が小さく寄った。その表情は不快ゆえか、哀れみゆえか、それともまた別の感情ゆえなのかはわからなかった。
だが、シェザリウスの言わんとするところはわかったのだろう。王はそれ以上言葉を重ねはしなかった。
シェザリウスは自身への干渉を嫌ったのだ。そして、先の言葉にはもう一つの意味がある。それを正しく理解して、王は謁見の間に居並ぶ重鎮から騎士、女官に至るまで緘口令を敷いた。
これで、セレスタのことが大っぴらに広まることもないだろう。人の口に戸は立てられないだろうが。
しかし多少の抑止力には間違いなくなるはずだ。
それに、ここへ来たもう一つの理由が達成されれば、セレスタはもう珍妙な魔獣ではなくなるはず。そうなれば、及ぶ危険もなくなるだろう。
そのためにもシェザリウスは王への催促を忘れなかった。
「アリアンナに至急来館願いたい」
王は僅かに逡巡を見せ、しかしシェザリウスの滅多にない願いに突き動かされるようにして頷いた。
「貴方には恩がある。貴方がそれを望むなら。ただし、今後その仮面を外すことは許しません。
そのために姫巫女殿が必要である、と理解してよろしいですか」
シェザリウスは頭を垂れて答えた。
「……わかりました。私からも出来る限り早めるよう言っておきましょう」
報告も済み、アリアンナに関しての言質を取れば、あとは用がない。
シェザリウスは一応深く礼を取った後、許可を得るまでもなく白い衣を翻して玉座に背を向けた。
「お待ちください。ささやかながら宴を用意してあります。せめて、今宵は城でゆるりと過ごすように」
――やはり。
余計なことを、と思わなくもなかったが、流石に王の誘いを臣下の居並ぶこの場で無碍にすることはできず、シェザリウスは仕方なく小さく頷いて謁見の間を後にした。
カンラン石=ペリドット。